Valid XHTML 1.1! 免疫の意味論 連載第?回

肥満二段階仮説、あるいはデブの免疫療法に関する一考察。

(『CUT』1993 年 8 月)

山形浩生



 あと三時間もしないうちに、この飛行機はボストンについて、ぼくも現在の苦しみから解放されるはずだ。左腕が半ば麻痺した状態でキーボードを叩くのはなかなかの苦行だし、まして書評を書こうと本をひざに置き、ページをあちこちめくったりしながらだとなおさらなのだ。

 それにしても、である。アメリカに来るたびに考え込んでしまうのだけれど、よくも人間ってあんなに太れるもんだ。よく「映画館で 3 人分の席を占領するデブ」とかの笑い話があるけれど、これが冗談じゃすまない人たちがゴロゴロ(いや、本当にゴロゴロ)しているでしょう。二本をはじめアジア圏だと、太るにしても限界があって、これくらいのベースとなる肉に、余剰の死亡がこの程度ついているんだな、というのがわかる人ばかりだけれど、欧米で見かける、人間としての原形をとどめないような、肉体のたががはずれたような、脂肪の球体に肉団子製の手足をくっつけたみたいな、一歩まちがえると融けて流れ出しそうな人々って、どういうプロセスであそこまで成長するのか見てみたい気がしなくもない。

 あくまで想像だけれど、その推移は不連続だと思う。アジア型の肥満と、欧米型の超肥満との間には、何か決定的な一線があるのではないだろうか。つまりデブにも段階がああって、第一段階では普通に食べて普通に太っていくのだけれど、食べた量と肉体体積増加の関係をミルと(つまり食物の脂肪変換効率、食料摂取量に対する限界体積とでも言おうか)、これはあるピークを経て収穫逓減の関係にあるのではないか。食べても、体積的には増加しにくい期間がしばらく続くわけだ。しかし、ある臨界体積に達したとき、肉体をしばっていたベルトのような制約条件が、一挙にはじけとぶ。その先はもう、ビッグバンのような膨張過程がひたすら続くのみ。その臨界体積がどこかは不明だけれど、体内の総脂肪とそれ以外の組織との重量比が 1 対 1 を超えるあたり、というのがもっともらしい。

 たまたま、この原稿を打っているシカゴ/ボストン便のとなりの席に、この第二段階に突入して久しいとおぼしきおばさんがいる。この人物が、ぼくの現在の苦行の原因である。これが通路をやってきて、すわれんのかしらと案じていると、腕を下にまわして腹、というか肉体の下半分のたるみをヨイショとたくしあげると、あの小さなエコノミークラスの席に腰をおさめてしまったのには驚いた。そのたくしあげられたぶよぶよのかたまりが、ひじかけの上から流れ出してこっちにはみ出してくる。思いっきり窓側に寄っても、まだ迫ってくる。テーブルを手前に寄せることもできない。ぶにゅぶにゅした脂肪壁が、じとっと汗ばみつつこちらの腕に、まつわりつくように密着してくる。

 ところでこの人は、この、こっちに流れ出しているブヨブヨについても「自分の一部だ」と認識しているんだろうか。針でつついてもあまり感じなさそうだし、この人があちこちにからだをぶつけながら、そのたびに意外そうな顔をしつつ歩いていた様子を見ると、現実の物理的な体積の 20% くらい内側のところ(ぼくの考える臨界体積のあたり)に仮想的な自意識上の「自分」境界面が想定されていて、その外にはみ出した部分については、「自分」という感覚が希薄な感じがしてならないのだ。

 こんな話を書く予定じゃなかったんだが、ぼくがいま圧死させられつつ呼んでいる『免疫の意味論』(多田富雄、青土社)も、身体的な「自分とは何か」という話を(もう少しミクロなレベルでだけれど)展開しているもんで、つい嗜好がそっちに向かってしまうのである。

 「自分とは何か」といっても、本書は重箱の隅的哲学談義や自己啓発セミナー的自慰とは無縁だ。展開されているのは比較的ストレートな、免疫系に関する素人向けの解説である。この本で、ぼくはエイズの仕組みが初めてまともにわかったし、ガンや廊下やアレルギーについても多少は具体的に理解できた。だから、単純な科学解説書としても本書は優れている。

 しかし、通常の解説書の「いやあ、自然の知恵ってすばらしいですねぇ」や科学万歳的なお気楽さは、この本にはない。本書の魅力は、一つ何かが解明されるたびにもっと深いわからなさが顔を出す、その不安な部分にある。読む側としては、何だかんだ言いつつ、どこかで「自分とは何か」に対する答、つまり「自己」と「非自己」を免疫的に決定づける最終的な一線が、大筋は明らかにされるものと期待しているのに、それが一歩、二歩と後退して、結局出てくるのは妙にいい加減で不安定なシステム群なのだ(著者がわざとそういう印象を与えようとしている部分も大きいのだけれど)。それが他人事ではなく、この、自分のからだを律している! 読み終えて残るのは「よくまあこんな曖昧な仕掛けで、おれは生かされてるもんだなあ」という、感慨というか空恐ろしさだ。著者の「超システムとしての声明」というモデルも、この空恐ろしさを解消してくれるものじゃない。こういう不明瞭さを嫌う人もいるはずだ。が、それは著者も指摘するように、脳や都市や市場経済など、他の分野にも共通して立ち現れてくる空恐ろしさであり、モデルである。その意味で本書は適度に現代的であり、内容がいずれ古びた後にもその価値を保つ。

 ぼくが本書の題名と帯の文句から半ば予想していたのは、もう少し精神的な部分との関わりの話だった(見事に外れたけど)。40 代のおじさんたちは、「おれは気合いが入ってるからエイズなんかにかからない!」とかすごいことを併記で言ってくれるので楽しいのだけれど、そういうノリがあれば、いろいろおもしろい展開が期待できそうではないか。頭で思っている自意識と、免疫的な「自己」認識を連動させられれば、このとなりのおばさんはずいぶん助かるだろう(間接的にはぼくも)。免疫系が、臨界体積のあたりで余計な脂肪をそぎ落としてくれる、というような。

 しかし、それも想像するだに恐ろしい世界ではある。常時、肉体のどこかが壊死を続け、ボロボロ崩れ落ちる(クローネンバーグだな)。犬の糞のように、歩道のあちこちに人間の落とした脂肪瘤が転がり(こぶとり爺さんだな)、野良犬がそれを漁る。やがて人間の肉の味を覚えた犬たちは……

 ところで昔、前出の肥満段階仮説を知り合いに話したら反論された。人間の体内には飢餓感を促進する酵素は三種類あるけれど、それを抑制する酵素は一種類しかない。歴史的に人間を含む全生物は飢え続けており宇、常に食べられるだけ食べるのが生存には最も有効だったので、飢餓感を抑制する必要などなかったからだそうだ。つまり、太れるときに太れるだけ太っておくのは生物として当然であり、ぼくの考える臨界体積などという変なしばりが存在する必然性はまったくない、というのだ。宝飾が問題となるなど、地球の生物史上、このわずか百年前後、それもごく限られた地域のみのことであり、それを押さえるような仕掛けが存在するわけがない、と。よって、肥満は連続的に推移するはずである!

 それもそうだ、という気はする。

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