古代派とスコラ学派

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Greek coin

 西洋文明における経済の研究は、もっぱらギリシャ人が始めたものだ。特にアリストテレスクセノフォンが中心で、それ以外の作者もちょっと貢献している。こういう人たちを、ここでは「古代派」と呼ぶことにしよう。「スコラ学派」は、13-14 世紀の神学者たち、特にドミニコ修道会の聖トマス・アクイナスを中心とする一派で、12 世紀のイスラーム学者たちの手によるギリシャ哲学再興を受けて、カソリック教会の教義を確立した。経済学の領域だと、スコラ学派が特に関心を持っていたテーマを4つ指摘できる。財産、経済取引における正義、お金、利息だ。

 キリスト教の教義と私有財産の共存は、昔からあまりすわりのいいものじゃなかった。5 世紀には、初期キリスト教教会の父祖たち (the "Patricians", たとえば聖アウグスチヌスなど) が「共産主義的」キリスト教運動を打倒して、教会自身がすさまじい財産を蓄えるようになった。12世紀には、アッジシの聖フランシチェスコが貧困と「兄弟愛」の誓いに固執する運動 (「フランチェスコ会」) を創始して、教会の蓄財傾向を批判した。フランチェスコ会に立ち向かったのは聖トマス・アクイナスとドミニコ派で、かれらはアリストテレスと聖書から、フランチェスコ会の批判を蹴倒すだけの議論を掘り出してきた。トマス派 (Thomists) は現実主義的な立場をとった。かれらは、私有財産は「伝統的な」人間の取り決めであり、特に道徳的な意味合いは持たず、さらにそれは経済活動を刺激して、ひいては一般の福祉向上にも資するという素敵な副作用まであるんだよ、と主張した。トマス派は、だからといって自分たちはあらゆる私的事業を盲目的に認めるわけじゃないと断り書きはした。「奢多の愛」は深刻な罪ですよ、とかれらは論じた。かれらは、人は単に神の財産の「管理権 (stewardship)」しか持たず、財産を「公共の利用」に供するべきだと強調もした。さらに、どうしても必要な場合には盗みも正当化されると主張している。

 もう一つ生じた問題は 企業精神 の問題だ。商人が、価格のちがいで儲けるのは許されるべきか? スコラ学派は、条件つきでイエスと答えた。条件としては、商人は純粋な儲けだけを動機にしてはならず、ちょうど商人の労働コスト(犠牲)に相当するに足るだけの利益しか得ない、ということ。さらには、交易者は、まったく寄生虫なんかではなく、価値あるサービスを提供していて、各種のちがったニーズを満たすことで公共の福祉を高めているんだ、と論じた。でも、なぜニーズはちがっているんだろう? ひょっとするとサラマンカ学派が論じたように、神様は世界中の人が交易に参加して、それによってお互いをよく知るようになり、やがて「兄弟」感覚を高めてほしいと思っていたからかもしれない――後の重商主義者たちが採用した交易の「戦争的」な考え方とはまるで正反対の、普遍的な見方だ。

 「取引における正義」の問題はもっとややこしかった。アリストテレスは『倫理学(ニコマコス倫理学)』でこれを「分配的正義 (commutative justice)」の応用問題として採り上げている。財の公正な交換比率(つまりは公正な値段)は人にとってのその財の内在的価値に比例すべきだ、という。ちなみに、ローマ法はこれより柔軟だった。ローマ法では、契約者双方が合意をすればその値段は「公正」と見なされた――内在的な便利さや価値という発想は問題にならなかった。

 トマス主義者たちは、アリストテレスの考え方を聖書と折り合わせようとした。彼等は最初、この「内在的価値」というのを、創世記にものが登場する順序から見た財の「内在的価値」 (bonitas intrinseca) と解釈した。これにはいくつか問題があった――有名な問題を一つ出すと、聖書の登場順から考えるとネズミのほうが小麦よりも高いことになるけれど、でも本当にネズミのほうが価値が高いの? というわけで、スコラ学派 (特にジャン・ビュリダン (Jean Buridan)) は、財の価値はもっと大まかに「人間のニーズ」に結びついていて、つまりは人にとってのその有用性に関係しているんだ、という別の発想を持ち出した。でもこれは、財に「内在的価値」があるという考えを否定するように思えた。だって有用性というのは、財そのものの性質じゃなくて、財と人との関係の中にあるものなんだから。アリストテレスは、人々のニーズはちがっていて、だから有用性の度合いもちがうと主張していて。多くのスコラ学派はこれを採用した。これで、時間と場所が使えばある財がちがった価格で取引されて構わない、ということが正当化できるかもしれない。さらに、なぜ小麦粉は小麦からできるのに、小麦より価値が高いのか、ということも説明できそうだった。

 財の内在的価値をその「有用性」に結びつけたとしても、どうやって「あるべき」価格を見極めればいいだろう。ある財の 公正な価格 (justum pretium) って何? 黄金律 (「自分のしてほしいことを他人にもしてあげよう」) にしたがって、スコラ学派は、人はある財に対し、自分が払っていいと思える金額以上に課してはならない、と決めた。これは倫理的に筋を通すためだけでなく、ある財の「有用性」を推定するにもいい方法に思えた。クマの皮が実に有用で、それに対して鹿皮二枚を支払っていいと思う人物は、クマの毛皮を所有していれば自分もそれを鹿皮二枚で売らなくてはならない。

 フランチェスコ会の神学者にしてトマス・アクイナスの大ライバルだったドゥンス・スコトゥスは、トマス主義者たちが「内在的価値」や「公正な価格」の厳密な考え方を支持したがらないのを嫌った。かれは別の方向から、あるモノの公正な価格は、その生産コスト、つまりその財の供給者の労働コストと費用だと論じた。でも、スコトゥスはこれが無駄を含むかもしれないということには気がついた。費用が、本当にその財の生産に必要なもの以上に誇張されていることは十分にあり得るし、つまりは「公正な価格」が過大になっている可能性がある。スコトゥスはこの問題と格闘して、やがて公正な価格を決めるのには競争が必要であり、独占は不道徳であるという、かなり現代的な考察にまで達していた。

 もっと困った問題が、別のスコトゥス主義者 (Scotist) であるガブリエル・ビエル (Gabriel Biel) によって提出された。もし交易における正義によって、同じ価値を持った財だけが交換されるのであれば、現代の用語で言うなら、「黄金律」にしたがう交易は、どっちの側にとっても効用を高めない。でも、もし交易によって双方にメリットがあったらどうだろう、というのがビエルの提案だった。その場合の公正な価格って何だろう? これはトマス主義者たちによって明らかにされなかったけれど、でもビエルの議論が公正な価格という概念を根本的に否定するのは明らかだ。

 サラマンカ学派は、有用性の見積もりは人によって異なると論じることで、この問題を解決した。結果として、公正な価格というのは、自然に交易で定まる価格と何らちがいはない。それ以上のことは考える必要がない。競争的な市場では、買い手は自分にとっての有用性より低い値段を払うことはできないし、売り手は自分にとっての有用性より高い価格をもらうことはできない。こうしてサラマンカ学派はまた、価値のパラドックスも解決できた。「価値のパラドックス」というのは、本質的に何の役にもたたないダイヤモンドが、通常は非常に有用な水よりもずっと高い価格で取引される、ということだ。サラマンカの学者たちは、何が「有用」かをいちばんよく判断できるのは人だから、ダイヤモンドだって何か謎めいた形で有用にちがいない、と結論づけた。

 usury、あるいは貸したお金に対する利息は、すぐに厳しい検討の対象となった。キリスト教の教典には、利息の禁止をはっきりと根拠づけるものはない。利息に対する最も有名な禁止令は「見知らぬ者に対しては利息を付けて貸しても良いが、汝の兄弟に対しては利息をつけて貸してはならない」(民数記、23:20)というものだ。聖ジェロームなど初期の教会創始者にとって、キリスト教の「すべての人は兄弟である」という発想は当然ながら、利息はすべて禁止されるべきだ、ということになる。別の patrician である聖アンブローズは、正義の戦争において敵に利息付きでお金を貸すのは許される、と決定した。

 でも、他の人は問題の聖書の部分で「利息 (usury)」に相当するヘブライ語は、「高利貸し」に近いことを指摘した。だからこれは、過剰な利息や、貧乏な人に対する利息を禁止しようとしただけのもので、利息すべてがダメとするものではないのかもしれない。他の聖書の下り(たとえば出エジプト記 22:25) も、この解釈にマッチしているようだった。でもこれは、もっとたくさん問題を引き起こすだけだ。「過剰」ってどれが過剰なの? そして貧乏な人と判断されるのはだれ?

 聖書のはっきりした導きがなかったので、利息禁止の支持者たちはなんとなく気分で、固定金利での貸し付けはそもそもいささか「いかがわしい」活動だという考えに流された――これは多くの一般人にも共有された気分だった。立証責任は、利息を擁護する人々のほうにある、とかれらは論じた。利息を課することを認めると、少なくとも「社会的に」有用だということを証明できるだろうか? これは封建制の経済ではまるではっきりしなかった。当時の融資は消費のためで、生産のためのものじゃなかったからだ。社会コストのほうは、もっとはっきりしていた。複利計算のとんでもない数学は、社会的な不平等を加速して、自由な人々を年季奉公的な隷属におとしめ、その強制のために役人の手もわずらわせるし、それがもたらすメリットといえば、単に消費を奨励するだけ(消費はそもそも道徳的に疑わしい活動とされていた)。だから利息のつく負債は不自然なだけでなく、道徳的にも好ましくない、社会的な退廃をもたらす制度なのだった。

 司祭たちは、利息付きの融資を 4 世紀以来禁止されていたけれど、この禁止はずっと後まで一般人には適用されなかった。1139 年に第二次ラテラノ公会議は、改悛しない高利貸しにあらゆる秘蹟を拒否して、1142 年のお触れでは、元金以上の支払いをすべて糾弾した。ユダヤ教徒とムーア教徒(かれらはキリスト教徒の土地では異人だった)は、最初はこの禁令の対象外だったけれど、第四回ラテラノ公会議 (1215) は非キリスト教徒が「過剰な」利息を課すのを禁じるお触れを発表した(そして暗黙のうちに、ほどほどの利息は認めた)。1311 年に教皇クレメント五世が、ウィーン会議で利息そのものを禁止して、それを認める教団の規定をすべて「異端」として糾弾した。

 キリスト教神学者たち、特に聖トマス・アクィナスがやっと 13 世紀になってアリストテレスの作品を手にしてみると、そこには完全な禁止を支持する内容がたっぷり見つかった。トマス主義者たちは、お金は創世記に記述されていないので、「内在的価値」を持たないと論じた。かれらは、お金は単に人間の社会的な因習でしかなくて、それ自体は何の効用も持たず、したがってその価値は人間が押しつけることはできない、というアリストテレスの発想(「ニコマコス倫理学」の中のもので「政治学」のものではない)を援用した。大まかに言うと、お金には内在的な価値がないので、金貸しはそれを貸したところで何も価値あるものを失わない、というわけだ。したがって、黄金律から言うと、お金を貸したことで見返りを要求してはいけません、ということになる。「労働なしの報酬」は他にもいろいろあったけれど、そっちはトマス主義者としては問題なかった。というのも貸されたものには「内在的価値」があって、だからそれが手元から離れるのは「コストがかかる」からだ。

 トマス主義者たちは、この議論に二つ抜け穴を用意しておいた。もしお金の貸し手がリスク (dammum emergens) を負うなら、あるいは貸すことによって別の利益のあがる機会 (lucrum cessans) を見逃している場合には利息は許される。前者の抜け穴は、固定金利の債権保有者と、利益分配型(Commenda)のパートナーシップへの投資家とを区別するためのものだった。でも、あらゆる融資では、常に最低でも必ずデフォルトのリスクがあるわけで、そうなると厳密にいえば、利息はどんな場合にでも認められることになる。第二の抜け穴は、インフレ期(貸し手が明らかに損をする)に利息を課すのを許すよう意図されたものだった。でも、これをあっさり濫用する可能性はずっと大きい――「別の」儲かる資本の使い道があるという議論は、あらゆる場合に主張できるものだからだ。

 もちろん、いつだってこれを迂回する手だてはある。遅延の罰金、mohatra 契約 (「再購入条項」), contractum trinius 等々――これらはキリスト教世界でもムスリム世界でも広く使われていた――は実質的に、金利つき契約を実現するものだった。利息の禁止は、貸し付けによる資金調達をややこしくしたが、終わらせたわけではない。禁令はやがて、サラマンカ学派による教義改訂と、1600年代半ばにおけるプロテスタント諸国での段階的な許可を経て、やがて廃止される。

 利息の禁止は、ニコレ・オレスメ (Nicole de Oresme) が指摘するおもしろいジレンマを引き起こした。各国政府による、その国の通貨の改鋳 (debasement) だ(これは 14 世紀フランスで悪名高いまでに加速した現象だった)。オレスメは、政府が貨幣鋳造サービスにより多少の通貨発行益を得るのは当然だけれど、お金というのが実質的には人々から政府に対する貸し付けなんだということを忘れちゃいけない、と論じた。結果として、お金の改鋳による価値低下は、マイナス金利を吸い取る手口であり、だから一種の利息だ――実は利息より悪質だ。どいうのも、合意なしに行われるからだ。オレスメは、ジャンビュリダン (Jean Buridan) に続いて、アリストテレス式の「社会的因習」的な見方から離れて、「金属的」な見方に移ることでお金に「内在的価値」を与えた人物となった。

(イスラム経済学のページも参照。16 世紀の経済思想については、最初の経済学者たちのページを見て欲しい。)

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スコラ学派:ドミニコ会

スコラ学派:フランチェスコ会

イスラーム学者たち

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