(『CUT』2000 年 08 月)
山形浩生
いや、ぼくは本当にすごいと思ったのだった。高校時代に伊丹十三編集の「モノンクル」という雑誌でロラン・バルトなんかに触れて、そこから構造主義言語学とかもちょっとかじったのだった。ふーん、ことばは構造的に決まっているのか。意味とことばを写像で記述したら、言語のエッセンスが抽出できるんじゃないかな、とかぼんやり思った。政党をベクトル化してその和で政治動向を予測できるんじゃないかとか、高校生のぼくはそんなことばっか考えていたのだ。学校で習う社会や国語は、羅列ばっかでつまんなくて、もっと本質がえぐり出せんのかと思ってたんだもの。だから、ポストモダン思想家の話をきいて、ホントにすごいと思った。ジュリア・クリステヴァが詩的言語を厳密に数学的に定式化した? おお、やっぱできるんだ! ジャック・ラカンは無意識の言語的な構造を、トポロジー的に定義づけてみせたのか! ハイパー資本主義はクラインの壺で表現できるのか! 世の中、なんと頭のいい人がいることよ。それにひきかえこの我が身。いや、当時のぼくは、そういうことが可能なはずだと思っていたんだもの。でも訳書を読んでまるっきりわけがわかんなくて、でもそれは翻訳のせいだと思っていた。原文がこんなにわやくちゃなわけはないから、いつか読んでみよう、と思ったのだった。あるいは、ぼくがまだ数学とかの勉強が足りないので、この式がここで果たしている役割がわかんないのだ、と思っていた。いつか勉強して出直してこよう。
で、だんだん正気にかえってきたのが、浅田彰のクラインの壷の比喩が、実はぜんぜんまちがっていることに気がついた頃かな。さらに蓮実重彦が、吉成真由美(流行かぶれの軽薄女で、当時はフラクタルのマンデルブロに取り入ってて、いまはなんと利根川進夫人)の文をほめていて、だめじゃーん、と思ったのもあったっけ。こいつらわかっとらんのではないか、とぼくの中の科学少年がわいわい言い始めたのだ。
そしてそれに輪をかけたのが、ウィリアム・バロウズの翻訳とかを始めた頃。行きがかり上、いろんなバロウズ関連のポストモダンちっく評論も山ほど読まされた。ゼツボー。ひとりよがりのこじつけと一知半解のデタラメの山。肝心のバロウズの文さえ読んでないのが一目でわかるやつばっかりなんだもの。さらにその後、ティモシー・リアリーの翻訳をしたとき、頼まれて武邑光祐(一知半解流行盲信オカルト屋さん。なんと東大の先生になっちまいやがんの。情けなや、わが母校よ)の解説を英訳したとき、わかった。こいつら、意味のあるものが書けないんだ。これって単語の出現頻度だけの文なんだ。ぼくはそれで、現代思想系の本を読むのをやめた。でも、あの最初にきいた、あの本家本元の、ラカンとかドゥルーズ=ガタリとかクリステヴァってのは、なんかあるんだろう、いずれそれを読もうとだけ思っていた。
そしてそれから、長い時間がたった。
ソーカルという学者が、インチキ論文をポストモダン雑誌に投稿してそれが受理されてしまい、大騒ぎになったという話をきいて、ぼくはかっさいした。そうだよな。ああいう文ってコツさえつかめば書けちゃうもんな。そしてそのソーカルがブリクモンとともに、そのインチキ論文をきっかけに出した本が Fashionable Nonsense だ。いろんなポストモダン哲学者どもが、いかにこけおどしでまちがった科学概念や用語をテンコ盛りにして使っているかを、こと細かに指摘した本だった。さっそく取り寄せて読んだ。
あああああああああ。
そうか。そうだったか。ぼくはずっとずっと、ありもしないまぼろしを追いかけてていたのだなぁ。多少のまちがいはあっても、まさか一から十まで全部でたらめとは思ってもいなかったのに。そうか、ぼくがわかんなかったもの、わかりたかったものは、実はもそもぜんぜんわかってなかったんだぁ。あれは武邑光祐のと同じ、意味ありげだけど無意味なことばの固まりにすぎなかったんだぁ。
その邦訳がこんど出た。「『知』の欺瞞」(岩波書店)。ぼくと同じように、むかしニューアカポストモダン思想にはまった(はめられた)人は多いと思う。まだその呪縛をひきずっている人もいるだろう。本書を読んでごらん。最初は一回解説の部分も通して読んで、それから引用されているポストモダン学者どものもとの文を読みなおしてごらん。それはとっても爽快な体験だから。自分には読み取れない、深い意味の網の目に思えたジャングルのような文が、一瞬のうちにその葉をすべて落とし、あたり一面茫漠とした荒野になってしまった中、呆然とたちつくすような気分。そしてその後、あれほど一生懸命、なんか深い意味があるはずだと思ったことばたちが、実はなんの意味もない(部分が多々ある)羅列にすぎなかったと知りつつ、そのことばの群れたちの中をボウッとさまようのは、とてもすがすがしい体験だ。何の心配もなく、無意味なことばの羅列を、手術台の上のこうもり傘とミシンの遭遇のような意外な並列として読み流す。ああビル、これもカットアップなんだね。
本書について、一部では邦訳発売前から話題になっていたし。すでにいくつか書評も出ている。たとえば科学と哲学の対話の不在を感じた、という珍妙な書評が読売新聞に載っていた。やれやれ、わかんないのかな。これこそ真の意味での対話の試みなんだ、ということを。対等な立場で見下すことなく、「うちはうちで、おたくはおたく」となわばり意識にとらわれることなく、同じ基準で物事を評価しあおうとしてるんだってことを。
それに対して「現代思想」サイドがどう応えるか――それは現代思想側の問題ではある。いまのところは、目にするのは感情論ばかりで、「哲学がわかってない」とか「人間的に許せない」とか「しょせん科学者なんてこの程度」とか、日本版への序文で挙がったパターンばかり。まあしょうがない。今後まともなものも出てくるだろう(いや、どうかな)。ただ、本書が出たことで予想される一つの大きな影響は、たぶん今後、あの業界でも「なに言ってるかわからない」というのが言いやすくなることだ。ああいう濫用は、もうやりにくくなるだろう。そして他人もそれを指摘しやすくなるだろう。それは今後長いこと、現代思想業界の空気を変えるはずだ。世代交代が進むにつれて、もっともっと風通しがよくなるだろう。そこから何が出てくるか、ぼくにはわからないけれど、これが悪い影響であるはずはない。
ところで本書について、単に比喩やアナロジーで使っているものをあげつらって、肝心の思想の中身を見落としている、という批判もある。でもそうなの? ぼくは少なくとも一部の著作については、「厳密に科学・数学的な基礎づけをしました」という部分こそが本質的な部分なんだと思っていた。ぼくがまちがっていたのかもしれない。それ以外に何かあるのかもしれない。
でもそれならぼくがぜひとも読んでみたいのは、こうしたこけおどしの濫用科学用語やレトリックをすべて取り除いて翻訳した、各種「ポストモダン」思想家どもの文章だ。いったいそこには何が残っているのだろうか。あの葉っぱの散り落ちた枯れ野には、実は本当に美しい花がひっそりと咲いていたのかもしれない。できることならぼくはそれが見たい。でも、かなりの確率で不毛の荒野に出会うだけのような気がして、まだこわくて見ていない。
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