マリ=エスプリ・レオン・ワルラス (Marie-Ésprit Léon Walras,) 1834-1910

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 フランスの経済作者レオン・ワルラス(正式にはヴァルラッセと発音する)は、ジョセフ・シュムペーター が「最高の経済学者」 (Schumpeter, 1954: p.827) と讃えている。ワルラス派限界革命三巨頭の一人とされる。とはいえ彼の最大の著作である『純粋経済学要論』は 1874 年に刊行され、他の二巨頭であるウィリアム・スタンリー・ジェヴォンスとカール・メンガーの著作はその三年前に刊行されたのだけれど。

 それでも、三巨頭のなかでレオン・ワルラスは新「限界派」または「新古典派」理論を、定式化された一般均衡の枠組みで提示した。つまり、ジェヴォンスがほとんど避けた多市場の検討を提示し、メンガーが嫌った数学的な厳密性も持っていた。レオン・ワルラスは一般に、一般均衡理論の父として正しく認知されている。

 ワルラスの生涯は、どんな 伝記を見てもだいたいわかる。フランスの原限界派経済学者で教師だったオーギュスト・ワルラスの息子として誕生。パリで小説家兼美術評論家としてボヘミアン生活を送ってから、レオン・ワルラスはすぐにあらゆる面で父の後を継いだ。課税と土地改革については父の社会主義政策を採用した(実はかれは、土地の全面国有化を主張した)し、経済学理論の主要な点でも父と同じだった(価値の主観理論、経済学の数学化)。協同組合運動で何年か成果を出せないまま過ごしてから、ワルラスは 1870 年にローザンヌ・アカデミーに任命される。そこでワルラスは、問題作『純粋経済学要論』 (1874) の初版を執筆刊行したのだった。

 レオン・ワルラスの『要論』は、現代経済学者のほとんどにはおなじみだろう。そこには現在の一般均衡理論に見られるほとんどが含まれているからだ。ワルラスの『要論』はだんだん複雑さと一般性を増すような書き方になっていて、その8つの章は以下のようにまとめられる:

  1. 経済学の範囲の定義、価値の主観理論、数学的手法。
  2. 財が二つの場合に、需要と供給が効用最大化から導かれる場合の純粋な交換を論じる。「競売人」と安定のtatonnement 過程がここで導入。
  3. 多市場の純粋交換を導入。「方程式の数と未知のものの数」を数えて存在を確認。競売人のいる多市場tatonnementを検討。
  4. 利潤ゼロの生産者による生産を組み込む(初期の版では、技術を固定している。後の版では、技術が柔軟になり、つまり限界生産性理論が出てくる) ; 要素需要が財の間接的な需要として導かれることを示す (「ワルラス=カッセル」モデルを参照)。
  5. 資本の理論を導入; 将来収入の資本化を含み、貯蓄と融資の理論を提示。
  6. お金のencaisse desirée理論を提示。お金は将来のサービスを提供するものだと考え、したがって一般選択問題において「望まれる」と主張。
  7. 連続的な市場と成長する経済について検討。
  8. 不完全競争と独占に関する考察。

 『要論』刊行後、ワルラスはアメリカからロシアに至るまで、当時の重要な経済学者のほぼ全員と文通しようとした。自分の新理論を広めようとしたのだ。数学能力の高い若きイタリア人たち (e.g. バローネパレート) やアメリカ人 (e.g. ムーアフィッシャー) は共感して支持した。だがほとんどの場合は、同時代の経済学者や数学者からはもっぱら無視されるか黙殺された。

 1893 年にワルラスは、若き弟子ヴィルフレード・パレートに自分の地位を譲り、二人は後にローザンヌ学派と呼ばれるものの中核(人によってはその全体)を構築することになる。二人とも、理論面のほとんどでは合意していたが、その後の研究プログラムの細部は、ワルラスの当初の配慮よりはパレートの関心によって左右されていた。

 ワルラスは 1874 年の『要論』をもっと大きな業績の一部として構想していた。だが 1890 年代にはワルラスの精神状態がおかしくなりはじめ、当初の構想通りにこの一大作品を完成できるかどうか怪しくなりはじめた。そこでワルラスは慌てて二巻『社会経済学研究』 (1896) と『応用経済学研究』 (1898) を発表した。これは刊行済みの論文集に毛が生えた程度のものだが、ワルラス自身はこれを『要論』を補うものだと考えていた。それを物語るものとして、1874 年の『要論』の副題は「社会的富の理論」で、1896 年の本の副題は「社会的富の分配理論」、1898 年の本は「社会的富の生産理論」となっている。かれはこの三巻すべてが、かれの一般経済学理論において一体となった不可分の重要な柱だと考えていたのだった。

 不幸なことに、ほとんどの経済学者はこの後の二巻を「軽い」代物として黙殺した。あるいはもっとひどいことに、社会主義政治の主張だとして扱った。今日でも当時と同じく、ワルラスの「真の」貢献は『要論』だけだと思われている。だが一部の経済学者はいまでも、後の二巻が考慮されていないがために、現代のネオワルラス派一般均衡理論はワルラスの当初のビジョンを全般的にも個別の点でも遵守していないと考えている。

 現代の経済学者たちはまた、『要論』の後期の版 (1896) でワルラスが分配の限界生産性理論を考案したのは自分だと主張し (そして自分が先だと主張したウィックスティードを論難)しているのを無視した。何ら事実にもとづいておらず、悪意に満ちているとさえ言うのだ。ワルラスがこの理論をエンリコ・バローネから学んだことは広く知られている (ただし驚くべき偶然ながら、ワルラスはこの理論をローザンヌの数学者ヘルマン・アムシュタインから、1877 年に紙切れに書いて手渡されているのだが、当時はまだ数学理論の理解が不十分で、まったくわけがわからなかったという!)

 ワルラスの人生最後の十年は、悶々とした孤独なもので、自分の業績が無視されたことを怨みつつ、老人性痴呆症と精神病で何もできない状態となっていた。1910 年に死亡。

レオン・ワルラス主要著作

レオン・ワルラスに関する各種リソース


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