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alc2017年02号
マガジンアルク 2017/02

山形浩生の:世界を見るレッスン』 連載 111回

グーグル翻訳の急改善に伴う人間翻訳者と語学学習の役割変化

月刊『アルコムワールド』 2017/02号

山形浩生

要約:グーグル翻訳をはじめ、機械翻訳の精度が急上昇している。その中で、翻訳者の役割はどうしても下がってくるし、やがて語学学習や人間翻訳というものが持つ意味は本質的に変わるだろう。


 いまに始まったことではないけれど、特に最近になってグーグル翻訳の精度が異様に上がってきた。昔は機械翻訳といえば意味不明の金釘翻訳のことだったけれど、いまは会社でときどきやむを得ず依頼する翻訳会社の仕事より、そこそこ優秀なものが一瞬でできてくるようになった。あと十年は人間の優位が続くだろうと思っていたのが、わずか一、二年で差がつまってきている。

 ぼくはそれなりに優れた翻訳者ではある。でも、機械翻訳がぼくの水準にまで達するのは、ひょっとしたらあともう十年かからないかもしれない。さらにもう一つ、あらゆるものが本当にスマホをかざすだけで翻訳できるようになるなら、人々はそもそもぼくほどの高い水準を翻訳に要求しないだろう。よく言われることだけれど、ネットが栄えたのは、ネット上のコンテンツが別にこれまでのものに比べて優れているからじゃない。ユーチューブの動画は映像のプロにしてみればゴミクズだし、ほとんどのブログの文章はてにをはもでたらめで論理展開もめちゃくちゃなものばかり。でもほとんどの人は、それでいいのだ。たぶん翻訳も、そんなふうになるだろう。何か新しい本が欧米や中国で出たとき、翻訳を待つよりはグーグル翻訳で読んでしまうだろう。もはや翻訳家とかの出番はほとんどないはずだ。

 一部、生き残るものはあるだろう。文芸翻訳の一部、その中でも超絶技巧を要求されるような代物。アルフレッド・ベスター『ゴーレム100』というきてれつな小説を、そのままきてれつな日本語として完璧に翻訳しきった渡辺佐智得みたいな超天才翻訳家は、残るだろう。柳瀬尚紀の力作翻訳の多くも残るはずだ。あるいは、トマス・ピンチョン『メイスン&ディクスン』という得たいのしれない小説を、同じく得たいのしれない日本語に移し替えた柴田元幸なんかは、珍重されるかもしれない。ウィリアム・バロウズという既存の文をハサミでちょん切って並べ替えて、文になってない文を量産した作家を訳したこのぼくも、まあその末席くらいには入れるかもしれない。ただし残念ながらもちろん、そうした変な小説に対する需要はそんなにはない。するとそれが、職業として成立するかどうかはとても怪しい。

 そう考えるうちにふと気がつくのは、つまりぼくはおそらく人類史上最後の職業翻訳者の一人だということだ。ぼく個人だけでなく、いまいる翻訳者という人々は翻訳者という階層の最後となる。

 自慢ではあるけれど、ぼくは昔からそうなるべきだと思ってはきたし、何度かそう公言している。翻訳は本当は、本(または資料)作りにおける自動化された一プロセスであるべきだ。ホントなら、多くの人が本や雑誌の印刷所や製版所を気にしないように、翻訳者なんてのも気にするべきじゃない。翻訳者によって訳に変な色がつくのは、むしろその人々の翻訳技能が未熟なだけだと思っている。

 こう言うと、多くの人は山形の翻訳にはクセがあると思っているので、「何を言ってやがると思うだろう。でもぼくに言わせれば、他の人々のいわゆる「普通の」翻訳調こそが、原文のニュアンスを無視した歪曲ではある。人工知能が本当に進歩して機械翻訳が原文の細かいニュアンスをすべて拾えるようになったら、できあがるのは山形の翻訳に近いだろうとぼくは期待しているんだけど……

 が、それはさておき、そうなったときに何が起こるだろうか。翻訳という職業は消えるとして、たとえばもっと広い異言語習得みたいな活動はどうなるだろうか? 言語が世界観を規定するという考え方もあって、「XX語で考える」みたいなことを言う人もいる。ぼくはこれが眉唾だと思っていて、最近の機械翻訳の発達がどうもそれを裏づけてくれたみたいなんだけれど、それはまたこんど。でも新しい言語を学んだときの脳の変なよじれみたいな感覚は、明らかに思考の枠組みに影響しているようにも思う。それが機械に分担されるようになったとき、人類はどこに向かうのか……



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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>