ケネス・イワート・ボールディング (Kenneth Ewert Boulding), 1910-1993

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Photo of K.E. Boulding

 ケネス・ボールディングは境界知らずの人物だった。リバプール生まれながら、階級的な偏見を乗り越えて、オックスフォードで立派な学部生活を送り、初の論文 (1932) を在学中に発表。学士号をもらうまで待たず、ボールディングは渡米した。大西洋横断中にシュンペーター と出会い、しばらく ハーバード大で過ごしてからシカゴ大に進む——そこではナイトシュルツ に影響を受けて、資本理論について一連の論文を書いた(ナイト寄りで、反オーストリア学派)。ここでも博士号なんか待たずに、ボールディングはスコットランドに出かけて、エジンバラ大の臨時講師となった。1937 年にボールディングはまたアメリカに戻り、こんどはコルゲート大学で、記念碑的な二巻本の強化hそ『経済分析』を書いた——新古典派ケインズ総合の集大成——が、すぐに全米をうろつきはじめた。まずはプリンストンで国際連盟の仕事をして、テネシーのフィスク大学に赴き、エイムスのアイオワ州立大学(ここで有名な、流動性選好に関する 1944 年論文と、1950 年の『経済学の再構築』でストックとフローの区別を明確化)、ミシガン大学(ここでは「紛争解決研究センター」を設立)、その間にスタンフォード大にも腰掛け(ここでは有名な「行動科学高等研究センター」を設立)、日本の国際基督教大学 (ここでは初の「進化」経済学の論文 (1970) が執筆された)、そして最後にコロラド大学ボウルダー校に、1967年に落ち着いた。

 地理的な境界知らずのボールディングは、知的にも境界知らずだった——これは初期の導師にして最大の影響を受けたフランク・ナイトの遺産だろうか。機会費用、資本理論、国際貿易(全五巻の分厚い論集)、1941年の教科書はどれも、伝統的な経済学の実践だった——これでかれは、1949 年にアメリカ経済学会の栄えあるジョン・ベイツ・クラークメダルを受賞し、1968)年には会長になった。

 でも 1944 年論文と 1950 年の著書は、ほとんどポストケインジアン的な方向でバランスシート・アプローチを再構築しようとするものだった。進化経済学で生物学と経済学を融合させようという試み (1970, 1978) はすでに、影響の大きい 1956 年の考察「イメージ」に述べられている。経済学的行動のもっと多くの側面を経済生活に取り入れるべきだというのが彼の主張だった。かれは経済活動を三つに大別した——交易、脅し、施し——が、経済学理論はその最初のものしか扱っていないと感じており(しかもそれすら不十分)、残り二つは、さんざん抵抗を受けたあげく、やっと最近になって経済学に真面目に導入されつつある。

 ボールディングは規範経済学を強力に支持していた——倫理、宗教、環境的な配慮を、望ましい経済的な帰結の分析に適用しようとした。そして社会科学統合を目指して絶え間なく活動を続けた。ボールディングはまた詩人もどきでもあり (かれのソネットを参照 1945)、倫理社会哲学者でもあった (e.g. 1968) 。そして実践的な活動が示すように、社会紛争、戦争と平和の学者だった (e.g. 1962, 1968, 1978, 1985). まこと、ボールディングは真にナイトの従者だったわけでございますな!

ケネス・E・ボールディングの主要著作

ケネス・E・ボールディングに関するリソース


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