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alc2016年12号
マガジンアルク 2016/12

山形浩生の:世界を見るレッスン』 連載 110回

食い物をめぐるナショナリズム:ブレグジットや貿易戦争の影の要因

月刊『アルコムワールド』 2016/12号

山形浩生

要約:ブレグジットの原因は、まずいイギリス飯の変なマメやソーセージに関する変な規制もあり、それがまたナショナリズムに火をつけて話が硬直した経緯もある。貿易をめぐる争いの根底には、単なる商売にとどまらない、そういう食い物ナショナリズムもあるのだ。


 前回につづき今度もEUネタを……と思っているうちに世間の関心はアメリカのほうに移ってしまって、少し時事性が下がってしまったかな。でも、EUという自由貿易圏の話は、いまや風前の灯火のTPPや、今後出てくる可能性がないわけではないASEAN経済圏構想なんかでも、少し参考になる面があるので、お勉強を兼ねた小話として紹介しておこう。

 自由貿易というと、ほとんどの人は関税や輸入制限の話だと思っている。そしてそれは重要なんだけど、でもいまや世界的に関税なんかは大きく下がっている。特にEUみたいな先進国では、そんなのは(農産物を除けば)ほとんどない。

 むしろいま問題にされているのは、各種の規制とかだ。たとえば家電の安全基準とか、自動車の排出基準とかがちがうと、関税がなくても日本とアメリカで自由にモノが行き来できない。それを統一していこうじゃないか、というわけ。EUが画期的(または無謀)だったのは、それをものすごい勢いで全面的にやろうとしたことだった。

 これだけきくと、結構なことのように思える。でも実際にやろうとすると、面倒な話がいろいろ出てくる。特に食い物に関してはこれが顕著で、イギリスはずいぶんとひどいめにあっているのだ。

 たとえばイギリスの朝食に出てくる煮豆みたいなのが、オレンジっぽい赤になっているのは、あれは独特な着色料を使っているせいだ。あるいは、魚の干物がちょっと金色がかっているやつがある。あれも、そういう色が出るような添加物を塗っている。でも、これはすべてイギリス人にしてみれば、イギリスの食文化にとって不可欠な食品だ。

 ところがEUの規定では、この着色料も添加物も、大陸の食品安全基準を満たさない危険物質として禁止された。輸出しちゃダメ、という話ではない。域内での規制統一だから、イギリス国内でも禁止しろ、ということだ。当然ながら、イギリス人たちは怒り狂った。大陸がイギリスの国民アイデンティティを貶めようとしている、許せんと言って。

 さてこれを読む人の多くは、イギリスがわがまま言ってるような印象を受けるだろう。でも将来、アジアで似たような試みが起きたときのことを考えよう。たとえばアジア各国では、フグは食べるなんてありえない危険な魚だ。地域の基準を統一したら、絶対にフグ禁止と言われる。

 あるいは納豆。あんな腐った豆を食うなんて頭おかしいよね、即座に禁止、となるはず。そう言われたとき、日本のみなさんが、はいそうですかとフグをあきらめ、納豆を捨てるだろうか。クジラの比ではない騒ぎになり、ネトウヨたちが納豆愛国運動やフグナショナリズムの旗を振り始めるのは避けられない。そして困ったことに、日本人以外の人は、何を日本人が大騒ぎしているのかもわからないだろう。

 イギリスの場合もそうだった。大陸側の人々は、イギリスがなんでそんなものをそもそも食いたがるのかさえ理解できなかった。そしてむしろ、イギリスの食文化の貧しさをバカにした上から目線の交渉をして、話はえらくこじれた。

 もちろんイギリスだけでなく、イタリアはパスタを変な小麦(とイタリア人は言うけどぼくたちにはわからない)で作るのを認め、ドイツは変な添加物入りビールを容認させられ、その都度各国独自のこだわりが非関税障壁だと罵倒されてみんな不機嫌になり……

 そしてそれだけ苦労して規制を統一したら、イタリアのパスタやドイツのビールの貿易が盛んになったかといえば、全然そんなことはない。それどころか、洗濯機とか自動車みたいな工業製品ですら、域内の貿易は全然増えなかった。ちょっとした文化や生活習慣の差で、地域ごとの嗜好は大きく差があるので、期待したような大きな貿易の利益は生まれなかった。したくてもできない、という状況なら障壁をなくせば貿易は増えるけど、そもそも貿易する気がないところで障壁を下げても何も起きなかったわけ。

 これがTPPとかアジアの自由貿易圏とかいう話にとって持つ意味は、たぶんおわかりいただけると思う。そしてイギリスがEU離脱を選んだのも、実はこのときの恨みがまだ残っていたからだという説もあって……



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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>