トランシルバニア(現在はルーマニアの一部、当時はハンガリーの一部)で 1902 年に生まれた。1927 年にかれはウィーン大学の数学科に入学して、1931 年に博士号を取得。かれはカール・メンガーの弟子で、すぐにウィーンの銀行家・経済学者カール・シュレジンガーに紹介され、シュレジンガーはこんどは、当時ウィーン学団 (Vienna Colloquium)が検討していたワルラス と カッセル 体系の問題を紹介した。
ワルドは、ワルラス-カッセル体系について 3 つの論文 (1935, 1936a,b) を執筆した。ここでかれは重要な「二重性原理」を使い、かれが(シュレジンガーとともに)ワルラス-カッセル一般均衡システムのために開発したcomplementary slackness conditions を使った――これは counting-equations- and-unknowns 手法を不要にしたけれど、ヴィーゼルの転嫁理論を経済学に呼び戻し、線形プログラミングを経済学に持ち込んだ。ワルドの第三の論文は特に重要で、線形プログラミング以外にもいくつかの要素を貢献した。ワルドの論文はまた、経済学における一般均衡系において均衡の存在を初めて証明したものだ。それはまた、いくつか重要な概念を導入した:weak axiom of revealed preference (WARP) ――ポール・サミュエルソンが後に採用して発展させるものだ。ワルドはまた、それが aggregate でも維持されるかどうかという問題を(ちょっとだけ)扱った(この問題は 1970 年代半ばまで無視されて答えが見つからなかった)。かれはまた、「gross substitution」の原始的な形を定義して、均衡の一意性の証明を提供した。また、こうしたツールを使ってかれは、クルノー複占モデルにおける均衡の存在を考えた。
ワルドは数学者だったので、当然ながら自分の死後の「経済学的」重要性についてはあまりよくわかっていなかった。かれの業績が経済学に対して持つ驚異的な意味は、後にサミュエルソン、アロー、ドブリュー、コウルズ委員会が認識して発展させることになる。
ワルドはまた、同時期に統計に傾倒した(ビジネスサイクル研究や経済指標の理論と実践の両面において)。1938 年、ナチスがオーストリアを侵略して、併合が進行してから、ウィーン学団も解消された。ワルド自身もすぐにナチスにクビにされ、かれはオーストリアを離れてコウルズ委員会の招きを受けた。やがてコロンビア大学に流れ着き、統計理論の研究を続けて、重要な貢献をいくつか行った。たとえば「sequential analysis」 (1947) の展開や、現代の計量経済学で実に多用される、有名な「ワルド検定」 (1939) などだ。
エイブラハム・ワルドは、1950 年にインド上空の飛行機事故で、悲劇的なほど若くして死亡した。
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