シカゴ学派

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[: このページはHET ウェブサイトの一部なのだ。このページはシカゴ大学やその他どんな組織とも関係していないし、また承認も受けていない。シカゴ大学経済学部公式ウェブサイトを参照。]

 「シカゴ学派」は、たぶんアメリカの経済学派としてかなり有名だろう。厳密に言うと、「シカゴ学派」は過去一世紀におけるシカゴ大学経済学部の人々によるアプローチを指す。もっとゆるい意味では、「シカゴ学派」は経済分析において厳密に新古典派価格理論に従い、その政策面での研究ではほとんど「自由市場」的リバータリアニズムに従い、手法的にはあまり極端な数学的定式化には比較的反対で、結果重視の部分均衡分析があれば、厳密な一般均衡的理由づけは無視するアプローチを指す。近年だと、「シカゴ学派」が「経済帝国主義」、つまり伝統的には政治科学や法理論、歴史、社会学といった学問分野の独壇場とされていた分野に、経済学的な議論を適用することとも結びつけられるようになっている。

 「シカゴ学派」はいくつかの段階を経ていて、それぞれかなりちがった特徴を持っている。それでもそこに一貫して流れる特徴として、それはいつの時代にも経済学の領域で、独自の明確で影響力の強い地位を保ってきたということがあるだろう。現代では、「シカゴ学派」傘下には、他でもっと詳しく述べた他の学派を含めることができる。たとえば 1960 年代のマネタリズム、1970年代から今日に至る、新古典/リアルビジネスサイクルのマクロ経済学、そしてもっと最近では新制度学派新経済史法と経済学運動などだ。

 シカゴ大学は、1892年に石油界の巨人ジョン・D・ロックフェラーによって創設された。当初の経済学部は、アメリカのapologistであるJ・ローレンス・ラフリン (J. Laurence Laughlin) を筆頭に、過激なアメリカ制度学派を教授陣に擁していた。たとえばソースティン・ヴェブレン (Thorstein Veblen)、ウェスリー・ミッチェル (Wesley Mitchell)、ジョン・モーリス・クラーク (John Maurice Clark) など。この時期のシカゴ大学経済学部は、アメリカの他の大学と大差なかった。

 「シカゴ学派」が本格的に始動したのは1920年代、フランク・H・ナイト (Frank H. Knight) とジェイコブ・ヴァイナー (Jacob Viner) のdimurativeのもとでのことだった。この二人は、概ね理論家だった(ナイトはどちらかというとジェヴォンス派-オーストリア学派の伝統に近く、ヴァイナーはマーシャル派に傾いていた)。経験主義がアメリカ経済学のほぼ主流だった時代に、ナイトとヴァイナーはシカゴの経済学部を反制度学派の砦にしたてあげ、そのせいもあって、シカゴ経済学部はやがて「たてこもり」的な気風をまとうようになってきた。他にこの時代のシカゴ大にいたのは、「数学トリオ」――オスカー・ランゲ (Oskar Lange)、ヘンリー・シュルツ (Henry Schultz)、ポール・H・ダグラス (Paul H. Douglas) だった。かれらはローザンヌ学派の理論的なアプローチに大いに傾倒していた。もっと若い教授陣としては、金融理論家ヘンリー・C・シモンズ (Henry C. Simons) とロイド・ミンツ (Lloyd Mints) がいる。

 1920-1950年の初期シカゴ学派の特徴は、後のシカゴ学派とはずいぶんちがっている。かれらは"positivistic"な経済手法にとても懐疑的で、経済帝国主義を批判し、経済分析の役割は限られているのだと主張した(特にナイト)。自由放任経済学の効率性の主張には懐疑的で、それを主張するのは"non-consequential"な場合に限られた。かれらは不景気の治療に活発な政府の政策を歓迎し(特にヴァイナーにより、経済を「リフレ」せよという提言や、シモンズのcounter-cyclicalな金融政策を主張する「シカゴ計画」など)、そして正真正銘の社会主義者(ランゲ)まで仲間に擁していた。さらに、ほとんどの教授陣は厳密で理論的な一般均衡による論理展開をまったく否定しなかったどころか、むしろその技法の先端的な実践者だった(ランゲ、シュルツ、ダグラス)。

 でも、後のシカゴ学派と似ているところとしては、初期のシカゴ学派は「オルタナティブ」な経済パラダイムには敵意を燃やした。ほとんどにおいて、かれらはマクロ経済学におけるケインズ革命を歓迎しなかったし、ミクロ経済理論における独占的競争アプローチも否定した。こうした「オルタナティブ」なパラダイムが解決すると主張した問題は、かなりの部分が新古典派理論の範囲内でそこそこまともに扱えるのだ、とかれらは考えていた。

 1940年代を通じて、シカゴ大経済学部は下克上状態となった。シュルツは悲劇的にも突然志望し、ヴァイナーはプリンストン大学に去り、ランゲはポーランドで政治家となり、ダグラスは国会議員となった。ナイトは経済理論に対する関心が薄れ、引退同然となり、学部の手綱はシモンズ、ミンツと学部長に任された。

 経済学部がその勢力を回復しようとするにつれて、この時期には新しい血の流入も見られた。最初の動きは、ワルラス派経済学への傾倒だった。同学部を去ったランゲとシュルツとつながりの深い学生数名が残った――たとえばYntemaMosak――そしてシカゴ大学はさらに、ヤコブ・マルシャック (Jacob Marschak) 、チャリング・クープマンス (Tjalling Koopmans)を迎え、そしてすぐお隣にカウルズ委員会 (Cowles Commission) が越してくる。ワルラス期は1955年まで続いたけれど、そこでイェール大学に移った(追い立てられたと言うべきか)。

 1940年代にはまた、開発理論家のH. グレッグ・ルイス (H. Gregg Lewis) とバート・F・ホセリッツ (Bert F. Hoselitz) が同学部に迎えられることになる。こうした就任に加えて、セオドア・W・シュルツ (Theodore W. Schultz)、D・ゲイル・ジョンソン (D. Gale Johnson)、ウォルター・ニコルス (Walter Nicholls)などの一連の農業経済学者が迎えられた。ニコルスは、学問の自由の最も有名な侵害事件に対する抗議のためにアイオワ州立大学を離れたのだった。どうやらアメリカの乳産業の本拠地であるアイオワの権力者たちは、マーガリンはバターと同じくらいの栄養価があるという研究結果を出した調査について、若き経済学者にそれを見直すように、大学当局に対して圧力をかけたようだ。

 1960年代に、学部は新しい形にかたまってきた。これを率いたのは、ジョージ・J・スティグラー (George J. Stigler) とミルトン・フリードマン (Milton Friedman)だ。これが「第二次」シカゴ学派となった。いちばん有名で論争の種となったのはこの時期だろう。スティグラーとフリードマンは自他共に認めるマーシャル派で、当時すでにシカゴ大学を去っていた、カウルズ委員会のワルラス派たちによる手法をいやがった。当時の戯れ歌にはこんなのがある:

「ぼくはマーシャルを隅々読んだ
最初から終わり、そしてその逆も;
マーシャルをしっかり読み過ぎて
いまやシカゴ大の教授だぞ」

スティグラー・フリードマン期は、新古典派経済学への熱心な帰依が特徴で、市場の失敗という考え方に対しては断固として反対し、シカゴ学派の不完全競争ケインズ経済学への敵対はさらに強化された。影響力の強い雑誌――特にJournal of Political Economy Journal of Law and Economics――の発行を通じて、シカゴ学派の研究プログラムは先進的で幅も広かった。マンチェスター学派リベラリズムの現代版と言われるのは、この第二次シカゴ学派だ(あるいは一部の人が主張するように、もっと保守的なアメリカ現状追認論の伝統に沿ったものかもしれない)。

 ミクロ経済学では、の主導のもとで、シカゴアプローチを律する原則は可能な限り新古典派パラダイムを保存し、それを決して疑わないということだった。ある問題に対する明確な解決策がなければ、推奨された方法は新古典派パラダイムに新しいコンセプトを導入して拡張し、対象となるものを経済分析に適するようにする、ということだった。シカゴ派経済学者たちが考えついた、新古典派パラダイムへの拡張の例としては、探索理論 (search theory) (これはジョージ・スティグラー (George J. Stigler) による)、人的資本理論(ゲーリー・ベッカー (Gary Becker) とT・W・シュルツ (T.W. Schultz)による)、および財産権/取引コスト理論(ロナルド・H・コース (Ronald H. Coase)による)などがある。

 シカゴ学派の新古典派価格理論拡張癖は、シカゴ学派がよく批判される「帝国主義」的な正確の主な原因でもある。もともとは実務家やビジネススクールの独壇場だったビジネスやファイナンス/金融に経済学の光を当てたのも、シカゴ学派の経済学者たちだった。たとえばA・W・ウォーリス (A.W. Wallis)、ハリー・マーコウィッツ (Harry Markowitz)、マートン・H・ミラー (Merton H. Miller)、ユージン・F・ファマ (Eugene F. Fama) などだ。もっと離れた領域としては、政治科学や制度理論を新古典派経済学に導入したのもシカゴ学派の経済学者たちだった。たとえばジョージ・J・スティグラー (George J. Stigler) 、ロナルド・H・コース (Ronald H. Coase)、ジェイムズ・ブキャナン (James Buchanan)、 アルメン・アルチアン (Armen Alchian)、ハロルド・デメセッツ (Harold Demsetz)などだ。経済史に新古典派的な読解を行ったのは、ロバート・W・フォーゲル (Robert W. Fogel) とダグラス・C・ノース (Douglas C. North)だし、シカゴロースクール (特にリチャード・ポスナー (Richard Posner) とウィリアム・M・ランデス (William M. Landes) は各種の法理論を考え直すのに経済学を使った。たぶん一番有名なのは、ドラッグ中毒や家族や結婚などといった社会学的な問題に対してさえきわめて経済学的な解釈を与えたゲーリー・S・ベッカーとジェイコブ・ミンサー (Jacob Mincer) だろう。

[当然ながら、「シカゴ学派」の経済学者が全員シカゴにいるわけじゃない。たとえばアルチアン、ミンサー、ノースなどはシカゴ大ではないけれど、でもかれらがこの学派に所属すると主張してもおかしくはない。]

[ジョージ・P・シュルツは、リチャード・ニクソンのもとで労働省長官を務め、その後財務省長官を務め、さらにはロナルド・レーガン政権で国務長官を務めたことで知られているけれど、1960年代にはシカゴ大学の産業関係の教授で、後にビジネススクールの学長になった。]

[とっても示唆的なこととして、自他共に認める反帝国主義者のフリードリッヒ・フォン・ハイエク (Friedrich A. Von Hayek) は1950年代にシカゴ大学にはいたけれど、正式に経済学部の教授には指名されず、学際的な「社会的思考に関する委員会」に所属しただけだった。また、比較的視野が限られる傾向にあるワルラス派の理論も、過去50年にわたってシカゴ大学ではとても存在感が薄かった。シカゴ大学の要塞にまともに侵入できた唯一の理論家は、ヒューゴ・ゾネンシャイン (Hugo Sonnenschein) だけだし、そのかれも大学の学長としてやってきただけだ。レスター・テルサー (Lester Telser) の業績を例外とすれば、今ひとつの「オルタナティブ」なパラダイムであるゲーム理論も、ごく最近まで怪しいほど姿が見えなかった。]

 マクロ経済学では、シカゴ学派の絶頂期は「マネタリズム」の時期で、それを率いていたのは、一番有名な支持者だったミルトン・フリードマンだ。最長の期間にわたって、シカゴ大学はアメリカで唯一、ケインジアン革命の洗礼を受けなかった大学だった (教授陣に一時的にロイド・A・メッツラーがいたのはきわめて例外的だった)。だからといって、かつてのシカゴ学派が政府の介入になんでも反対したということじゃない――それどころか、ヴァイナーの政策的な結論は、時にはケインズのものと区別がつかないほどだ。でもフリードマンのマネタリズムにおいて、シカゴ学派はケインジアン革命を揺り戻すための理論的/経験的な手段を見つけた。有力だったのは1960年代のことだったけれど、フリードマンは昔から、マネタリズムの主要な信条は、初期のシカゴ学派経済学者、たとえばヘンリー・シモンズの研究に見られる、と主張していた (このサイトのマネタリズムの調査を参照)。

 その後、マネタリズムは1970年代と1980年代になって、ロバート・E・ルーカス (Robert E. Lucas) によるもっと数学的に厳密な "New Classical"経済学に道を譲る。New Classicismの定量化重視の「ワルラス派」風味のおかげで、ロバート・E・ルーカス、トマス・サージェント (Thomas Sargent)、マイケル・ウッドフォード (Michael Woodford) 、ロバート・タウンゼンド (Robert Townsend) がシカゴ大に就任するにあたっては、高齢層からかなりの反対論が出た。それでも、その政策的な結論や、新古典派理論への頑固な執着という点で、New Classical学派は依然としてほとんどの点で、現代マクロ経済学におけるシカゴ学派勢力の自然な後継者とされている。

 その特異な、だが常に独特の視点にもかかわらず、あるいはまさにそのおかげで、シカゴ大学はノーベル経済学賞において、圧倒的に大きなシェアを占めている。ミルトン・フリードマン、T・W・シュルツ、ジョージ・J・スティグラー、ロナルド・H・コース、ゲーリー・S・ベッカー、M.H. ミラー, R.W. フォーゲル、R.E.ルーカスは、みんなノーベル賞を受賞したときにシカゴの教授陣だった。シカゴで訓練を受けた経済学者まで含めたら、ノーベル賞受賞者のリストはハーバート・サイモン (Herbert Simon)、ジェイムズ・ブキャナン、ハリー・マーコウィッツ、マイロン・ショールズも含むことになる。

初期のシカゴ学派、1892 - 1920年代

第一次シカゴ学派、1920-1945

戦後シカゴ学派、1945-1960

第二次シカゴ学派 1960年代-1970年代

第三次シカゴ学派 (1970年代-現在)

シカゴビジネスと ファイナンス

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