マリー・ジャン・アントワーヌ・ニコラ・ド・カリタ・コンドルセ侯爵 (Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, Marquis de Condorcet), 1743-1794.

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Portrait of Condorcet

 フランスの哲学者、数学者、社会科学者、経済学者、紳士、政治家、人道主義者だったコンドルセ侯爵は、革命のときに現場にいた唯一の啓蒙主義の巨人だった。

 サン・カンタンで生まれ、ナヴァールで教育を受けたコンドルセは 1762 年にパリにやってきた。1765 年にコンドルセは数学の初の研究を刊行。1769 年には栄えある「アカデミー・フランセーズ」会員に選ばれた。1773 年からは、「アカデミー」終身秘書官となった。

 コンドルセはヴォルテール、ディドロ、そしてだれよりもジャック・テュルゴーの仲間に入る。テュルゴーは死ぬまでかれの導師であり続けた。経済問題の探求を進めたのもテュルゴーだ。

 かれの「社会数学 mathematique sociale」は啓蒙主義の合理主義を利用して、社会経済現象を数学的(あるいはもっとよくあったのが統計的)手法で説明しようとした。かれは、古典的合理主義を感傷で変えようというルソーの試みからは距離をおいて、理性を数学的水準に高める方を好んだ。だからコンドルセは、唯一の社会的義務とは、一般の「意志」に従うことではなく一般の「理性」に従うことだ、と論じた。こうして、多数派の意志はそれが理性と一致しないものであれば、自動的に廃棄される。

 コンドルセは社会進歩の楽観論者で、人類が究極的に「完成可能」だと信じていた。マルサスの人口ドクトリンは、部分的にはコンドルセの発想への反論だった。コンドルセの研究プログラムは、フランス革命の後で丸ごと破棄された――とくにJ.B. セイが、フランス理論を非数学的なイギリス政治経済学のほうに向けようとしてからは。

 ジャック・テュルゴーの友人だったコンドルセは、1774 年にテュルゴーに造幣総監に任命される。テュルゴーがクビになったので、かれも1776 年に抗議の辞職をしたが、それでもそのまま 1791 年までその地位にあった(その間に、テュルゴーの解説的自伝を書き、多数派の嗜好の自動化に関するコンドルセのパラドックスについて 1785 年に書いている)。

 コンドルセは 1789 年フランス革命で指導的な役割を果たした。この革命はかれにとって、自分の「合理主義的」な社会再構築にとって大きな希望を宿しているものに思えたからだ。でもかれはルイ16世の処刑に反対票を投じ、ジロンド派の逮捕にも反対した。こうした信念を貫いた動きの結果として、コンドルセはジャコバン派から裏切り者として糾弾され、1791 年に身を隠す。この時期にかれは、人間精神の進歩に関する偉大な人道的考察 (1795) を執筆した。1794 年についにつかまり、監獄の中で自殺したと奉じられているが、殺された可能性も否定できない。

コンドルセ侯爵の主要著作

コンドルセに関するリソース


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