啓蒙主義経済学者たち (The Enlightenment Economists)

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Jean Honore Fragonard's

 一般に啓蒙主義の時代は 18 世紀半ばに始まるとするのが普通だけれど、でもそれを 17 世紀末にまでさかのぼらせてもあまり無理はない。というのも啓蒙主義は、科学と合理主義哲学の台頭に伴うもので、その価値を増幅させて現代の政治社会思考に持ち込んだものだからだ。啓蒙主義の精神が当時の経済学的思考にも影響したことだって、不思議でもなんでもないだろう。

 ヨーロッパ一般では、18 世紀は17 世紀と比べて実にありがたいほどゆったりしたものとなった。だんだんと、血まみれの槍に声高な聖典談義は、粉振りかつらと洗練されたウィットに道を譲った。スペインとオランダの栄光が戦争に疲れた過去へと消え去り、大英帝国は比較的後進国のままだったので(とはいえ、これから来るべき偉大なものの約束をはらんだ存在ではあったけれど)、18 世紀は明らかにフランスの世紀だった。それはフランスにとってのGrand Siècle(大世紀)――太陽王で始まった世紀、ヴォルテールルソーphilosophes、ディドロの『百科全書』の世紀だ。18 世紀中ずっと、フランスはヨーロッパと全世界を政治的にも経済的にも、文化的にも科学的にすらも支配した――その支配が唐突に終わるのは、1790 年代と 1800 年代初期の大流血によってのことだった。

 この典雅な時代の社会思想家にとってのキーワードは、その一人であるモンテスキューが述べたように「自然」だった。社会も科学のように自然法則を持ち、それが望ましいもので逆らいがたいものなのだ、という発想だ。結果として政治経済は、商人や役人といった実践者たちの独占領域ではなくなり、「道徳科学」に祭り上げられることになって、人間活動の経済領域における自然法則を発見しようと務めるものになった。

 主要な分析ツールは、経済の「自然状態」だった。つまり、経済のいろんな力が「自然なバランス」または「均衡状態」にあるという、理想化された状態だ。このビジョンを創始したのはピエール・ル・パサン・ド・ボワギルベール (Pierre le Pesant de Boisguilbert) で、それを最高に表現したのはリチャード・カンティリョン (Richard Cantillon) (1732) だっただろう。この見方はその後永遠に、経済理論のほとんどすべてを支配するようになる。カンティリョンの主要な問題意識は、「所得のフロー」の自然バランスにあった。だから、古い重商主義的な、富の蓄積や富のストックへのこだわりからの離脱の口火を切ったのはカンティリョンだということになる。

 経済思考における革命といっていいほどの動きとして、カンティリョンはフローの自然バランスを維持するのは「自然価格」であると論じた。この自然価格は、一時的な市場価格の重心となるものだ、というのがかれの議論だ。その後二世紀にわたり、何が自然価格を決めるのか、というのが経済学者のこだわるテーマとなるのだった。農業が優勢なフランスで著述をしていたカンティリョンは、財の自然価格は土地ではかった精算の相対コストで決まると結論づけた。というわけでかれは、「価値の土地理論」とでも言うべきものを作った。生産に必要な土地が多い財は、少なくてすむ財に比べて、価格が高いほうが「自然」なんだ、ということだ。一時的な市場価格は、各種の力のバランスで決まる。つまり効用に基づいた需要と供給のバランスだ。でも、長期的には、そんなものはあっさり無視できる。というのも、市場価格はなんだかんだ言って、いずれ自然な土地ベースの価格に近づくからだ、と。

 カンティロンの、経済に対する「科学的」な見方は、完全にかれ一人のものというわけじゃない。それは多くのフランス啓蒙思想家も共有していたものだ。もちろん、中でも有名なのはフランソワ・ケネー (François Quesnay) (1759) と 重農主義者一派、そして驚異的なジャック・テュルゴー (Jacques Turgot) (1766) だ。重農主義の原語である Physiocracy というのは、直訳すれば「自然の規則/支配」ということだ。かれらは、カンティリョンの理論展開や分析、そしてもちろんその価値の「土地」理論をほとんど受け入れて、それを大幅に拡張した。

 でもカンティリョン/重農主義理論は、とても影響力はあったけれど、でも啓蒙主義時代に提案された唯一の経済理論じゃなかった。他の啓蒙思想家、特にイタリアとスコットランドの人々は、「自然バランス」の考え方についていくつか別バージョンを提案した。

 「ナポリ啓蒙」派の主役 (たとえばフェルディナンド・ガリアーニ (Ferdinando Galiani)) はヨーロッパの他の仲間たちに比べて、法と政府と財政の文脈における経済の実用分析のほうに目を向けていて、民間商業社会に対する距離をおいた哲学的観察にはそれほど興味を示さなかった。ナポリ啓蒙派は、経済や社会政策についての「効用主義」的な見方をすぐに採用して、政策の結果は「自然」なだけではダメで、「良い」ものでないといけない、と強調した。理論面では、フェルディナンド・ガリアーニ (Ferdinando Galiani) (1751) とコンディヤック神父 (Abbé Condillac) (1776) は、カンティリョンの市場価格に関する「需要と供給」談義を自然価格の説明に拡張するほうを好んで、その過程で土地理論は捨てた。需要の根拠として主観的な「効用」に訴えるというガリアーニ=コンディラックの方法は、フランスや特にイタリアの経済伝統の中で重要な特徴となり、伊仏経済学者が 1871-74 年にすぐに限界革命を受け入れ、貢献したのもこの影響が大きい。

 カンティリョン=重農主義ビジョンはまた、スコットランド啓蒙思想家にも変更を加えられた。特に有名なのがデビッド・ヒューム (David Hume) (1754)、ジェイムズ・ステュアート卿 (Sir James Steuart) (1767)、そしてもちろんアダム・スミス (Adam Smith) (1776)。フランスの理論に対してプロテスタントのスコットランドが加えたひねりは、スミスの「国富論」の少なくとも三箇所にはっきり出ている。まず、フランスの土地価値説は、労働価値説に置き換わっている(清教徒にとっては高貴さと価値をもたらすのは仕事であって財産ではない)。第二に、効用や需要が自然価格に影響を与える可能性はまったく認められていない(これは清教徒的な消費への疑念のおかげかな?)。第三に、フランス式の「自然バランス」の見方を、初期のイギリス重商主義的な富と成長の考え方に統合しようとあれこれ手が尽くされている。

 19 世紀まで続く古典リカード学派を生み出したのは、アダム・スミスの体系だった。ガリアーニ=コンディラック的な需要ベースの視点をスミスの方式に統合しようというジャン・バプティスト・セイ (Jean-Baptiste Say) (1803)の遅ればせの試みは、イギリスに上陸できなかった。結果として、価値の主観的な希少性理論――後に限界革命の根幹となるもの――は19 世紀を通じて大陸ヨーロッパで独自の成長をとげることになり、イギリスにはこっそりとごくたまに登場するだけとなった。

 金融理論では、啓蒙思想家たちの反応はバラバラだった。ある人は「自然バランス」の原則を貨幣にも適用しようとした。この最もめざましい例は、ジョン・ローとその「real bill」ドクトリンだ。でもその他ほとんどの人は、外的「数量説」にとどまった (特にデビッド・ヒューム)。その一部は、重商主義的な「お金こそが富」という考え方を潰したかったからだろう。間を取り持つ偉大な人物は、またもやリチャード・カンティリョンで、かれは厳密な数量理論を自分の均衡理論に接ぎ木しようとした。この計画が完成は、後のクヌート・ヴィクセル(Knut Wicksell) の登場を待たねばならない。

 政治的には、啓蒙主義経済学者たちが信奉した「自然バランス」の見方のおかげで、かれらは政府を大いに疑問視するようになる。経済の「自然な」働きに介入する政策(または政治的動き)は、「自然状態」の実現を邪魔する、と思われた。結果として、啓蒙主義経済学者たちは、「自由な事業」を邪魔したり制限したりする政府規制を廃止または少なくとも緩和させようと努力することになる。通常、こういう規制はまさに重商主義の時代に支持・導入されたものだった。ヴァンサン・ド・グルネーの主張――「laissez-faire, laissez-passer, le monde va de lui-même」 (「放任し、するがままにさせ、世界を勝手に進ませよう」)―― はフランスとスコットランドの経済学者たちの一大スローガンとなった (が、ガリアーニイタリア人は、国の役割や抽象理論の適用範囲についてずっと冷静で現実的な見方をしていたので、それほどでもなかった)。

 かれらが政策方針に影響を与えようとしたやり方は様々だった。コーヒーハウスにおける一般の扇動、パンフレットや雑誌 (たとえば Journal d'agricultures, du commerce et des finances)、詳細な大著 (たとえば ステュアート, スミス)、大学の教壇からの講演 (たとえば ハッチソン)、宮廷で裏から糸を引いて影響を与える (たとえば ケネーミラボー)、または自分が公僕や政府の大臣になる機会があれば、直接的な政策への適用という形 (たとえばテュルゴー)。

 でもなぜ? ほとんどの啓蒙思想家は、自然状態というのがまさに自然だからこそ望ましいのだ、と思っていたことは、忘れちゃイケナイことだ。これはどうしようもなく 18 世紀フランス的な基準だ。かれらの多くにとって、これが「最大多数の最大幸福」をもたらすのは疑問の余地のないことであり、それがリソースの最大有効利用を実現するのも当たり前のことだった。これらの点はどちらも、後になってみんな疑問視するようになることだ。初期の「効用主義」思想家たち、たとえばアダム・ファーガソン (Adam Ferguson)、フランシス・ハッチソン (Frances Hutcheson)、そしてアダム・スミス (Adam Smith) でさえも、野放しの自由事業がそんなにいいものかについては疑問視していた、というか「正しい」結果を実現するのに、それだけで必要十分かどうか考慮の余地があるとしていた。また『蜂の寓話』で有名なバーナード・ド・マンデヴィル (Bernard de Mandeville) や、もっと直接的にはコンドルセ侯爵ベッカリア侯爵およびイタリア人たちは、自由事業は有益な結果をもたらすと、もっぱら効用主義的な理由から主張した。でも、フランスの啓蒙経済学者にとって、評価基準はずっと単純だった。自然状態はよいものだ、なぜなら自然なものは、その定義上いいに決まってるからだ、というわけ。

 最後に、啓蒙主義経済学者たちは、存命中にはごくわずかな政策上の成功しかおさめなかったことは念頭に置いておこう。ヨーロッパの派手で絶対主義的な貴族階級は、哲学的な実験ごときのために、自分たちの経済に対する掌握を手放すつもりはなかった。フランスではテュルゴーがなんとかかれらに重要な経済改革をたくさん呑ませたけれど(特に賦役の廃止)、でも王侯貴族は手を尽くしてそれに抵抗した。1789年のフランス革命以後、その問題はおおむね解決されて改革も加速したけれど、ナポレオン戦争経済がそれをまた減速させた。イギリスでは、貴族階級がもっと穏やかで、資本家たちがもっと強力だったために、こうした議論も相対的に受け入れられ易かった (とはいえここでも、ナポレオン戦争の緊急性のためにそれは間引かれはしたが)。イタリアの効用主義者たちは、政策を実現させるのにもう少し成功した――これは一部は、かれらがずっと現実的なアプローチをとったからで、一部はかれらのビジョンにおいて国の役割がはっきり定まっていたからだ。ドイツ全般、特にオーストリアでは、抵抗が最も強かった。重商主義は 18 世紀のJ.H. フォン・ユスティ、J.G. ダーイェス、ヨセフ・フォン・ゾネンフェルズらの新官房主義ドクトリンで刷新され、19世紀に至るまでオーストリア宮廷ではその優位性はほとんど揺るがなかった。

[17 世紀経済思考については重商主義者のページを参照。19 世紀については古典リカード派効用主義者たち、イギリス反古典派、大陸の原限界主義者のページを参照してほしい。]

「経済学者」たち(Economistes):フランス原古典派

フランスとイタリアの原限界主義者

フランス新コルベール主義者たち

ルソー派社会主義者たち

イギリスの経済学者たち

ドイツ新官房主義

18 世紀社会思想家たち

その他、社会哲学者重農主義者効用主義者のページも見てね。

18 世紀に関するリソース


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