人は誰しも自分なりのファンタジーを持っている。もちろん、その多くは他人さまに絶対に知られたくないような恥ずかしいものではあるのだけれど。異性(and/or同性)にもてもてになりたいとか、あのムカつく上司や部下や客を足蹴にしてやりたいとか、ぼーっとしている間に小人さんが原稿を書いてくれないかな、とか。
そうしたファンタジーの中には、それなりに一般性を持つものもある。駅の売店の文庫本売り場には、カバーの黒い本がたくさん並んでいて、どれも虐姦奴淫禁慰調教乱靡秘恥肛嗜隷女スチュワーデス教師妻秘書母OL妹姉といったタイトルがついている。内容は想像つくでしょう。あれは疲れたサラリーマンたちのファンタジー、でもある。そのファンタジーがある程度の人に共有されているからこそ、ああいうジャンルが成立するわけだ。ロマンス小説も似たようなものかな。
そして、その黒いののとなりには、ちょっと弱めの官能小説がある。だいたいは、卓越した性的能力を持った人(そしてかなりの割合で、社長の隠し子とか社命で女探しとか、公的なバックを持った人)が、自分では大した努力もせず、次々に女の子たちとまぐわえて、その女の子たちのおかげでピンチを切り抜けたりチャンスをもらったりして、営業成績を挙げたり出世したりというお話のファンタジーだ。これまた、みんなが日々妄想しているファンタジーを描き出した一大ジャンルとなっている。
あの『ハリー・ポッター』のシリーズも、ある意味でそういうファンタジーだ。もともと選ばれた人が、ちょっとピンチに遭いながらも最後にはお約束通り勝つ、という。ある雑誌でハリポタ人気について「だれでも頑張ればできるというメッセージ」なんて書かれていたけれど、ぜんぜんちがう。ハリー君は、身の上はさておき、魔法使いの世界に入れば生まれながらのスーパーエリートで、並の魔法使いが束になってもかなわない悪の帝王ともタイマン張れるし、遺産でお金持ちだし、スポーツでも一年生なのに大抜擢でエース級の大活躍。ハリー・ポッターの最大の魅力は、この「努力しないでも他力本願でなんでもうまく行く主人公」という設定にある。子供の頃、ぼくはちょっといじめられたことがあって、その立場が魔法のように逆転しないものかと日々願っていた。そういう子がハリー・ポッターを読んで救いを見いだすのは、ぼくはすごくよくわかる。それに大人もはまるというのは、いまの社会の息苦しさを示すものでもあるんだけれど。
もちろんそれだけじゃない。ハリー・ポッターのうまさは、その都合のよさを露骨にはさとられないように小出しにすることと、それをとても上手に楽しい舞台設定の展開とからめているところにもある。これは実にうまい。さらに、まだ邦訳のない最新刊で、著者はハリーくん自身以外のところで、かなり難しい問題をいっぱい持ち出してきている。性の問題、異文化の問題、奴隷解放問題――その意味で、ぼくはこのシリーズの先の展開にかなり期待している。それに、逃避は悪いことじゃない。
ただ――そこそこ楽しく読みながらも、それが別世界のようでいて、実はいまのぼくたちの生活の、裏返しだったり延長だったりすることに、ときどきぼくは鼻白む思いがしてしまう。そこに働く、サラリーマン向け官能小説と大差ない日常的なカタルシスが時に卑しく思える。そして、そうじゃないファンタジーに心が傾く。それは『不思議の国のアリス』だとか、レオ・レオーニ『平行植物』だとか、フィニー『ラーオ博士のサーカス』とかガーナー『ふくろう模様の皿』とか、ぼくたちの今の現世的な欲望とはまったく無関係に、独自のフィールドを持って屹立するまったくの別世界小説――別世界を描くんじゃない、それ自体が別世界になっている小説――なんだけれど。いつか、そういう世界についてお話する機会もあるかもしれない。
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