トマス・ロバート・マルサス (Thomas Robert Malthus), 1766-1834.

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マルサスの肖像マルサスの署名

 ロバート・マルサス(かれは自分のミドルネームをもっぱら使っていた)はサリー州(ロンドンの南)のドーキングにある、「ルッカリ」という田舎荘園で生まれた。田舎紳士でジャン=ジャック・ルソーとデビッド・ヒュームの熱心な弟子だったダニエル・マルサス(ルソーともヒュームとも個人的な知り合いだった)の第二子だ。結果としてマルサスは父や家庭教師のルソー派的な見方にしたがって教育を受けた。マルサスは 1784 年にケンブリッジのイエズス大学に入り、1788 年にはイングランド教会の司祭に任じられた。1791 年に M.A. 取得。

 1796 年頃、マルサスは父の家からほんの数キロ離れた平和なアルバリーの町で、副牧師となった。1793 年にはイエズス大学のフェローに選出されたので、ケンブリッジとアルバリーを行き来して過ごすことになる。当時、ウィリアム・ゴドウィン (William Godwin) とコンドルセ侯爵 (Marquis de Condorcet) が唱えていた「社会の完成可能性」理論に関する、父親との果てしない知的論争の中で、マルサスは自分の考えを紙に書こうと思いついたこれはやがて『人口論』(1798) として知られるパンフレットになる。

 この有名な著作で、マルサスは人口成長は(抑えられなければ)必ずそれを養う手段の成長を上回る、という仮説を提案した。実際の(抑制された)人口成長は、「事後的な抑制」(飢餓、病気等々による死亡率上昇)や「予防的抑制」(つまりは晩婚化などによる出生率の低下)によって食料生産と歩調をあわせるが、この抑制手段はどちらも「悲惨と悪徳」に特徴づけられている。マルサスの仮説は、実際の人口は常に食料傾向より急速に増大する傾向があると言っているわけだ。この傾向のおかげで、低い階級の人々の所得を上げたり、農業生産性を改善したりして悲惨な状況から救ってやろうという試みは、すべて無駄になる。追加の食料は、それに伴う人口増によって完全に吸収されてしまうからだ。この傾向が続く限り、社会の「完成可能性」は絶対に実現されない、というのがマルサスの議論だった。

 この『人口論』の大幅な増補改訂版 (1803) で、マルサスは議論を師事する経験論的な証拠をそろえるのに注力した(その多くはドイツ、ロシア、スカンジナビアへの大旅行で手に入れたものだ)。またかれは「道徳的抑制」(悲惨にも悪徳にもつながらない、自発的なセックス回避)が、抑制なしの人口成長率を抑えて、食料増産を上回る傾向がなくなる可能性についても触れている。実際の政策として考えると、これは低い階級に中産階級の道徳を教え込む、ということだ。かれはこれを実現するための手段として、普通選挙と貧困者への国営教育、そしてもっと議論を読んだ貧民救済法と障害のない全国的な労働市場確立を提案した。かれはまた、貧困者もひとたび贅沢を味わってしまえば、家族を作る前にまず生活水準向上を要求するだろう、と論じた。だから最初の議論とは一見矛盾するように見えるけれど、でもマルサスは「人口学的推移 (demographic transition)」、つまりは十分に高い所得さえあれば、出生率は抑えられるかもしれないと論じたわけだ。

 『人口論』はマルサスを知的有名人にした。かれは多くの人から冷血な化け物、陰々滅々予言者、労働者階級の敵等々として嫌われた。おしゃべり好きやパンフレット出版連中によるマルサスに対する嘲笑や侮辱は容赦なかった。でも、十分な数の人々は『人口論』の真価を理解した。それは低所得層の福祉に関する初の真剣な経済研究だったのだ。マルサスの保守的な政策結論が大嫌いだったカール・マルクスでさえ、文句をいいつつもこの点は認めた。

 1804 年にマルサスは結婚して、それによってケンブリッジのフェローシップを剥奪される。1805 年に、マルサスはヘイルベリーの東インド大学において現代史と政治経済学教授となり、イギリス初のアカデミックな経済学者となった。

 マルサスが金融に興味を持ったのは、1800 年にかれが(ケインズ大絶賛の)パンフレットで貨幣/マネーの内的理論を展開したときだった。貨幣数量説に対して、マルサスは物価上昇が、貨幣の供給量増大より先に生じるのだ、と論じた。1810 年に、マルサスは株式仲買人デビッド・リカードの金融問題に関する論文いくつかに出会った。かれはすぐにリカードに手紙を書いて、二人はその後10年にわたる対話(と友情)を育むことになる。マルサス-リカードの関係は暖かいものだったが、一つだけ例外があった――それは経済問題だ。両者はほとんどあらゆる問題で、正反対の立場なのだった。

 1814 年、マルサスは当時議会で侃々諤々(かんかんがくがく)だった穀物法 (corn law) 論争に飛び込んだ。最初のパンフレット Observations では、かれは提案されていた保護主義的法案の長所と短所を説明し、一時的に自由貿易論者を支持して、イギリスで穀物を耕作するのは高くつくので、イギリスが部分的にせよ安い外国の供給をを受け入れたほうが、食料供給面からいいんじゃないか、と論じた。翌年、1815 年の Grounds of an Opinion で、かれは考えを変えて、こんどは保護主義の味方になった。外国法は、しばしば不作期に穀物の輸出を禁止したり税金を引き上げたりするので、これはイギリスの食料供給が外国の政策に牛耳られてしまう、ということだ。国産を奨励することで、穀物法はイギリスの食糧自給を保証するのだ、とマルサスは論じた。

 1815 年の Inquiry で、マルサスはレントについての別の理論を考案した。同じ理論は同時に トレンス, ウェストリカードも考案していたけれど、4 人の中でパンフレットを公刊したのはマルサスが最初だった。レントは生産コストだという古い考え方に反論して、マルサスはそれが余剰を吸い取るだけなのだ、と論じた。レントは三つの事実によって可能になる。(1) 農業生産が余剰を生み出す。(2) 賃金と出生率の力学のおかげで穀物の価格は安定して生産コストより高い。(3) 豊かな土地は稀少だ。リカードの 1815 年小論は、実はマルサスに対する反論だった。リカードは、マルサスの議論を否定した。かれの第三の議論――土地の品質がちがって量的に限られている――だけでレントを説明するには十分だ、というのがリカードの議論だ。かれはマルサスのレント理論を自分の利益理論に組み込んで、分配に関する「古典派」議論を構築した。またかれは、寄生地主や穀物法を擁護しようというマルサスのちんけな試みも否定した。

 リカードの 1815 年小論に対する当のマルサスの批判は、「価値」の問題についての両者の論争に発展した。マルサスはスミスの古い「労働主体」の価値理論を支持したが、リカード派「労働も含む」価値理論を支持した。この議論の結果としてリカードの『経済学原理』Principles (1817) が生まれ、これが価値、分配、生産に関する古典派のドクトリンを確立した。ここにはマルサス自身の貢献も、少なくとも二つ含まれている:マルサスの人口論の「自然賃金」バージョンと、マルサスのレント理論の拡大版だ。

 マルサスは、古典派の一員としてあまりすわりのよい存在ではなかった。これはマルサス自身の著作 Principles of Economics (1820) で一番露骨に出ている。かれはいくつかの点で古典リカード派と意見がちがっている。たとえば、マルサスは現代的な意味での需要「スケジュール」の発想を導入している。つまり価格と売れた量との経験的な関係ではなく、価格と買い手の求める量との概念的な関係の考え方だ。もう一つ、かれは短期的な価格安定性にかなりの注意を払っている。

 第三に、そして一番有名な点として、マルサスはセイの法則の有効性を否定して、財の「一般的な過剰」があり得ると論じた。マルサスは、経済危機は一般的な過剰供給が、不十分な消費によって生じるという特徴があると考えていた。かれの穀物法の擁護は、地主の消費が需要不足を「補う」ことで、危機を避ける必要があるのだ、という理屈に基づいている部分もあった。一般的過剰論争についての詳細な議論も見てね。

T. ロバート・マルサスの主要著作

T. ロバート・マルサスに関するリソース


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