オーストリア学派 (The Austrian School)

原ページ
 
Google
WWW 検索 cruel.org 検索

Habsburg Coat of Arms

 「オーストリア学派」(またの名を「ウィーン学派」)は 1871 年限界革命のパイオニア、ウィーン大学のカール・メンガー (Carl Menger) から生まれてきた。オーストリア学派の第一世代を構成したオーストリア人教授二人組は、メンガーの直接の教え子ではなかったけれど、それでも深い影響を受けていたのだった。その二人は、フリードリッヒ・フォン・ヴィーゼル とオイゲン・フォン・ベーム=バヴェルクだ。オーストリア学派の福音を、オーストリア・ハンガリー帝国中に広め、次の二世代を訓練したのは、ほとんどがこの二人だ。この続く二世代の中で、圧倒的だったのはルートヴィヒ・フォン・ミーゼス (Ludwig von Mises) とフリードリッヒ・フォン・ハイエク (Friedrich von Hayek) の二人で、もう一人ジョセフ・シュムペーター (Joseph Schumpeter) はかなり早い時期にもっとワルラスっぽい畑を目指して去ってしまったのだった。オーストリア学派は 1930 年代まではウィーンが本拠地だったけれど、その後ほとんどのメンバーはイギリスやアメリカに亡命してしまった。

 すでにヴィーゼルとベーム=バヴェルクの段階で、オーストリア学派経済学の主要な特徴は現れているけれど、その多くは弟子たち、特にミーゼスとハイエクの手によってずっと明確ではっきりしたものになった。その特徴はおおむね、以下のような順番で挙げられるだろう(括弧に入れて書いてあるのは、その主要な論敵だ):

 他の重要なオーストリア学派的特徴を強調したいという人もいるだろうけれど、ここに挙げたくらいでオーストリア学派のだいじな貢献はカバーしたと思う。この一覧からもわかるように、オーストリア学派は歴史を通じて、各種の課題について、他のいろんな経済理論学派と無数の論争を絶えず繰り広げてきた。この「神経逆なで」的な性質のために、オーストリア学派は主流派経済学(というのは「英米式」経済学だと思っておくれ)からは排除されるしかなかったけれど、でもその論争こそがこの学派をまとめあわせて、独自の理論的なアイデアを確固たるものにせざるを得ない状況にしていた。でも、いくつかのオーストリア学派からの洞察、たとえば知識、転嫁、資本、フリーな財などの理論の一面は伝統的な経済学にも組み込まれていることは忘れちゃいけない。ただし、それはかれらの他の成果とは切り離されているし、かなり薄められてはいるけれど。

1871 年に、革命的な価値の主観理論を発表してから、カール・メンガーはグスタフ・シュモラー (Gustav Schmoller) から反論を受け、その結果として生じた手法に関する両者とその弟子たちの論争は、ドイツ語圏をきれいに二分した。オーストリアとその大学はオーストリア学派に、ドイツとその大学はドイツ歴史学派についた。

 そのすぐ後に、オーストリア学派の次の大きな貢献が登場した。フリードリッヒ・フォン・ヴィーゼル (1889) はメンガーの生産における転嫁と代替費用の理論を詳述して拡張し、オイゲン・フォン・ベーム=バヴェルク (1889) は独自の特徴的な資本と利子の時間依存理論を開発した。同僚であり、義兄弟でもあったヴィーゼルとベーム=バヴェルクは、各地の大学で教鞭を執り(ウィーン、インスブルック、プラハ)、何度かウィーンでの財務相と商務相にも任命された。というわけで、第一次世界大戦前の時期は、オーストリア学派の黄金期と言えるかもしれない。なんといっても、そのメンバーはオーストリア・ハンガリー帝国の中で、限界主義の同時代者たちがよそでまったく実現できなかったような、学問的・専門的名声を享受していたわけだから。第二世代、特にルードヴィヒ・フォン・ミーゼスや、折衷的なジョセフ・A・シュムペーターなどが教育を受けたのもこの時期のことだった。

 初期のオーストリア学派は、オーストリア・ハンガリー帝国の外にいる経済学者たちにも影響を与えることになった。代替費用ドクトリンはイギリスのフィリップ・H・ウィックスティードとライオネル・ロビンス、そしてアメリカではハーバート・J・ダヴェンポートとフランク・H・ナイトを魅了し、かれらはそれを嬉々としてマーシャル的な新古典の正当教義叩きに使った。

 資本のオーストリア派理論はそれ以上の関心を集めた。それはスウェーデンのクヌート・ヴィクセルとアメリカのアーヴィング・フィッシャーにすぐ採用され(たが「ワルラス化」され)、ジョン・ベイツ・クラークを筆頭とする英米新古典派たち数人と早い時期に論争を引きおこした。オーストリア学派の外国での忠実な信奉者としては、イギリスのウィリアム・T・スマート (William T. Smart)(かれはこの学派の論文の相当部分を英訳した)やアメリカのフランク・A・フェター (Frank A. Fetter) がいる。

 1890 年代と 1910 年代を通じて一貫して、ベーム=バヴェルクとヴィーゼルはマルクス派とも火花を散らした。マルクス派は、ウィーン社会ではマックス・アドラー (Max Adler)、オットー・バウアー (Otto Bauer)、ルドルフ・ヒルファーディング (Rudolf Hilferding) ――「オーストリアマルクス派たち」――によって、価値や資本、利息、手法、経済政策の面で、非常にしっかりと代弁されていた。

[ついでに、同時代ウィーンにおけるちょっとしたワルラス派の種についても触れておこう ――これはルドルフ・アウスピッツ (Rudolf Auspitz) とリヒャルト・リーベン (Richard Lieben) を初期には含み、後にはオーストリア学派の裏切り者たち、たとえばジョセフ・A・シュムペーター (Joseph A. Schumpeter)、カール・シュレジンガー (Karl Schlesinger)、そしてメンガーの実の息子で 1930 年代にはVienna Colloquiumを運営する、カール・メンガー (Karl Menger) なんかがいる。でも、この初期の頃には、オーストリア人たちは自分たちの中にいるワルラス派と真っ向から対決することはしなかった。これは両者のちがいがまだはっきりしなかったという理由が大きい。]

 こうした初期の成功は、オーストリア・ハンガリー帝国が 1918 年に崩壊すると終わりを迎えた。新共和国の気風の中で、多くのマルクス派や準マルクス派(たとえばキール学派 (Kiel School) のドイツ改革派経済学者たち)は、戦後のオーストリア・ドイツの政府や経済機関で要職につくようになってきた。マルクス派たちは、戦後すぐの時期に、比較的現実性のある経済計画を中央ヨーロッパで推し進めた。ベーム=バヴェルクはすでに他界し、ヴィーゼルも死にかけていて、シュムペーターはあまり気乗りはしないながらマルクス派の一味として取り込まれていたので、「自由放任」と限界主義経済学の擁護の大任は、ほとんどがルートヴィヒ・フォン・ミーゼス (Ludwig von Mises) とその弟子たちの肩にかかってきたのだった。

 オーストリア学派 VS マルクス派の因縁の死闘は、強力なパレート派が何人か、マルクス派の助太刀に乗り込んできたことで、新しい様相を示すことになる。かれらは、経済社会の効率よい社会主義的組織の可能性について合意してみせた。これは通称「社会主義計算 (Socialist Calculation)」論争というやつだ。この論争から、オーストリア理論の他の独特な特徴がいくつか出てきた。特に、フリードリッヒ・フォン・ハイエク (1937, 1945) による重要な貢献の中で展開された、知識の理論が大きい。

 ルートヴィヒ・フォン・ ミーゼスがウィーンの商務省のオフィスで、有名な「私的ゼミナール」 Privatseminar を開催したのはこの頃だった。これはオーストリア学派第三世代の真の訓練場となった。ゼミナール参加者の中には、フリードリッヒ・フォン・ハイエク (Friedrich von Hayek)、フリッツ・マハラップ (Fritz Machlup)、オスカール・モルゲンシュテルン (Oskar Morgenstern)、ゴットフリート・フォン・ハーベルラー (Gottfried von Haberler)、パウル・ローゼンシュタイン=ロダン (Paul Rosenstein-Rodan) なんかがいた。討議グループの主要なテーマは社会主義論争ではなかった (「説得する必要のある人間はだれもいなかったから」とある参加者は後に述べている)。むしろ社会科学と手法との間の学際的な問題で、だからこの集団には哲学者のフェリックス・カウフマン (Felix Kaufmann) と社会学者のアルフレート・シュッツ (Alfred Schütz) も参加している。

 1920 年代には、緊急性を要する新しい問題が出てきた。それは、マクロ経済の上下動に関する主観理論の開発だ。特に、1929年の株式大暴落の後でその重要性が顕著になった。これは初期のオーストリア学派理論には欠けていたけれど、資本理論でオーストリア学派を大いに援用したクヌート・ヴィクセルは、お返しに自分の金融マクロ経済学をオーストリア学派に輸出してあげたのだった。マネーと周期に関するオーストリア学派の取り組みに手を着けたのは、まずはフォン・ミーゼス (1912)で、そしてオーストリア学派的な「マクロ経済学」の可能性がモルゲンシュテルンやマハラップ、ハーベルラーの研究の大半を占めることになる。

 オーストリア学派の理論は、フリードリッヒ・フォン・ハイエク (Friedrich von Hayek (1928, 1931, 1933)) の見事な理論構築によって、もっと明確なヴィクセル的「金融過剰投資」の形を取るようになった。ハイエクのマクロ経済理論は、オーストリア学派経済学にとって重要な影響をいくつかもたらした。まず、ベーム=バヴェルク的な資本理論を採用したことで、ハイエクはオーストリア学派と他の新古典派たちとの間で長いことくすぶっていた論争を再燃させた。いまやケンカっぱやいフランク・H・ナイト (Frank H. Knight) (1933-36) が反オーストリア学派の旗手となってしまった。

 第二に、かれの理論のおかげで、それに好意的だったライオネル・ロビンス (Robbins) がかれを誘惑して 1931 年にLondon School of Economics にラチってしまった。ここはオーストリア学派の概念が英米界に広まる窓口となることになる。これをやったのは、特にハイエクの若き同僚たち、たとえばジョン・ヒックス (John Hicks)、ニコラス・カルドア (Nicholas Kaldor)、アバ・ラーナー (Abba Lerner)、ジョージ・L.S. シャックル (George L.S. Shackle)、ルートヴィヒ・ラッハマン (Ludwig Lachmann) なんかだ。

 第三に、ハイエク理論の影響力のおかげで、そのハイエクとオーストリア学派、そして L.S.E. は、真っ向からケンブリッジ大学&ジョン・メイナード・ケインズと衝突することになった。この対立は、ケインズの「一般理論」(1936) 以降ますます熾烈なものとなった。でも L.S.E./ケンブリッジ論争は、少なくとも業界内ではケインズ側有利で終った。特にハイエクの弟子たちがかれを見捨てて、まさにハイエクの反対していたケインズ派革命を引きおこしたことで、それは明確になった。資本とマクロ変動に関するオーストリア学派式理論を再構築しようというハイエクによる 1941 年のめざましい試みは、経済学界では黙殺された。

 オーストリア学派の「脱制度化」、シュムペーターの離脱、ハイエクの L.S.E. への転出、そして他の学派との疲れる各種論争のおかげで、オーストリア学派は 1930 年代には消耗しきっていたけれど、ナチスの台頭と、ドイツによるオーストリア併合が最後の不幸となった。このおかげで、オーストリア学派の残ったメンバーたちもちりぢりになってしまった。ミーゼスはニューヨーク大学へ、モルゲンシュテルンはプリンストン、マハラップはバッファロー大、ローゼンシュタイン=ロダンは MIT、ハーベルラーはハーバードへ、そしてカウフマンとシュッツの二人はニュースクールへ。

 その後、個々のオーストリア学派経済学者の研究は、お互いからも、オーストリア学派の核からも逸脱するようになっていった。マハラップはオーストリア学派の流れに沿った手法や知識を元に研究を続けたけれど、独占と国際金融経済学に関する研究を見ると、かれが英米主流派と妥協の道を歩んだことが見て取れる。ハーベルラーは、大家さんたちとさらに親密な関係となる。研究からはオーストリア学派の背景がほとんど消えてしまい、もっぱらシカゴ学派のマーシャル的な味わいが効いてくる。モルゲンシュテルンは、もともとアウトサイダーだったし、かつてのウィーンの教授陣が予想だにしなかったような、大胆な冒険に乗り出すことになる。ジョン・フォン・ノイマン (John von Neumann) と共同で、かれはワルラス理論に対するオーストリア学派の嫌悪を異様なほど極端に推し進め、その過程でまったく新しいゲーム理論の分野を作り出したのだった。

 老獅子たるルートヴィヒ・フォン・ミーゼスとフリードリッヒ・フォン・ハイエクは、馴染むのにもっと苦労することになる。ハイエクは孤独な放浪学者となり、ロンドン、シカゴ、フライブルグの間で学際生活を送り、主流の経済論争から離れて、相変わらずのオーストリア流儀で、驚くほど目新しい研究や画期的な貢献を独自に展開することになる。意外なことに、かれは1976 年にノーベル賞を受賞し、その後かれの研究に対する関心が高まったので、ポスト1940年代の痛々しいキャリアもなんとか報われたというべきか。

 ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスは、ニューヨーク市でまたも私的セミナーを開講することで、ウィーン時代の栄光の日々を再現しようとした。ここからかれは、何とかもう一世代のオーストリア学派経済学者を生み出すことができた――第四「アメリカ」世代だ。これはマレイ・N・ロスバード (Murray N. Rothbard) やイスラエル・カーツナー (Israel Kirzner) なんかが含まれる。ミーゼスのアメリカ弟子たちは、経済主流派の外部にとどまり、N.Y.U.やジョージ・メイソン大などごく少数の大学に群れ集うことになる。いまだに多くはそこにいる。

 アメリカのオーストリア学派が強調したのは、予想されるとおり、ミーゼス的な主題で、特にミーゼス (1949) が開発した(均衡ではなく)市場プロセスの強調だった。ただし、情報や自己組織化に関するハイエク的なテーマの多くもなかなかしっくり収まる。「市場プロセス」理論は、一種の「進化論」として見ることができる。オーストリア的な資本の理論は、1940年代以来ほとんどルートヴィヒ・ラッハマンが一人で維持していたけれど、ジョン・ヒックス (John Hicks) (1973) の見事な努力によって大いに活気づく。その他多くのオーストリア学派の概念、たとえば景気サイクルの金融過剰投資理論は、本気で再興されることはなかった。これは驚くべきことかもしれないんだけれど、マクロ経済学においてケインズ派教義を殺したマネタリスト反革命は、古いオーストリア学派的な政策的立場を復活させたのに、アメリカのオーストリア学派たちを受け入れなかったし、かれらもマネタリズムを受け入れなかった。オーストリア学派の多くの洞察は、新古典派の主流経済学に導入されたのに、そしてケインズ派が没落したのに、オーストリア学派は現代が経済学の中で、まだ独自の味わいを保っている。

創始者

オーストリア学派第一世代

オーストリア学派第二世代

オーストリア学派第三世代

オーストリア学派の初期の外国シンパ

オーストラリア学派の理論家の第四(アメリカ)世代

オーストリア学派経済学についてのリソース


ホーム 学者一覧 (ABC) 学派あれこれ 参考文献 原サイト (英語)
連絡先 学者一覧 (50音) トピック解説 リンク フレーム版

免責条項© 2002-2004 Gonçalo L. Fonseca, Leanne Ussher, 山形浩生 Valid XHTML 1.1