お金の古典理論

Reymerswaele's Banker
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古典派の経済学者たち、デヴィッド・リカードにカール・マルクス、そしてこの二人ほど強硬にではないけれど、ジョン・スチュアート・ミルは、ヒュームの「純粋」貨幣数量説にもスミスの真手形ドクトリンにも反対した。かれらが持っていたのは、お金の「商品理論」または「金属理論」と言われるものだった。かれらに言わせれば、お金ってのは単に金とか銀とかその他貴金属だ。この意味で、お金の値段は他の商品と何ら変わらない:生産コストだ。あるいはもっとはっきり言うと、かれらはお金の長期的な価値は、商品貨幣(硬貨)を作るのに使われる貴金属か、兌換紙幣の根拠になっている黄金を鉱山から掘り出すのに必要なコストそのものだと思っていた。だから不換紙幣(紙幣そのものが商品でもないし黄金と交換もできないような紙幣)はかれらの理論の範囲外だった。たとえば:

「金と銀は、他の商品と同じく、それを生産して市場に運んでくる労働量に比例した価値しかない。(中略)ある国で使えるお金の量は、その価値に応じたものになるしかない。(中略)確かに(紙幣は)内在的な価値は持っていないけれど、その量を制限することで、交換における紙幣の価値は、同じ額面の硬貨、つまりはその硬貨の中にある金塊の量と同じとなる」

(D.リカード, Principles of Political Economy and Taxation, 1817: p.238)

これで金塊主義論争におけるリカードの立場も理解できようってもんだ。ジョン・スチュアート・ミルもこの点では同じくはっきりしていた:

「でもお金は、商品一般となんら変わりなく、需要と供給でその価値が決まる。価値の究極的な規制者は、その生産コストだ」 (J.S. ミル, Principles of Political Economy, 1848: p.340)

でもリカードやミルのお仲間たちは、エリザベス朝インフレみたいな現象をどう説明するんだろう? デヴィッド・リカード (1811, 1817) は、お金の「値段」は通貨と商品との間の交換比率だ、と主張した。 \(p_m\) がお金の価値で、 \(P\) が価格水準だとすると、 \(p_m=1/P\) となる。さてリカードによれば、通常の長期条件のもとではお金の価値 1/P はお金(金や銀)の生産コストと同じだ。このコストを C とすると、長期的には \(p_m =1/P = C\) が明らかに成立しているはず。

するとリカードの理論にしたがえば、大エリザベス朝インフレは、この帰還に黄金の生産の「技術変化」があったからだ、ということになる。変化ってどんな? アメリカでの豊富な新鉱山の発見や、スペイン近海でのイギリスの海賊はヨーロッパやイギリスに大量の金銀をもたらした。深いドイツの山に巨大で高価な鉱山を作らなくても、安い武装たっぷりの船を造ってフランシス・ドレイク提督を舳先にたてれば同じだけの金銀が手に入った。だからヨーロッパの鉱山から海賊行為とアメリカの鉱山に移行することで、金の獲得における「技術変化」が起きた、という理屈だ。

新技術や新しい鉱山の発見によって、金のコストが下がったということは、C が下がったわけだ。だからその他すべてが一定なら、\(p_m\) > C つまりお金(黄金)の値段はその生産コストよりも低くなる。ということは「黄金」産業には過剰な利益があるわけだ。リカードの過剰利益に関する短い法則によれば、こうした高い利益は黄金生産ビジネスへの新規参入をうながす(つまりアメリカの征服がさらに進み、アンデスの鉱山がもっと絞られ、海洋ではさらなる略奪)。これは国にもっと大量の金をもたらす。

長期的には、黄金の価格はコストに等しくなるまで下がる。でも pm が下がるということは、まさに P が上がるということだ。だって定義からして \(p_m= 1/P\) なんだから。だからお金のコストが下がることは、お金の供給を増やすと同時に、\(P\) を増やすことになる。黄金の市場価格\( (1/P) \)は黄金の生産コスト低下に見合って下がるからだ。エリザベス朝インフレとアメリカからの黄金は、貨幣数量説と同じくここでも関係しているけれど、でも因果関係が逆になっている。貨幣数量説によるお金が原因で価格が変わる、という関係が存在するように見えるのは、短期的な調整がそんな風に機能するからでしかない。

それでも「中立性」はあるんだろうか? ある意味で、この質問自体がもう成り立たなくなっている。というのもお金は黄金で、黄金は財の一種だからだ。すべての財の値段が生産コストによって決まり、お金の供給の変化は、生産コスト変化の結果であって原因ではない、という意味での中立性はあるけれど。でもそれ以外の意味の中立性はない。だからすべてを長期的な価値に調整したら、他の財に比べた黄金の値段は変化していて(つまり \(P\) が増えていて)、それがお金の供給(マネーサプライ)の上昇に伴われている。

この質問をまともに尋ねる唯一の方法は、短期について以下のような聴き方をすることだ:仮に \(C\) が下がって、黄金商売の儲けが増えて、それがお金の供給を増やしたとしよう。長期法則によれば、 \(P\) は確実に上がって、\(1/P\) が下がって \(C\) になる。でもこれが完全に起きるかどうか、確信できる? 言い換えると、お金の供給が増えたら、それがその他の長期価格(たとえば穀物で見た鉄の価格とか、牛肉と比べた小麦価格とか)に影響しないというのは絶対確実なの?

ある意味で、この問題はリカードもミルもきちんとは答えなかった。というのもかれら自身も、この問題ではちょっと悩んでいたからだ。もちろんリカードなら、牛肉生産のコストが下がったら、すべての長期価格は牛肉に対してだけでなく、相互にその関係を再調整すると主張するだろう。でも黄金生産のコストが下がる場合にだけ、他のあらゆる財とちがって「中立性」の問題が頭をもたげてくる。つまりリカードとしては「影響しないわけがない! すべてが再調整されるのです!」と答えるべきだった。でもリカードは実はそう言わなかった――少なくとも、金塊主義論争で大論戦を繰り広げていて、まだ腰を落ち着けて価値と分配に関する理論 (1817) を書き上げていないときには。でも、この混乱はジョン・スチュアート・ミルでも見られた――かれはリカード式の商品としてのお金という理論を採用したのだけれど、でも古いヒュームの貨幣数量説に対しては、だれでもわかるほど甘くて、時にはこっちの議論を使うかと思えば、時には向こうを使ったりしている。

でもこうした問題すべてがすごくわかりやすくなるのが、金利を考えるときだ。ヒューム (1752: p.296) と スミス (1776: p.354) はお金が長期的には金利に影響しない、と論じた(ただし短期的には影響する)。するとデヴィッド・リカードHigh Price of Bullion (1810) を刊行し、J.S. ミル (1848: p.431) と同じく、同じ中立性の立場をとった。

これはこういう文脈で理解するといいかもしれない。問題となっていたのは、非兌換貨幣の問題であって、黄金のコスト低下ではなかった。こうなると、中立性の問題も筋が通って見える。非兌換貨幣だと、お金の商品理論はもう破れているからだ。お金は潜在的に無限の供給ができるけれど、財の生産コストはまったく変化していないから、すべての商品の価格は上がるべきだし、産出は変わらないはずだ。これは明らかにセイの法則によるものだ。すべてのリアルな需要は、すべてのリアルな供給と等しい。金の裏付けがない紙幣は「リアルな供給」じゃないので、「リアルな需要「は変わるわけがない。ヒュームが論じたような形での「人工的な」価格上昇が起きるだけだ。だから金利――「リアル」な貸し付け可能資金のお値段――は変わらないはずだ。

でも短期の影響は認めた。ミルは金利の問題についてこう書いている:

「通貨の追加はほとんど必ず、金利を下げる影響を持つかのように見えるというのは(中略)まったくの事実だ。というのもそれは、常に必ずそうした傾向を持つモノに伴われているからだ」 (J.S. Mill, 1848: p.431)

この「そうした傾向を持つモノ」というのは、融資の増大だ――というのも通貨というのは銀行による融資として発行されるからだ。したがって、「通貨としてこうした発行は金利には影響はしないけれど、でも融資としては影響するのだ」(Mill, ibid).

筆のすべりかな? いか必ずしもそうじゃない。ミルが論じているのは、お金のストック量自体は金利に影響しないけれど、お金のストックの成長は影響する、なぜなら銀行が信用を発行しているから、ということだ。だから融資の量が増えると、リカード/ミル的シナリオでは、短期では金利が下がる――ヴィクセルが後に「利子の money rate」と呼ぶものだ (累積過程を参照)。リカードはこう書いている:

「たぶん、金利の利率はお金の豊富さや希少性によって支配されるのではなく、資本のうちでお金では構成されない部分の豊富さや希少性で決まるのだ、ということは明言できると思う。(中略)お金の豊富さに気をつける必要があるのは、銀行による融資の端境期と、その価格への影響だけだ。その端境期に金利はその自然水準より低くなる。でも追加の紙幣が一般流通に吸収されれば、金利水準は戻る(中略)追加の紙幣発行以前の水準まで」

(D. Ricardo, High Price of Bullion, 1810)

だから他のすべてと同様に、お金が金利に与える非中立的な影響は、長期的にはなくなる。このお金と信用が価格に影響するというすばらしい発想は、ヴィクセルの説と驚くほど似ているし、実はそれを初めてまとめたのは金塊主義論争でリカードの仲間だったヘンリー・ソーントン (1802)だ。

最後の落とし穴が古典派によって導入された。それはつまり、お金の増大からくる「差を持った影響」の可能性だ。言い換えると、ミル (1848: p.335-6) が述べたように、金融拡大はみんなに同じ購買力を与えるわけではなく、経済のなかでゆっくりと不平等に影響を与える。外国人が新しい黄金を持ってきて、パン屋さんにそれで支払って、パン屋さんは自分のところの労働者にそれで支払いをして、等々。このプロセスが起きている期間中には、パンの価格や賃金その他は(金融拡大がどこから始まったかによって)他の財に比べて変化する。これは「リアルな影響」だけれど、でも一時的だと言えるのか? そしてここでミルは、これが「まさにコミュニティの趣味や欲求が変化したかのように機能する。もしそうならば、生産がこの各種財の相対的な需要変化に適応しきるまでは、価値のリアルな変化が生じ、一部のものが他よりも値段が上がることになる」(Mill, 1848: p.336)

こいつは奇妙だ。というのもミルは、お金の供給が不均一に影響を与えることで、実体経済に対して永続的な影響が出る、と主張しているらしいからだ。この後かれは、以下のように論じることで中立性説を擁護しようとする。「だがこうした影響は、明らかに単なるお金の増加から生じるのではなく、それに伴う付随的な状況から生じるのだ」(Mill, 1848: p.336)。 ここでも、金利の場合と同じく、これはフローの現象でたぶん一時的なもの、ということらしい。でもかれは最後まで、これがいずれは元に戻るんだ、ということを言わない。それどころか、その後また立場を変えて、不均一な影響を持たない「純粋なお金の増加」という道具立てに戻ってしまう――「任意の人が持っているポンド、シリング、ペニーに対して、追加のポンド、シリング、ペニーがいきなり与えられたかのような」(Mill, ibid)という意味での増加だ。この場合には、はい、純粋な中立性という結果が成り立つようだけれど、他の場合はどうも成立しないみたいだ。

この奇妙で勇敢な追記は、ミルが中立性というのが理論的な道具立てにすぎないと思っていた、ということを匂わせる――「純粋なお金の増大」をすれば成立するけれど、でも永続的な不均一の影響が出るような現実では成立しないのだ。かれはこう強調する:

「つまるところ、社会の経済においては本質的にお金以上無意味なものはあり得ない。ただしお金には、時間と労働を節約するという便宜的な性格はあるが、それ以上ではない。(中略)お金を導入したからといって、これまでの章で述べてきた価値法則はどれ一つとして影響を受けない。(中略)商品が相互に持っている関係は、お金によっては変わらない:唯一導入される関係は、お金自身に対する関係だけだ。その商品が、どれだけ多くのお金と交換されるか。つまりはお金自体の交換価値がどう決まるか」(J.S. Mill, 1848: p.333)

非均一な影響の存在をミルが不思議にも認めていること(これはそれまでかれが書いてきたことすべてを否定することになる)はパラドックス的ではあるけれど、でも先見の明があった。もっとおもしろい点として、ミルはリカードよりもずっと、お金が価格を変えるという伝統的な数量説を重視していたらしく、ほとんどヒュームのドクトリンを完全に復活させる瀬戸際にいた、ということだ。

何年も後に、マルクスがリカード的なお金の「金属」理論をもっと細かく進めることになる。でもマルクスの場合、お金は交換のプロセスでバラバラになる可能性があり、それが一時的な短期的影響を持って、それが結局は引き延ばされて定期的な危機につながる――有名なC-M-C' が M-C-M' になるというやつだ。だからマルクスもまた、非中立性を少しもてあそぶけれど、でも長期的には中立性に戻る。

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