『「知」の欺瞞』ローカル戦:浅田彰のクラインの壺をめぐって(というか、浅田式にはめぐらないのだ)

Version 1.7 Valid XHTML 1.0!

2000年10月-2002年4月
山形浩生

読み始める前に……:この文章を出して 1 年以上たった 2002 年 4 月、菊池和徳氏が、クラインの壺が本当に循環しないかを検討している。そして、浅田の言っているのは「中身のあるクラインの壺」と解釈すべきで、そう解釈したときは循環すると言えることを述べている。
 とりあえず考えてみてはいるけれど、はい、確かにそういう解釈はなりたちそうですす。そしてその場合、ぼくの以下の文章はかなり割り引いて考えていただく必要がある。『構造と力』のまとめ部分と、モデルとしての必然性のなさについては額面通り受け取っていただいていいけれど、途中の(かなりの部分を占める)循環しないという記述に関しては、非常に強い説得力のある反論が存在しているということを念頭において、眉にかなりツバをつけて読んでいただきとうございます。(2002.4.9)
……と思ったんだが、その後ふと、この説だと局所的な面としての連続性が成立しないように思えてきた。上の解釈は、それぞれの時点で幅のない線を考えているからもっともらしく思えるけれど、クラインの壺は局所的には面として連続性が保たれる必要がある。でも問題の輪ゴム上のわっかにちょっと幅を持たせてみると、その面に対して「お金」の点がどっち側にいるかというのが、その面に対して不連続に反転しないと話がなりたたない。ということは、やっぱり変だと思う。したがって、眉に唾はつけなくてよろしい。つけても半分くらいでいいよ。(2004.8.20)


クラインの壺。ほしい人はクリック!  ソーカル&ブリクモン『「知」の欺瞞』(岩波書店)の書評を CUT で書いて、その中で浅田彰のクラインの壺のたとえ話はまるっきりまちがっている、という話を書いたところ、「浅田彰のどこがまちがっているといふのですか!」 というお手紙をたくさん(正確には三通)いただいた。一通の苦情の背後には、百人のだまって不満に耐えている人々がいるという。だからたぶん、ほかにもそういうことを思ってる人は全国津々浦々いるんだろう。浅田彰は、ネットプチ論壇系では人気があるそうだし。

 で、どこがって、わかんないの? 左のクラインの壺を見てみてよ。どぉ、まだわかんない? しょうがないなぁ。というわけで、ここで説明しておこう。

 なお、ここで指摘したまちがいに気がついたのは、もちろんぼくだけじゃない。この中でもふれるけれど、ぼくもほかにもう一人(だか一団体だか)そういう例を見かけているし、某所で浅田彰の再来(だっけ。いや、浅田彰はまだいるんだから、再来ってはずはないな。でもそれと似たような表現)と評されたという稲葉振一郎も、この手の指摘をほかの人がしていた、ということをどこかの掲示板で言及していた。だけれど、いま探してみても、それを指摘した資料なんかはあまり見かけない。たいがいこういう批判って、座談会かなんかでちょっとついでに揶揄するくらいになっちゃって、正面切っての批判ってだれもしないんだよね。で、しばらくすると忘れられて、また同じ話が飽きもせずに蒸し返される。

 それが証拠に『構造と力』はまだ売れ続けてるようだ(1999年で45刷だって。すごいなあ)。ほうっておくと誤解しちゃう人も増えるだろう。だから、すぐに消えるような雑誌の座談会みたいなところで、なんかのついでにちょっとふれたりするんじゃなくて、こういう長期で残るはずのところで、どこがちがっているのかをきちんと正面切って書いておこうではないの。さいわい、ぼくはいま、好き嫌いはさておき、浅田の読者とかなり重なる部分でそこそこ知名度のある物書きだから、ぼくがこれを書いておくと、被害の大きいと思われる層にはある程度つたわるはずだ。



1. そもそも、浅田彰は『構造と力』で何を言おうとしていたのか。

そもそも、浅田彰は『構造と力』で何を言おうとしていたのか。クラインの壺の意義を理解するには、それがわかっている必要がある。

ただし、クラインの壺の意義を理解するにはこれは必須だけれど、クラインの壺がたとえ話としてまちがっていることを理解するには、『構造と力』の中身は特に必要ない。これはとっても大事なポイントで、また後で話すことにするけれど、ちょっと念頭においといてほしい。

 さてそこのあなた、安心していいよ。たいがいの人は、浅田彰が何を言っていたかなんてわかっちゃいないのだ。だからあなた一人があわてる必要もない。浅田って、パラノとかスキゾとか、そういうのだっけというくらいしか覚えていない人は、いっぱいいる。

でも、浅田は実は、恥ずかしいくらい単純なことを言っている。そしてそれは、『構造と力』なんかよりはるかに簡単に書いてしまえることだ。要するに、むかしはプレモダン社会だったのが、いまはモダン社会になっていて、そのうちポストモダン社会になるといいな、というだけのことだ。

これだとあんまりだから、もうちょっと簡単にまとめると:

もうちょっと詳しく説明しよう。

1.1 プレモダン

 むかし(プレモダン)の頃、世の中は単純だったのである。むかしは神さまがいたからだ。で、神さまがいろんなものを下々のものに降らせてくれたので、すべてのもののポジションがきちんと決まったのだ。

 人もものも、神さまに近いほどえらかった。王さまや皇帝は、神さまから「統治しなさい」と言われたからえらいのだ。ことばもそうだ。ことばは、神さまが「犬とゆーのは、あのハフハフ言ってしっぽふってワンワン吠えるあの生き物のことだよ」と決めたので、そういうものだったのだ。神さまがそうやってことばに意味を持たせてふらせてくれたのである。
 お金だってそうだった。お金は、文句なしにえらい、特権的なもので、ただの商品なんかとは格がちがっていたのだ。なぜかというと、お金は神さまに近い王さまとかがつくるもんだったからだ。現実にはそうじゃないお金もたくさんあったけど、ええい、うるさい、これはおおざっぱな整理だからそういう細かい話はいいのだ。そしてそれが、価値としていろんな商品の上にふってきて、それがものの価値を決めていたのだ。
 人間だってそうだ。むかしはおっかないお父さんがいて、お母さんをふくむ女を独占していて、それに反抗することで自分というのが決まってきたのである。エディプス的ななんとか、ってヤツだわな。そういうのはめんどうくさかったし、また一歩そこからはずれようもんなら、ひっどい目にあったのだけれど、でも一方で、わかりやすかったのだ。だからそういうレベルでは人は悩まなかったのだ。

1.2 モダン

 それがモダンな社会なり段階なりにくると、話が変わってくる。神さま死んじゃったもの。だからもう、だれかえらい存在が「こうですっ!」と決めてくれるわけにはいかない。お金は、もう特権的な地位があるからお金として成立するんじゃない。お金は商品の価値を示すけれど、なぜお金でその価値が示せるかといえば、その商品がお金と交換できるからであって、それはお金が商品と交換できるとみんなが思ってるからで……と、お金そのものの存在根拠みたいなのは確定しておらず、そういう堂々巡りの中にしかない
 ことばだって、ソシュールが出てきて、そういう確定したもんがあるわけじゃなくて、なんとなく他のことば全体の関係の中で、ことばが構造的に決まっておるのだ、という話になったわけ。犬が犬なのは、別に理由があるわけじゃなくて、たまたまそこが空いていたから犬ってことばが犬を指すようになっただけ。
 あるいは、人間の精神だって、自分が自分であるという根拠はなくて無意識は言語的に構造化されているとかなんとか、ラカンかだれかが言ったりして、意識の中でいろんなものが何かに対応する根拠ってのはなくてまわりとの関係で「まあそれではだいたいここらへん」といういい加減なことで決まっていて、「自分」というのだって、自分は他人じゃないから自分、というようなわけわかんない決まり方しかできないんだよ、という話になってきた。

 まてよ、と思った人はえらい。これって、言語や精神についての理論が新しく出てきたってだけで、言語や精神そのものが急に変化したわけじゃないのだ。実際には、言語は昔からずっと構造化されていたんだろう。ラカンが正しいとして、無意識は昔っから言語的に構造化されていたにちがいないのだ。だから、これをモダンな社会の説明として使うのは、すっごい無理がある。でも、それは考えないことにしよう。言語とはそういうものだ、貨幣とはそういうものだ、精神とはそういうものだ、というふうにみんなが考えるようになった、ということをとりあえずは重視しよう。
 そしてそこで出てくるのは、自己言及性のパラドックス、なんて話だわね。お金の価値は商品で決まり、商品の価値はお金で決まる……と堂々めぐりを続けていくととまんない。そしてそれをまじめに追求していくと、いつまでも終わりなしに堂々巡りするので、きりがないからだんだん目がつりあがってくる。これがパラノイア状態なのだ。だからモダン社会はパラノ社会なのだ。そしてそれは結構しんどいのである。

1.3 ポストモダン

 じゃあ、ポストモダンではそれがどうなるのか? 上とか下とか、そういうのは全然なくなって、もっとむちゃくちゃになるだろう。みんなが勝手に物々交換を始めたり、価値なんかぜんぜん関係なく平気でモノをあげたりもらったり取ってったりして、ことばも意味とはぜんぜんちがうところで駄洒落だけでつながってみたり、人も自分の存在根拠だの自我が云々だの言うことなく、なんかヘラヘラしつつ、おもしろきゃいいや、その時々で精神分裂症のようにいい加減にポジションを決めつつ(これがつまり、「スキゾキッズ」ってやつ)軽やかに生きてゆくであろう。

 なるほどね。実際の精神分裂症ってのは、そんな好き勝手になりたいものになれるようなお気楽なものじゃないようだけど、話はわかる。それで?

 「それで」はない。それだけ。浅田彰『構造と力』というのは、つまりはこれだけの本なのだ。

追記:これは言い過ぎだったかな。ほかにミネルヴァのこうもりがミミズクと野合したりする序文はかっこよくて、ちょっと「新教養主義宣言」みたいでいいぞ。

 ちなみに、プレモダンからモダンへの移行は、資本主義みたいなものの浸透につれてずっと進んできた。それはまあ、歴史的な経緯をみるとある程度納得できる。では、モダンからポストモダンへの移行はどうやって起こる? 実は、それはわからんのですよ。浅田彰はそこで、軽やかに逃走の線を描いてどうのこうの、とかスキゾ云々、というようなことを言う。いくつか個別の事例も出してくる。白石かずこの詩はよい、とか。スクリッティ・ポリティ(恥ずかしいなあ)がデリダを引用するのはすばらしい、とか。でも、その具体的な姿については一切書いていない。ポストモダン社会がくるといいな、というような感じのことは言っているけれど、それが確実にくる、とも書いていないのだ。


2. クラインの壺は、そこで何をしていたのか。

では、クラインの壺は、そこで何をしていたのか。クラインの壺は、たとえ話として使われていたのだ(ああそうだ、こういうときに「たとえ話」と言わずに「メタファー」と言う人がよくいるけれど、気取るんじゃないよ。「メタファー」ということばを「たとえ話」の意味で使いたがるヤツはたいがいバカだ。こんど、この手のバカ検出用語集をつくろう。あとはなんだろう。相対主義にオートポイエーシスにクオリアに身体性に……)。そしてそれは、モダンな社会における、特権的な地位なき自己言及的なものごとのあり方を示すたとえとして使われていたのだ。

クラインの壺と円錐、『構造と力』p.215 それをよく示しているのが、この図だ。
わかりやすいでしょう。むかしは、お金とか、ことばとかが、最初にがちっと高いところで決まっており、そこから意味とか価値とかが下々の商品やモノに降り注いでくれたわけですな。かれはそれを、円錐であらわしている。

そしてその円錐と対比されるものとして、このクラインのつぼが置かれていたわけ。

このクラインの壺では、上から下に価値や意味が降り注ぐだけじゃない。それがまた吸い上げられて、その吸い上げられたものが改めてまた価値や意味になって降り注ぐ。そういう無限の循環構造がここにはある。浅田彰は、それを円錐とならべてうまくビジュアルに表現しようとして、このクラインの壺を使っている。

 蛇足ながら、ポストモダンのたとえ話に使われたのが、リゾームだ。いろんなものがあっちいったりこっちいったり、あっちでくっついたりこっちで離れたり。が、それはここでは関係ない。

じゃあ、このクラインのつぼの使い方のどこがまちがっているのか。わかる人はもうわかっているはずだけれど、くどくしつこく説明しよう。でも、その前に、自分でちょっと考えてみてほしい。本当にこのクラインの壺は、浅田彰の思っていたような無限の循環運動をするだろうか。

ヒント:この図の細いところにいる「貨幣」を先へ進めたら、どこへ行く? 次に、これを逆回しにしてもとに戻したら、どこにくるだろうか? 20 秒考えてから、次へ進もう。考えてる間に、ずーっと下にスクロールしたってや。



おまえの笑顔はくらいんだ! 江口寿史『エリカの星』より
「おまえの笑顔はくらいんだ!」 ――江口寿史『エリカの星』より

















3. 浅田彰のまちがい

  ようこそ。

さて、多くの人は、前のヒントに対してこう考えたはずだ。

「あの図の貨幣を先に勧めたら、ラッパの口みたいなところに落ちてくる。そして、その口のところにある商品の上に降ってくるんじゃないの? そして逆回しにしたら、そしたらそれはまた、さっきの商品の並んでいる口のところに落ちてくるわけ、でしょう? そうやって循環するんでしょう?」

確かに浅田彰は、そう考えていた。そして、それが浅田彰の(そしてあなたの)まちがいだ。

ただ、そのまちがいは、『構造と力』のクラインの壺の描き方によって、とっても気がつきにくくなっている。この、とっても巧妙な描き方は以下の三点だ。

  1. この内部のところで点線を使っていること。
  2. この「口」のところにいかにもな膜が張ってあって、そこに「商品」が載っているような描き方になっていること。
  3. その口の部分がなんだか開いて、らっぱみたいになっていて、パイプの接続部分が鋭角になっていること。

ふつう、クラインの壺はこんな変なラッパみたいな形には描かない。このエッジはもっと丸くするのがふつうだ。だって、壺だもん、一応、壺ならなんか、ものが入るようなところがありそうなもんだ。別にこんなラッパ型にとがらせる理由はぜんぜんないし、不自然だ。でも、ここではこれが不自然に見えない。なぜかというと、これが隣の円錐との対比になっているからだ。やるね。

クラインの壺。お買い求めはこの画像をクリック!  では、まずふつうのクラインの壺を見てやろう。左の図だ。これでさっきのヒントをもう一回考えてみよう。まず、この口の部分から吸い上げられた価値はどうなるか? この開口部に、何かを投げ込んでみよう。するとそれは、この上のわっかになったところを通って、また下に戻ってきて……そしてそこにたまっておしまいだ。ごらん。ここでは赤い水がたまっている。逆はどうだろう。貨幣は、ラッパの口みたいなところに落ちてきて……そしてそのまま下に落ち続ける。クラインのつぼの口のところには、膜も何もない。これは壺なんだよ。つぼをひっくり返せば、中身は外に出る。それだけ。

クラインの壺の口には、膜はない。そこに商品なんてのも、のっかりようがない。右の円錐なら、円錐の土台のところが閉じて、なんかそこに面があって、そこに商品がのっかってる、とは言える。でも、クラインの壺ではそれは言えないのだ。

ふたをすりゃいいじゃないかって? いや、ふたをしたら、それはトポロジー的にはぜんぜんちがう図形だ。したがって、ふたはできないのよ。ふたをしたら、それはもはやクラインの壺じゃないのだよ。

 『構造と力』の図では、内部の面が点線で描いてある。それ自体は作図のテクニックだから別に悪くない。でも、点線だからといって、そこに面がないわけじゃない。そこは通り抜けられないのだ。ところが、この図では点線になってるもんで、なんかそこを貨幣なり価値なりがすっと通り抜けて上のほうの細い部分に回収されちゃうような印象がある。

  その印象をさらに強めるためのテクニックが、このラッパの口の部分を鋭角に処理してあるやりかた。これによって内側の点線で表現された面と外部の面とが、連続したものじゃなくて、独立して重なりあっているような印象が創り出されている。イーンチキ!

  たて切りにしました。 わかりやすくするために、円錐とクラインの壺を、ずばっと二つ割りにしてみよう。……クラインのつぼってたて切りにすると、しなびたチンコみたいなのね。しかしそれはさておき、この図で金玉の間のところから、「価値」や「意味」を送り込んでみよう。それはぐるっとまわって……そして、金玉のふくろにたまる。それでおしまい。逆は? 金玉から出た価値や意味は、口を通って下に落下して……どっか下の床まで落ちる。それだけ。循環しないのよ。貨幣と商品の循環、という浅田彰の理屈を説明するのに、このクラインの壺がまったく不適切であることがわかるだろう。 循環しないのですよ、クラインは

  これでもまだ納得しない人は、自分でクラインの壺をつくって見るといい。え、クラインの壺がつくれるのかって? うん、厳密には、三次元ではつくれないんだけれど、でもそれにかなり近いもの(正確にいうと、クラインの壺から円盤を切り取ったものだけど[注 1]、それでもここでの議論にはじゅうぶんすぎるくらいんのもの)は作れてしまうのだ。これがHal 田崎式「きみにもできるクラインの壺」だ! これできみも四次元人ヤプールの仲間入り[注 2]。中学高校の自由研究にも最適だぞ。実際につくる場合には、作り方の改良案も見ておくこと。

  これを作ったら、その口の部分からビー玉でもミカンでも入れてみよう。循環するか? しないでしょう。

 というわけで、浅田彰のクラインの壺のたとえ話はまちがっている。わかったかな。

注 1:さる科学者よりご指摘:「実は、円盤を切り取ることによって、境界のない多様体であるクラインの壺から、よりポストモダンでフェミニズムな境界のある多様体に移行するのだけれど、そんなこというと話がこじれますな」だそうです。話がこじれると言ってその話題を避けること自体に、女性性を抑圧せんとする近代ファロゴス中心主義に毒された科学主義者の策謀がみなぎっていることは、ここで敢えて指摘するまでもないだろう。

注 2:若い子は知らないようだが、四次元人ヤプールは、ウルトラマン A (エース)の悪者だったのである。今にして思えば四次元人のくせに、いつも三次元人にまけている情けない悪者ではあったなあ。
追記:四次元人ではなく、異次元人、だそうです。うううう。全宇宙のヤプールのみなさん、失礼しました。

ビール入りクラインの壺! あと、クラインの壺は買うこともできる。ちなみに英語では、クラインの壺はKlein Bottleなんだね。以下からお買い求めください:

http://www.kleinbottle.com/

で、見て見て、となりにあるのは、この会社がつくってる、クラインの壺型マグカップだ。ビール入ってまーす。循環なんかしてないでしょー。これの構造についての解説は、このページを見よう! おもしろい。「内側の部分は清掃不可能なので、ミルクは入れないように」「中に入れる液体を調整すると、これは気圧計としても使える」あ、そういえばそうだ! 資本主義は気圧計でもあったのですね。だれか、浅田彰の身近にいる人はこれを買って浅田彰にプレゼントしてあげよう。

 追記:なに、この ACME Klein Bottleって会社をやってるのは、あのクリフォード・ストールなのぉ??! ぎゃははははは。やるなあ。


4. ぼくの先人たち

 さて、ぼくがこれに気がついて、自分の頭のよさに悦に入っていた頃に、東大の駒場生協に安っぽいワープロオフセットみたいなパンフが並んでいた。それはちょっと別の角度からこれを指摘していたものだった。

 そのパンフは、浅田がここにクラインの壺をひっぱり出す必然性があるのか、と論じていた。だってさ、単にものが循環するってことが言いたいだけなら、別にクラインの壺はいらないじゃないか。下のやつをそのまま受けて、上にまわしてやるような仕組みがあればいいわけだろう。だったら……

 ホースを単にドーナツ状にわっかにすればいい。下のモノは吸い上げられて、ぐるぐるまわる。それでじゅうぶんだろう。その人たちは、これを「アサダの壺」と呼んで嘲笑していた。「これをアサダの壺と呼ぼう。しかし、なんとつまらない貧相な壺だろうか!」当時大学生だったぼくは、それを読んで笑ったけれど、でもやっぱり、クラインの壺にはもっと深い意味があるんじゃないか、これだけを持ってクラインの壺や浅田を否定しさることはできないんじゃないか、という気がしなくもなかった。

 いま考えると、この人たちの言い分は完全に正しくて、これでクラインの壺を否定することはじゅうぶんにできている。あなたたちはえらかった。たしかこのパンフは、「京都大学経済なんとか研究会」とかいうところの発行だったのだ。もし詳しくご存じの方がいたら、教えていただきたい。

注:……と書いたら M 氏より、「これはおそらく、駿台予備校京都校の英語講師(当時。現在は不明)、表 三郎氏のシンパ?の学生達が作っていたサークル『京大アバンギャルディズム研究会』という哲学/思想研究サークルの会報のことかと思われます」との情報あり。ありがとうございます。しかし表三郎って、この人は一方であまりに単細胞で「素朴実在論」だったような印象があるんだが。いま読むと印象ちがうかもしれないけれど。それに、『京大アヴァンギャルディズム研究会』、だってぇ? まったく、若気のいたりとはいえ、恥ずかしいにもほどがあります。クラインのつぼをまちがえるのと五十歩百歩。許しませんよ。却下。やっぱ見なかったことにしよう。


5. FAQ

Q01. クラインの壺が、たとえとしてはまちがっていることは納得しました。では、浅田彰の主張はまちがっているのでしょうか。

いいや。そういうことじゃない。たとえがまちがっている、というのと、中身そのものがまちがっている、というのとでは話がちがう。ぼくは、たとえがまちがっている、と言いたいだけ。単に、かれの言いたいことのたとえとしてクラインの壺は使えないというだけ。かれの主張そのものは、そこそこ妥当だし、うまく整理もついている。

Q02. なぜかれはまちがえたのでしょうか。

うん、これはなぞ。たぶん初出時に『現代思想』に書いたエッセイ(『構造と力』は、実は書きおろしではなくて、いくつかの雑誌掲載エッセイをベースに加筆してったものだ)の頃には、クラインの壺についてきちんと理解していなかったんだろう。単にうっかりしてただけ、というのがいちばんありそうだ。でも一方で、このとってもミスリーディングな作図とか、かなり作為的なんじゃないか、と思わせる部分はないわけじゃない。それに初出と単行本化の間には、かなりの時間がある。気がついたっていいはずだ。実は確信犯でやっていたのでは? でも、これは楽しい邪推だけれど、確証はない。

Q03. かれは自分のまちがいに気がついているのでしょうか。

絶対気がついてる。浅田彰はバカじゃないし、すでに多方面から指摘はあるようだから、気がついていないわけはない。書いてる時点で気がついていて、わざとほうっておいた可能性すらあると思う、というのは上に書いたとおりだし、後からだって指摘されれば、浅田はちゃんとそれを理解するだろう。ぜったい気がついてる。まちがいない。

……と思ったんだが、実はそうでないのかもしれない。東浩紀の郵便なんとか(青いヤツ)に載った、1998 年に行われた東・柄谷・浅田・大沢座談会で、浅田彰はこんなことを言っている。

浅田:円錐のモデルにせよ、クラインのモデルにせよ、それ自体は単一モデル――いわば一主体モデル、あるいは一国モデルじゃないですか。それを精密化していくと、底のところはマジック・メモで多層化しているとか、そこから剥離したマークの断片がクラインの管に流れ込んでいく(中略)とかいう話になるんだけれども(後略)(p.366)

ここで浅田が言っている「底のところ」っていうのは、明らかに浅田の図にある、ラッパの口のところだ。もう読者のみんなはわかってるよね。そんなところには、底はないし、なにものっかれないし、マジック・メモだの、そのマークが剥離、なんてことも起こりようがない。わかってれば、こんな「底」なんていう議論は、出てこないはずなんだ。だから実はいまだにわかってないのかも。そしてもしわかっていたとしたら……浅田は、ほかの対談出席者を完全にバカにして見下しつつ、そいつらのレベルにあわせてわざと与太話をしていたわけね。どっちにしても、ろくなもんじゃないなぁ。

 さて、このマジック・メモってなんだろう。ぼくは知らないけれど、これはどうも、東浩紀のデリダ論かなんかに出てくるらしい。そしてかれもそこで、クラインの壺の「底」が云々、という話をして、そこからモノが吸い上げられ、という話をしているようだね。だれかチェックしてほしい。もし東がそういう話をしているなら、かれもクラインの壺をぜんぜん理解しないまま、一知半解で使っていることになる。東浩紀が「知の欺瞞」的な科学数学トンデモ濫用をし始めている点は、菊池さんも指摘している。思い当たるなら、はやめに反省してなんとかしなさいよ。さもないと、数年後にまないたに上がるのはキミよ。

追記:豊福 剛氏の情報によると、「『存在論的、郵便的』の後半は、クラインの壷がしつこいぐらいに登場しますが、まんま山形さんの指摘しているとおりに、完璧にクラインの壷のトポロジーを誤解してますね。円錐の頂点から円錐の底面に、細いホースが伸びてるものとして、クラインの壷を誤解しているようです。しかも、ご丁寧なことに、循環する矢印までついてます。これって、弁解の余地なしですね。 「短絡回路」なんて書いてある」とのこと。ついでに、クラインしているだけじゃなくて循環したうえに決死の跳躍までしてるそうな。うーむ。あとで確認しよう。さあ東くん、泣いて「ぼくは浅田彰にだまされた!」と自白するんだ! そしたら(無罪にはならないが)執行猶予をつけてあげやう! きみはまだ若い! 社会復帰もできるぞ! さあカツ丼でもくいたまえ。ちなみにマジックメモって、フロイトに出てきたのをデリダ経由で東が援用していて、なんか何度も書いたり消したりできるおもちゃ、だそうな。

Q04. でもそのインタビューで浅田は、クラインの壺をモデルとして据えることに反対しているじゃないですか。反省してる証拠じゃないですか?

優しいなあ、みんな。じゃあその問題のところを引用してあげよう。

浅田:だから、僕は自分自身の導入したクラインの壺のモデルを中心に据えることに反対なので(笑)、いかに底がマジック・メモ化され、管がリゾーム化されるとはいえ、結局は単一システムから出発してしまいますからね。(p.368)

ごらん、かれがクラインの壺をいやがっているのは、クラインの壺のたとえ話そのものがまちがってるから、ではない。それが単一のモデルだから、なのだ。バカだな、クラインの壺はホントは3次元では厳密には描けないんだから、これは「めたふぁー」なんだ、と言えばすむじゃないの。それにモデルは、ありとあらゆる部分を描き出す必要はない。自分の説明したい部分が表現されてればいいのだ。とにかく、こういうのは反省とは言わないのだよ。クラインの壺は、資本主義の無限循環の比喩として不適切だ、とはっきり言わなきゃ。あやまんなくていいから、どっかで訂正するとか、それがかっこ悪いと思ったら、思考が新しい段階にきたとか称して前のをアウフヘーベンする形で破棄してみせるとか、やり方はいくらでもあるでしょう。

Q05. それならなぜかれはそうしないのでしょう。なぜ浅田彰はクラインの壺を撤回しないんでしょうか。

浅田彰『構造と力』表紙 なぜだろうね。すればいいのに。ただ、一つの理由は、もしそれを否定したら『構造と力』の目次立てが使えなくなって、本自体を撤回しなきゃならなくなるから、じゃないかな。『構造と力』は全編が、このクラインの壺のたとえに頼っていて、これをはずすとリライトはほぼ不可能だ。それに見てごらん、『構造と力』って、表紙までクラインの壺まみれなんだよ。これをなくしたら、この本は成立しなくなっちゃう。そういうことではないかしら。ちなみにこうやって似たような図がたくさん並ぶのは、チベット仏教における曼陀羅と相通ずるものを持つビジュアルアイコンの手法だ。浅田彰は、現代社会を単一のクラインの壺としてではなく、無限の循環と自己言及性の表彰たるクラインの壺それ自体が、またもやいたるところに無限に反復されて出現する、自己反復と言及をくり返す無限のメタ構造を持った存在として認識していたわけで、つまりハイパー資本主義をある種のクラインの壺曼陀羅として理解していたことが、この表紙からもうかがえるわけだね。そしてこの曼陀羅の主題が当時のもう一つのベストセラーであった中沢新一『チベットのモーツァルト』と通底していたことは、ここで指摘するまでもないだろう (注)。

(注:真に受けるなよ。)


Q06. 浅田もまちがっているけど、山形だってまちがっている。クラインの壺はその面の裏表が連続してることがキモなんだから、後半で山形がビー玉入れるとか言ってるのはナンセンス。

 クラインの壺のなんたるかは、単行本収録時には説明つけますけどぉ。アサダの壺のところで、敢えてトーラスとかいうことばを避けているあたりで、こちらの意図を察してくれないかなぁ。でも、ナンセンスにしても、入れたらあそこに書いたとおりになるでしょうに。この文章は、浅田彰がまちがってることを示すための文章なので、ぼくは浅田のたとえを実際にやってみたらどうなるか、というのを説明することでそのまちがいを指摘している。それだけ。まあとりあえず浅田がまちがってることが納得していただけたようなので、ぼく的にはそれでオッケーだ。

Q07. なるほど、このクラインの壺は、山形の指摘しているような意味ではまちがっているかもしれない。しかし柄谷行人の言うような、あらゆる商業的な交換における貨幣価値とモノの実際の価値だかなんだかの間にある亀裂の決死の跳躍を表現するためには、三次元空間中ではおさまらないクラインの壺というメタファーが有効なのではないだろうか。

 これは、ぼくに質問してきた三人のうち二人が述べたこと。逆に質問:クラインの壺だと、その決死の跳躍はどこらへんに表現されるんでしょうか? 別にクラインの壺は、三次元にはきちんとおさまらないというだけで、四次元的には別におかしくないのです。たとえ話としてそんなに優れてますか?
 さらに貨幣と商品の関係での決死の跳躍とかなんとかは、右の円錐のモデルでも存在したはずです。したがいまして、クラインの壺にだけ存在する性質をもとに、そういう主張を行うのは非常につらいと思います。最初にお金というモノを使った人はかなり決死の跳躍したんじゃないですか。
 また、もし貨幣と商品との間の決死の跳躍が存在するとしたら、どこで存在するはずでしょうか。商品と貨幣の間のところです。たとえばもし、さっきの断面図で上のわっかになった部分に切れ目があるなら、そういう話もできましょう。しかし、そういうものはありません。
 浅田は、少なくともクラインの壺との関連では決死の跳躍がどうしたこうした、ということは一切言っておりません。著者の言ってもいないことを、深読みしてあげる必要は特にないと思いますし、上の示したとおり、そもそもそんなものは読み取れないと思います。

Q08. でもでもでも……

いや、逆にどうしてあなたは、そうまでしてこのクラインの壺を擁護したがるのでしょうか? 浅田彰だって人の子、まちがいくらいするでしょう。「いやあ、まちがえました」「なんとか突っ張って押し通せると思ったんですが、ばれましたか、わっはっは」でよいではないですか。前にも言ったとおり、このたとえがまずかったからといって、浅田彰の主張が否定されるわけではないのです。

Q09. でも、決死の跳躍とかそういうのにふれていないってことは、山形は浅田彰の主張をじゅうぶんに理解していないんじゃないですか。それで批判するのはいけないんじゃないでしょうか。

 はい、ぼくがこの文をこしらえたのは、こう言われて頭にきたからなのだ。ぼくは浅田彰の『構造と力』での主張をそれなりに理解して、それに対してこのたとえ話は不適切だね、という話をしておるのです。どういうふうに理解しているかは、ここで説明いたしました。そしてクラインの壺が、その浅田の主張とどう対応しているか、ここで説明いたしました。どですか。過不足がございますか。ないでしょう。これを書くにあたって、わざわざ『構造と力』を買ってさくっと読み直したりもしましたよ。でも結論は変わらない。

 さらにさらに、理解していなくったって、この比喩が不適切であることはわかるのです。「クラインの壺は循環しません。だからこの図は変です」というのは、浅田の主張を理解していない人にだってできますし、十分有効です。浅田彰の主張を理解したら、循環しないはずのクラインの壺が循環するようになるか? なりません。

 もしあるとすれば、「浅田彰がたとえ話として使っているのは、クラインの壺の別の性質であって、だから『クラインの壺は循環しない』という話は、このたとえ話が不適切であるという理由にはならん」という批判はなりたちます。しかしながら、ぼくはそれをじゅうぶんにやってくれた例はみたことないです。

 どうもこれは「『知』の欺瞞」に対する定石の批判になってない批判と相通じるものがあるような気がします。その批判もどきというのは「哲学のわかっていないやつが哲学者の批判をするのは笑止」という代物です。

 しかし上にも述べたとおり、その場面での意味さえわかれば、細かい内容をすべて知っている必要がありましょうか。そしてもし科学や数学用語の使用がただのたとえ話で、それがかれらの哲学的主張の本質と関係ないのであれば、「はい、たとえ話としてはまずぅございました。生兵法はけがのもと、でしたな、お恥ずかしい」と言って、哲学の話をきちんと説明しなおせばすむのです。

 それができずに、批判されたこと自体についてああだこうだと言う、そしてある程度論理的に行われた批判そのものについては、なにも正面切って答えず、ひたすら「わかってない」をくり返す――ぼくはそのこと自体が、実は何か別のことを物語っているんだと解釈します。たとえ話であったはずの科学や数学用語が、実はたとえ話ではなく、中身と不可分のなにかだったんだろう、ということです。だから、そのまちがいを指摘するということは、実は(批判側の意図しないかもしれないところで)たとえ話のまちがいの指摘ではなく、もっと別のものになっているのです。そうでなければ、たかがたとえ話を否定されることで、なぜそんなむきになる必要があるのでしょう。

 浅田彰『構造と力』の場合にも、そういう面はあるんじゃないかと思います。クラインの壺は、ただのたとえ話ではなく、実はこの本の一つの本質でもあります。本自体で書かれている中身の多くは、他人の議論の整理です。でもそこに、円錐→クラインの壺→リゾームというわかりやすい図式をあてはめたのが、浅田彰の功績だったわけです。いや、別にわかりやすくはしていないな。でも、なんかもっともらしい図式を提供して、なんかみんなをわかったような気分にさせた、あるいはわかったふりをするのに適切な図式を提供してあげたのが、かれの功績なのです。むずかしいはずの現代思想を、そこそこ単純な図式に落としこんだ上で、その図式を、みんなきいたことくらいはあるけれど実は正確なことはわかっていない、でもなんか数学っぽくて賢そうなたとえ話でおさえて見せる、それが浅田彰の「価値」だったわけっすな。だからクラインの壺がたとえ話としてまちがっていると指摘することは、一部の人にとっては浅田彰の全価値を否定されるに等しいことである可能性は十分にある、と思います。

 ちなみに浅田彰もどっかで、「構造と力」を精算して、こういう変な信仰にすがってしまったかわいそうな人たちを解放してあげたらいいのにな、と思う。かれは某所で、特にオウム関連で、自分の書いたものに踊らされたバカやった頭の悪い連中のことまで責任は持てない、てなことを言ってました。まあ他人の誤解のめんどうまで見るこたぁないんだけど、自分の書いたものの中身にくらいは責任持って、かんちがいがわかったらそれをどっかで訂正するくらいの良心は持てよぅ、と言いたい気分も、ぼくはなくもないのだ。それが自分のベストセラーの首を絞めるものであっても、ね。

Q10. でも、じゃあ決死の跳躍とかどう思いますか。重要だとは思いませんか?

 それはここでの議論とは関係ない話です。が、思いません。これについては、近々出る予定の単行本『山形道場』でたぶん書きます。簡単に言えば、「跳躍」ってどのくらいの距離を跳びこえるつもりなのか明らかにしてもらえませんか、ということです。この種のお哲学談義は、そういう具体的なスケールの検討なしに、安易なたとえ話(「めたふぁー」っす)に頼ってるので、現実的にはなんの意味も持たないのです。

Q11. メタファーとして、数学的に厳密な話をすればクラインのつぼがまちがっていることはわかりました。でも多数の人がこの誤読を通じて「モダンの資本主義ではこうした循環がある」ということは理解したわけで、ということはこのクラインのつぼのメタファーにそれなりの意義はあったということじゃないですか? 科学用語がわからない目くらましとして使われている「知の欺瞞」の例とはちがうんじゃないですか?

 鰯の頭もなんとやら、というヤツですか。これは実は、開き直りが少ないだけで下のSQ02と五十歩百歩、というか中身的には同じなのですが――まず、意義があったらどうなのでしょうか? これは意義があったからここでそのまちがいを指摘しないほうがいい、というおしかり、でしょうか? 以下は、そういう趣旨だと想定した上での回答です。
 ぼくはそういう意味での意義があったかもしれないことを否定はしません。それを言うなら民間療法にも「買ってはいけない」にも星占いにも、それなりの意義はあるでしょう。でも、まちがってるものはまちがっているのです。意義があるからって、それをだまっている必要はないでしょう。
 次に、それは単に、浅田彰とその理解してしまった読者たちが、ものすごく運が良かっただけだというのはわかりますよね。本来であれば、「構造と力」が出たしゅんかんにみんなが石を投げるべきだったのが、たまたまみんなのあやふやな理解と浅田のあやふやな理解が一致したのが効を奏したわけですね。
 でもその人たちが本当に理解したなら、クラインのつぼのたとえ話をいまになって否定されたところで、特にこれまでの理解が崩れ去るわけではないでしょう。ウソも方便とは言いますが、目的が達成されれば、方便のウソはいらないのです。運良く浅田のまちがったたとえでモダン社会の循環という考え方を理解できた人は、ぼくのまちがいの指摘を通じて、クラインのつぼについても正しい理解が得られるわけです。すばらしいではないですか。ですから、指摘したほうがその人たちにとってももっと意義が高い。
 次にですね、ひょっとして、クラインのつぼを正確に理解している人が、このへんてこなたとえ話でかえって混乱してしまった可能性というのも、否定はできない……けどまあ、そんな人はあんまりいないか。でも、いたらこの文章を読んでその人たちの混乱はとけるでしょう。
 さらに、そういう理解って、ほんとうに「理解」したことになるんでしょうか? わかった気分になっているだけなんじゃないでしょうか。この文への反応を見ても、本当は理解していなかった人たちが理解したつもりになっていて、その無理解を隠すために浅田彰信仰とクラインの壺こじつけ擁護に走っている例が多々見られるように思います。その意味で、「知の欺瞞」に挙がっている例ほどスゲー代物ではなくても、それに通じるものは絶対あります。かなり軽傷ではありますが。
 理解の助けという話ですが、そういうあやういまちがったたとえ話に頼るよりも、ぼくがこの文のさいしょのほうに書いた簡単なまとめを読んだほうが、理解としてはよっぽど手軽で堅牢だと思います。

Q12: なるほどここの議論だと、循環はできないのかもしれない。しかしそれは、これが本物のクラインの壺ではないから、ではないだろうか。本物のクラインの壺は 3 次元空間内では実現できず、面を破らないと管の口があうようにくっつけられない。本物のクラインの壺では、4次元方向を通るから、そういう面の破れがなくても管の口が中に入ってこれる。だったらこの貨幣やら価値やら商品やらも、4次元方向を通ってこの面を通り抜ければ循環できるではないか!

……いやはやみなさん、よく考えますなぁ。「その情熱を、なぜもっと世界のために役立てようとはしないのだっ!」 いやしかし、確かに4次元方向を通っていいんなら、循環だってやらせることはできるかもしれない。でも、それが可能かどうかは、4次元方向がどうなってるかわからないので、ここではわからないわけだ。それともう一つ。もしクラインの壺でそうやって4次元方向を勝手に使っていいなら、となりの円錐モデルでだって勝手に4次元方向を通って何がどこにあらわれたっていいはずだ。いい、円錐が3次元の図形でクラインのつぼが4次元の図形、というわけではないんだよ。クラインのつぼがおかれるといきなりそこに4次元目がでてくるわけではない。そして、4次元というだけで何をしてもいいわけではないんだ。
 わかりやすくするために、二次元の世界の浅田彰を考えてみよう。二次元だから、浅田じゃなくて、薄田彰だ。二次元の薄田彰くんは、三次元の浅田くんと同じくかっこつけが激しいので、プレモダン社会を帯であらわして、モダン社会をメビウスの環であらわすだろう。そして、うーんそうだな、こうやって変な八の字みたいなメビウスの環をつくって「平面資本主義は、メビウスの環の上を価値が移動することで、このような二重の循環をたどるのである」と主張して、ベストセラーを書く。(図はこんどね)
 それに対して山形(じゃなくて二次元なら平形だな)たちは「おい待て、循環しねーよ。そこは作図でそう見えても、実際にはくっついてないんだから循環しないだろ」と主張するだろう。二次元でもいやみな連中だね、こいつらは。
 さて、それに対して「いやメビウスの環は二次元では実現できず、三次元でないとダメだ。だから価値だって三次元方向に移動すれば循環できる!」という反論がきたら……どうだろう。それは、理屈としてはそうだけれど、薄田くんの主張とはなんか関係ある話なのかな? 帯の比喩は二次元の制約の中で意味を持つ。だったらそれと対比されているメビウスの環のたとえも、二次元の制約の中でとらえないと意味がない。三次元でもそうでしょう。かれが円錐モデルとの対比でクラインの壺を挙げている、ということを考えてあげてほしいな。そうでないと、循環は救えても浅田彰は救えない、本末転倒の結果になるよ。
 なお、この議論を比較的緻密に展開してくれたのが以下の2 つのURI:

山形浩生「浅田彰クラインの壷批判」に異論。
その補記。

なかなかいいんだけれど(それにこのgifアニメは結構好きだ)、この補記にあるかれのバージョンの循環というのは、このナカタニ氏自身はまだ漠然としか理解していないけれど、まさにこの4次元方向から通り抜ける、という議論。下の方にある山形の否定する循環というのが、実は(×のついたところの貫通の理屈さえつければ)まったく同じものだというのを、もうちょっと考えて理解してもらえれば完璧。

 そのさらに続きがきているね。うん、ちょっと上の書き方はまずかったかもしれない。確かに4次元を導入しちゃいけないということはない。だからここでもすでに書いているとおり、4次元方向を通ってくる面に沿っての移動を「循環」と定義したいなら、それを循環すると言ってもいい。でも、それは浅田彰が『構造と力』で描いている「循環」とは別物なんだ(これはかれがクラインの壺を持ち出すプロセスを追うとわかる。)だからこれは、浅田彰を救う議論にはならないのだ。ちなみにナカタニ氏は「構造と力」をまだ読んでいないそうなので、いつかここの部分だけでも目を通して、こういう循環の話かどうか確認してほしいな。で、このちょっと続きが下の「反応」のところにあるので見てちょうだい。

2001/8/9付記:援軍がきてくれました。うれしいなあ。というわけで、四次元を持ち出しても浅田は救えません。4次元派の人は目を通しておいてくださいな。

「浅田彰のクラインの壺について」

 あと黒木さん、あれはミッキーマウス、というねずみなのです。


6. その他もっと頭の悪い人からの IASQ (Infrequently Asked Stupid Questions)

英語ではよく "There are no stupid questions" と言って、学校とかセミナーとかで会場や生徒からの質問をうながそうとする。でも、これはあくまで "Size doesn't matter." と同じく方便で、もちろんバカな質問やコメントは存在するのだ。でも、そんなものでも、少しは世のために役立つよう、ここで一部をさらしものにしようではないか。上の質問やコメントと比べて、意味のある生産的なコメントと、テメーが気取りたいだけの無益なコメントとのちがいを理解しよう。そして、もって他山の石としたいものであることだよ(ため息)。

SQ01. なあんだ、クラインの壺が循環しないってだけ? もっと根本的にひっくり返すような議論があるのかと思ったら。つまんねー。

すいません。つまんねーんです。でもね、ものを考えるっていうのは、ほとんどがそういう「つまんねー」の積み重ねなんだよ。科学だって、天才がすごいアイデアを出したから発展したのではなくて(その段階では思いつきだ)、それに対していろんな人がシステマチックに「つまんねー」検証を積み重ねていったことで、いまの高みまできているんだよ。そうホイホイ物事がひっくり返ると思いなさんな。ひっくりかえってないからって、「つまんねー」と一蹴しなさんな。その「つまんねー」の積み重ねで、やがてある日何かがひっくりかえることもあるんだから。「いつかでっかく当ててやる」と言ってなにもしないバカは、たいがいの場合、日々「つまんねー」努力の積み重ねの前では鼻くそ以下なのよ。
 それに根本的な議論があると思ったのは、そもそもあなたの勝手な思いこみよ。

SQ02. まちがってるのかもしれないけれど、でもそんなのは揚げ足取りであって、クラインの壺は、あの変な形の壺ってことでちょっとした違和感を導入するためのツールなんだから、まちがってたって関係ないのだ。

 そういう低劣な水準に安住してことたれりとしているから、いつまでたっても三流以下のバカなワナビーでしかないのよね、こういうことを言うヤツは。ぼくは浅田彰は、そんないい加減なイメージに逃げるほどはバカじゃないと思うぞ。フワフワした中身なしの印象のたとえ話なんてのは、田口ランディにでもやらしときゃいいのだ。それとも浅田彰もその程度、と言いたいわけ? そもそも、そこで違和感があるとどうしていいの? いずれにしても、つまんないまちがいかもしれないし、大勢に影響しないまちがいかもしれないけど(って、するよ、「構造と力」は全編このたとえ話に依存しているんだもの)、でもまちがいはまちがいだ。それくらいは理解しろよ。いいな。

SQ04. どうせ浅田彰なんて、まともなヤツはもうだれも相手にしてないんだから、こんなの今さら指摘したって意味ないよ。

 あっそ。だったら読まなければいいじゃないの。でも、ぼくはそんなに影響が小さいとは思わない。実際にこのまちがいを理解していない人は多いし、日本の現代思想界のホープ(なんでしょ、一応)たる東浩紀だって、上で指摘したけど、どうもこのクラインの壺を真に受けているようでしょう。これをいま指摘しておくことは、そんな無意味なことではないと思う。それに意味がなくったって、もうこうして書いちゃったんだから、公開しないよりしたほうが多少は役にたつかもしれないでしょう。

SQ05. 4次元というのは、「3次元では相反する事実が同時に成り立っている状態」くらいに考えています。長方形の辺がつながっても、面はつながらないと思います。クラインの壺は「壺であって、かつ、筒である」ものなので、くっついているように見えるあのラッパの口のふちのところは実はぜったいに水はたまらないのです。だから口のところにふたさえすれば循環すると思います。そう見えないのは、あれが3次元のにせもののクラインの壺で、管の入り口しかなくて出口がないからです。ちなみに「構造と力」は読んだことがありませんが、浅田氏の主張が「ポストモダンが実現するということは、クラインの壺が実現するのと同じくらい不思議なことなのだ (実現したら面白かろう)」というのであれば、私は同意するに吝かではありません。これは「ポストモダンとクラインの壺のイリオモテ解釈」とでも気取ってみたいね。だれかこんなこと言った奴、いままでにいる?

……いません。絶対に。できればこの先もいないでほしい(もっとも、これに類するヤツは山ほどいるので絶望ですが。浜の真砂はつきるとも、ともうしますから)。4次元ってそういうもんじゃないし、えーと、浅田のクラインの壺は、ポストモダンじゃなくてモダンのたとえで使われてたんだし、初等幾何の「辺」というのもよくわかってないようだし、えーとえーと、すみずみでたらめが充満していてどこから手をつけていいか(そもそも手をつけるべきかも)迷います。それでも見解を披露しようという蛮勇には敬意を表しますが(NOT!)死ななきゃなおらない病もある、とキルケゴールかなんかが言ってませんでしたっけ。


7. 反応

 その後、こいつをちょっと刈り込んで単行本『山形道場』に載せたことであるよ。すると、その半年後になって、「浅田彰がしばらく前にこれに反論していた」という情報が2ちゃんねる経由で入ってきた。なんだかi-モードの有料コンテンツだったらしいんだけれど、そこはそれ2ちゃんねるのこと、だれかがアップしてくれました。

……なにこれ。クラインの壺をつくる操作は4次元でないとできなかったら、あなたの議論がどう正しくなるの? 三次元的にふたをされているあなたのクラインの壺のあのふたは、4次元だとどうなってるの? ちなみに文中で言及されている「インターネット上の指摘」というのは上に出てきたナカタニ氏のページのことだ。ナカタニ氏の議論(あれはあれで正しい)ですら、ふたを前提にしたあなたの循環は弁護できないのよ。繰り返しますが四次元を持ち出しても浅田は救えません。上にも挙げたけれど、ここに目を通しておいてくださいな。

「浅田彰のクラインの壺について」

あと、non-cool で悪ぅござんしたねえ。でも、一応の方向性をほめてもらえたのは光栄です。ありがとうございます。

 ちなみにその後、ここでちょっとこれに関連した議論と、あと約一名壊れた人の電波ぶりが読めるのでご参照あれ。でも、日本のポモちっく現代思想の人の多くは、この電波な人を笑えないと思う。わかってないことをしたり顔で言い立てる衒学趣味といい、まちがいを指摘されたときの開き直りや議論のずらしかたといい、実はかなり典型例。

 あと、論点がきちんと理解できていないのに知ったかぶりをしている森岡正博は恥ずかしいやつなのだ。まあ対象の本も読まずに、自分のまちがった利己的遺伝子理解を得意げに書評と称して記述して平気な人だから、期待するほうがまちがってはいるんだけれどね。


8. 更新履歴

以下のほかにも、細かい訂正、修正などは随時行っている。

2002 年 4 月 9 日 Version1.7
菊池和徳氏による異論についてのコメントを冒頭部に追加。
2001 年 6 月 18 日 Version1.6.2
応援があらわれたので早速追加。
2001 年 6 月 18 日 Version1.6-1.61
「さる科学者」のまちがい指摘メールを反映させる……が、「さる科学者」はやはりえらくて正しかったので、まちがい指摘メールの反映を削除。ワタクシの信仰が足りませんでした。
2001 年 6 月 15 日 Version1.5
FAQ拡充(「4次元方向に動けば循環するのでは」の追加説明と、7 章に浅田彰の「反論」その他についてコメント追加)
2000 年 10 月 31 日 Version1.4
FAQ 拡充(「4次元方向に動けば循環するのでは」)
2000 年 10 月 11 日 Version1.3
FAQ 拡充(「意義はあるのでは」)、7章 更新履歴追加
2000 年 10 月 10 日 Version1.2
東浩紀もまちがえていることを追加。ヤプールについての訂正追加。Klein Bottle 社からの写真とリンクを大量採用。FAQ 拡充、6 章 IASQ 追加
2000 年 10 月 7 日 Version1.1
FAQ 拡充、各種コメント追加。
2000 年 10 月 1 日 Version1.0
初公開




その他雑文一覧 山形浩生日本語トップ


Valid XHTML 1.0! YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>