アンヌ=ロベール=ジャック・テュルゴー (Anne-Robert-Jacques Turgot), 1727-1781.

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Portrait of A.R.J. Turgot.

 ジャック・テュルゴー (Baron de l'Aulne) はおそらく18 世紀フランスの主導的経済学者だろう。しばしばケネー重農主義者と一括りにされるけれど、その貢献はかなり独特で、重農主義理論をかなり進歩させた。テュルゴーは独自の学派を形成したと言ってもいいくらいで、アベ・モレレ (Abbé Morellet) やコンドルセ侯爵などが親友兼弟子となっている。もっと重要な点として、テュルゴーは 1760年代にフランスに住んでいて親交の深かったアダム・スミスに深い影響を与えている。スミスの「国富論」に見られる概念や発送は、テュルゴーからそのまま持ってきたものだ。

 パリの裕福な商人家庭に生まれたジャック・テュルゴーの乳であるミシェル・テュルゴーは、どうやらあの有名な 1739 年の「パリ市地図」製作者らしい。ソルボンヌで頭角をあらわしたジャック・テュルゴーは、もともとは司教・学者としてのキャリアを運命づけられていた。1749 年にはソルボンヌの修道院副長に任命され、ラテン語で二つの講演を行うよう求められた。

 テュルゴーの二番目の講演「人間精神の継続的進歩について」progrés successifs de l'ésprit humain (1750) は、かれの有名な歴史哲学を述べたものだ。テュルゴーは、人間社会は野蛮と文明の周期を繰り返すのだと論じている。前者は迷信に左右され、後者は理性の果実によって動かされるのだ、と。かれは、野蛮から文明へ、そして文明から野蛮への推移を論じた。人間の落ち着きのなさ、自由への志向と批判精神が社会を文明へと持ち上げるが、こうした衝動が制度化され、保守化して、その後の進歩のまさに阻害要因となってしまうのだ、とかれは論じている。理性は迷信へと形を変え、社会は野蛮へと押し戻される。

 だからテュルゴーにとって、人類の進歩はさらなる進歩をもたらすものではなく、自分自身の破滅の種を抱えているわけだ。楽観的にいえば、その破滅は決して永続的ではない。テュルゴーは人間精神が常に社会を停滞から救い出すことを確信していた。多くの点で、テュルゴーの説はいささか先駆的なコント実証主義的正確を持っていた。テュルゴーはルイ十五世のフランスを、その周期の上昇期だともてはやした。おもしろいことにかれは、企業家は進歩的な推進力であり、国家は大きな自由度を認めた方がいいと指摘していた。またこの文章は、アメリカ植民地がいずれイギリス王室に刃向かって独立するだろうと予言している。

 この講演を行ってしばらく後に、テュルゴーは教会での祭司職をやめて、国王政府での仕事に就くことにした。1751 年から 1760 年にかけて、テュルゴーはパリの高等法院に務める。哲学者たちと親交を深め、いくつかの論文(二つは言語学についてのもの)をドニ・ディドロの「百科全書」に寄稿。1753 年にテュルゴーは、フランスにおけるプロテスタント容認を主張する「書簡集」を書いた。1755-6 年に、テュルゴーは自由貿易を支持するヴァンサン・ド・グルネーのフランス公式旅行に同行し、その道中にグルネーはテュルゴーを経済問題について考えるようし向けた。グルネーが他界したときには、テュルゴーは亡き師についての見事な讃辞を執筆した (1759)。

1761 年から 1774 年にかけて、テュルゴーはリモージュ州知事となった。かれはすぐに仕事にかかり、道路や排水の修理、徴税の改善、域内通行料削減、貧民救済システムの改善などを行った。リモージュは、それまでフランスの一番貧しい地域だったのが、やる気のある有能な知事に何ができるかという見本のような場所となった。かれが後にフランス全土で導入する多くの改革は、まずここで小規模に試されている。

 知的にも、これはテュルゴーの最も生産的な時期だった。かれの最高傑作は文句なしに『富の形成と分配に関する考察』 (1766) だ。ここでテュルゴーは重農主義体系に資本の概念を導入した。またかれは「剰余」の概念を明確にして、「剰余」と「成長」の結びつきを明らかにし、利益率と金利とを関連づけた。また、「市場価格」と「自然価格」をはっきり区別した最初の人物の一人でもある。結果としてテュルゴーは、もとの重農主義者たちとは produit netの性質についてちがった考えを持つようになっており、剰余は農業だけでなく、産業からも生み出されると考えるようになっていた。こうした発送はすべてアダム・スミス古典派に受け継がれることとなる。

 テュルゴーはまた、限界革命の先駆者とも言える。かれの『価値と貨幣』 (Valeurs et Monnaies, 1769) は驚くほどきちんと展開された、価格の需要ベース理論を含んでいる。またこの本で、かれは取引者の数が多くなれば交換の非決定性の度合いが下がるという点について、驚くほど先見的な議論を展開している。このテーマは後にエッジワースがとりあげるものだ。もう一つ重要な経済学的貢献は(1768 年の Observationsにおいて) 生産における投入の比率を可変にすることを導入したことだ。テュルゴーはまた、要素生産に対して限界生産性の逓減の考え方を思いついた最初の人物でもある。最後に、1766 年の貨幣に関する議論は、実質金利と名目金利の区別をつけていた(これはそれまで区別されていなかった)。

 リモージュ知事としての成功と驚異的な知的能力のため、モーレパ伯爵はテュルゴーに、自分の新しい改革派内閣に加わってくれと要請した。テュルゴーはルイ十六世のもと、財務総監 (財務大臣と同じだ)として 1774 年から 1776 年まで務める。

 テュルゴーは老朽化したアンシャン・レジームの財政を救おうと一大決心をしていた。政府支出を抑えて、民間経済事業を奨励できれば、税収が増えて国の財政も健全化するだろうと見当をつけた。でもかれは、古くさいコルベール主義戦略で国営企業や保護主義政策を行うのは、産業の競争力を下げて非生産的にしてしまうと考えた。ヴァンサン・ド・グルネーに示唆を受けて、テュルゴーは競争と自由市場の力を解き放とうと考えていた。このためには、コルベール主義的経済政策をひっくり返すだけでなく、フランス経済の足を引っ張っている中世的な制度もつぶす必要があった。

 テュルゴーは、最初は慎重に始めて、リヨンの絹製造などの成長産業を支援し、道路や輸送などを改善し、税制を簡略にして徴税を改善、独占を一部廃止して、公的債務を返済等々を行った。それからフランス宮廷と政府の浪費に締め付けをかけ始めた。かれのスローガンは「破産せず、増税せず、借入せず」というものだったので、他のことに割く余地はほとんどなかった。

 1775 年に、テュルゴーは中でも最も大胆な動きの一つを見せて、穀物の国内取引規制を廃止した。この手法は昔から、エルベールグルネー、そしてテュルゴー自身によって主張されてきたものだった (e.g. 1763, 1770)。残念ながら、この政策は即座によい成果をもたらしたのに、その年の不作によって効果が打ち消されてしまった。テュルゴーはその後起こった暴動――通称「小麦粉戦争」――にいささか厳しい対応をしたため、国民の間でかなり不評を買ってしまった。

 1776年に、テュルゴーは有名な「6つの勅令」を発表。最初の 4 つはどうでもいいものだった。 5 つめは中世以来商業と産業を押さえつけてきたギルド方式を解体した。6番目は、corvée (賦役、つまり百姓が毎年国に対して行わなくてはいけない労働奉仕)を廃止し、重農主義者お気に入りの政策――l'impôt unique(単一地租、単一土地税) を導入。こうした手法に対して、貴族と土地所有階級はこぞって反対した。テュルゴーは動じることなく、この政策を勅令として強制した――が、このやりかた自体もあまり人気のないものだった。

 この頃にはテュルゴーは、フランスにおけるほぼあらゆる階級の人物を敵にまわしていた――ただし「経済学者 (economistes)」は別で、かれらはテュルゴーに喝采を送り続けていた。フランス宮廷でかれを支援してくれるのは王さまだけだったけれど、テュルゴーが王妃マリー・アントワネットの子分に対してお目こぼしを拒否して、王妃の不興をかった時点で運命は決まった。1776 年にテュルゴーはクビになった。離職に先立ち、テュルゴーは実に予言的にルイ16世にこう忠告したという「陛下、シャルル二世の首を断頭台に送ったのも弱気だったということをお忘れなく」。コンドルセ (当時は王立貨幣鋳造所所属)は抗議の辞職を試みた。テュルゴーの後継者はジャック・ネッケルで、テュルゴーの布告や政策をほとんどすべてひっくり返した。

 テュルゴーは、かれの政策がなんとか収めようと意図していた経済的緊張によって引き起こされた、1789 年革命を見ずして他界した。かれの実績から見て、テュルゴーが革命派によってギロチン送りにされていたかどうかははっきりしない。弟子のコンドルセとちがい、テュルゴーは共和主義者ではなかったし、人々に人気もなかった。かれは頑固な王党派で、過激な改革を必要と考えたのも、もっと過激な革命を避けるための手段としてだった。その手法は当時は強権的に見えただろうけれど、でもかれはほかのだれも認識していなかった、改革の緊急の必要性を認識していたのだった。

ジャック・テュルゴーの主要論文

A.R.J. テュルゴーに関するリソース


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