重商主義者 (Mercantilism)

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18世紀のテームズ川

 ヨーロッパにとって、17 世紀は「最悪の世紀」だった。絶え間ない国家戦争、宗教戦争、内戦に襲われ、それも実に野蛮な残虐さで有名なものばかり。その瓦礫の中から国民国家が形成され、それが宗教改革にインスパイアされたグロチウスホッブスプフェンドルフなどによる、契約に基づく「自然法」哲学の中で大きな基盤を獲得する。

 17 世紀は国家が台頭した時代だったから、国家が必要とする二種類の階級の出現がその特徴だ。国を運営する官僚と、そのお金を出す商人だ。重商主義は、こうした実務家たちの小冊子や研究や協定がたくさんあわさることで発達した。イギリスとオランダでは、経済著作の大部分は台頭するブルジョワコミュニティ出身の商人 (merchants) たちが書いた――だから重商主義 (Mercantilism)ということばがでてきた。フランスとドイツではブルジョワ階級が小さかったので、経済議論はもっぱら国の役人が書いた――だからフランスの重商主義はむしろ「コルベール主義 (Colbertisme)」 (フランスの財務相ジャン・バプティスト・コルベールにちなんだ名前)で知られ、ドイツの重商主義は「官房学派 (Cameralism)」(王立chamber を指すドイツ語にちなむ)として知られる。

 イギリス・オランダとフランス・ドイツの重商主義の背景はこんな風にちがっているけれど、その経済ドクトリンはどれも大差ない。どっちも商人たちの富と国の力との親密で共生的な関係を認識していた。商売が繁盛すれば歳入が増え、国の力も増す。国の力が増せば、利益の高い交易ルートを確保できて、商人たちの望む独占を与えられる。イギリス重商主義は、しばしば三つの時期に区分される。1580 年代くらいから 1620 年代頃まで続いた、粗雑な「金塊主義/地金(じがね)主義」段階、1620 年代から 1700 年頃まで続いた「伝統」段階、そしてそれと多少重なって、1680 年代頃から 1750 年頃まで続く「リベラル」段階だ。フランスのコルベール主義は、1660 年代から 1750 年代まで続いたとされ、ドイツの官房学派はたぶん最長の期間、1560 年代から 1750 年代まで続き、さらに新官房学派の手に移ってからは 1800 年を過ぎても続いていた。

 重商主義の核心には、成長と富の蓄積との間の正のフィードバックに対するこだわりがある。活動が増えれば、富が(商人にとっても国にとっても)増え、富が増えれば経済活動が増す。かれらは、事業を発展させるためには二つの基本的な前提があると指摘した。収益機会の存在と、柔軟な資金供給だ。重商主義者たちは、事業活動は物価があがれば必ず増大し(なぜなら価格があがると利益も上がるから)、また金利が下がるときにも増大する(つまり資金が容易に手に入るから)と提案した。これらはどちらも、ある国のお金の量が増えるときに生じる。この当時のお金というのは金と銀だった。だから国の産出を増やすには、国が全力を尽くし、きれいな手でも汚い手でも何でも使って、地金だろうとコインだろうとなるべく多くの金や銀を国に入れて、そして出て行く量はなるべく少なくするようにしろ、というのが初期の重商主義者たちの主張だった。

 最初、これは金の輸出を直接制限すればいいと思われた。この手口は重商主義者の中でも金塊主義/地金(じがね)主義 (Bullionist) 一派が大いに支持したもので、特にトマス・とジェラルド・デ・マリネスが強く主張した。これは特許企業 (charter companies) から抗議が出た。特に Society of Merchant Adventurers とイギリス東インド会社からの反対が強かった。かれらは海外との取引がとても多くて、金の輸出制限をゆるめてもらう必要があった (cf. ホイーラー 1601)。影響力の高いマリネス (1601, 1621) は、これら企業に対してものすごい恫喝を展開し、イギリスの荒廃はこいつら一味の責任だと糾弾した。そしてイギリス法廷に、王室特許企業はイギリスの通貨に対する為替レートをその内在価値 (これは法廷に対して「賢明に」示されていた)より低くして、王家の権威と聖なる正義を否定しているだけでなく、正貨(つまり金)の輸出を奨励することで大英共同体にとってはガンのようなものだ、とまで述べた。かれはこの問題を解決する手段としてもっと強硬な金輸出規制を提唱し、それによって経済を「ふくらませ」直そうと述べた。資本家には人気がなかったマリネスは、利息に対する昔ながらのスコラ派議論を蒸し返して、利息は不自然な資本コストを作り出すので事業の邪魔になると論じた。

 マリネスの提案に対しては、強力な論者二人が手を組んで対抗した。トマス・ミッセルデン (Thomas Misselden) とトマス・マン (Thomas Mun) だ――前者は扇動家で、後者は学者だが、どっちもcharter会社の人間だった。この二人は金の流入のメリットは認めたが、それが流出するのは「邪悪な資本家」のせいじゃないと論じた。むしろ貿易収支の問題である、というのがかれらの議論だった。特にマンは、金の流出/流入は経常収支で決まるのだ、と論じた。これは貿易収支だけでなく、資本収支も含まれる。かれらの提言では、国が金の流出を防ぎたければ、金の動きを制限するのではなく、輸出を奨励して輸入を抑えることだ。この貿易固有のフロー機構は、王の勅命で止めることはできず、世界に対して「自然法」が課すメカニズムなのだ、とかれらは論じた。それは止めることはできないけれど、正しい方向に向けて奨励することはできる。最適な仕組みは何年も前にジャン・ボーダンが敷いていた。原材料輸出と製品輸入には高い関税をかけて、原材料輸入と製品の輸出には低い関税をかけることだ。

 マンによるもう一つの貢献は、値段が上がり続けるのは実はそんなにいいことじゃないかもしれない、という認識だった。それは輸出品の競争力を引き下げ、貿易収支の悪化を招いて金の流出につながる。マリネスやミッセルデンはこれに気がつかず、価格上昇はすばらしいと何度も論じていた。重商主義者たちは、物価上昇が産業を刺激するけれど輸出を悪化させるという矛盾に取り組みはした。でも、ついにそれを解決することはなかった。

 もう一つの懸念は、物価上昇と産業の興隆が続くと賃金の上昇が起きて、これが利益を減らして産出を引き下げるという可能性だった。この点に関しては、重商主義者たちは単純明快。かれらは、賃金はなるべく低く抑えるべしと提言した。低い賃金のほうが労働者の生産性は上がるというのがその主張だ(これは後にカンティリョン (Cantillon)リカード派に否定され、ひっくり返される)。賃金を低く抑えるために、重商主義者は人口増加政策を奨励し、できる限り労働力を節約する機械の使用を進めた。

 重商主義思想の転機となったのは、ウィリアム・ペティ (William Petty) (1690) の業績だった。かれは所得分配と、「生産要素」ごとの貢献の相対的な価値に注目するようになった。かれにとっての生産要素とは、基本邸には労働と土地だった。地代は賃料支払い後の余剰だという発想を開始したのはペティだった。ペティの考察はリカード派の地代(レント)を先取りするものだった――それどころか、かれは市場からの距離の応じて土地からのリターンがだんだん減るという議論までしているほどだ。

 ペティにとって、賃金は労働者に必要な金額によって決められる。つまり「生きて、働いて、生み出す」ために必要なお金だ。ペティはこれをもとに、「労働価値説」を創始した。ここでは財の相対価値は、それを生産するために必要な労働時間の相対量で決まってくる。かれはこれを、相対的な労働時間と相対価格のどっちについても、アービトラージを根拠に正当化した。また、資本の利息が地代と等しくなると論じるときにもアービトラージ型の理由づけを使っている(でもペティは、実はまともな独立した資本の理論を持っていなかったのだけれど)。だからペティは、後の古典リカード派ドクトリンの多くを先取りしているわけだ。

 重商主義はその「リベラル」期に入ってもう一ひねり加わった。それを実現したのは、ダドリー・ノース卿 (Sir Dudley North) (1691) とジョサイア・チャイルド卿 (Sir Josiah Child) (1693) で、この二人は国際貿易というのがゼロサムゲームなんかではなく、双方にとって有益なものに成り得るということを認識した最初の人物たちかもしれない。ノースは独立した生産要素として「利益」と「資本」について論じた最初の人物でもあり、お金が価値があるのは、資本として貸し出された時に限るということを認識した最初の人でもある。お金の理論をもっときちんと考察した人物としてはジョン・ロック (John Locke) (1692) がいる。ロックはお金の「速度」という概念を定式化して、貨幣数量説を実質的に創始した。

 重商主義ドクトリンは、18 世紀中は不動の地位を占めていた。でも啓蒙主義台頭が状況を一変させた。フランスのリチャード・カンティリョン (Richard Cantillon)、ジャック・テュルゴー (Jacques Turgot) と 重農主義者、そしてイギリスのデヴィッド・ヒューム (David Hume) とその友だちのアダム・スミス (Adam Smith) はしばしば、重商主義的見解に真っ向から反対することとなった。かれらの新しい見方では、国の豊かさは所得フローの循環によるものだったし、そしてお金の中立性をかれらは主張した。これは重商主義者の「お金のストック」的な富の概念をひっくり返すものだった。啓蒙主義経済学者たちはまた、こうしたフローの「自然なバランス」という発想を導入した。おかげで重商主義者たちの「成長へのこだわり」は、啓蒙主義経済学者たちの「均衡へのこだわり」に置き換わることとなった。

 こうした新しい発想は、すぐには成功しなかった。重農主義者はフランス宮廷に保護され続け、コルベール主義者フォルボネーなどの反重農主義者 は相変わらず政策に大きな影響を与え続けた。産業革命の夜明けにさしかかっていたイギリスでは、こういう新しい考え方ももうちょっとウケがよかったけれど、それでもイギリスはジェイムズ・ステュアート卿 (Sir James Steuart) (1767) をはじめ、まだ優れたセミ重商主義者たちを産みだし続けた。
 ドイツはほとんどにおいて、こうした新理論の影響をまったく受けず、19 世紀がかなり過ぎるまでしっかりと新官房学派に牛耳られ続けた。

金塊主義/地金(じがね)主義者たち (The Bullionists)

「伝統的」イギリス重商主義者

算術派 (the Arithmeticians)

「リベラル」イギリス重商主義者たち

フランスコルベール主義

ドイツ官房学派

重商主義に関するリソース


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