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: 51. : 二冊目 : 49.   目次

50.

ハーストから私に会いたい旨のメモ。所定の時刻に行ってみると、とりこみ中。控えの間には、興味の持てそうなものというとヴァレリーが一冊あるきり、これを私は拾い読みし陸じめた。すぐに、下線の施された次のような件りにぶつかった――

無比たらんとする大望に押し流され、全能への熱情に導かれて、大いなる精神を持っ男は、あらゆる創造、あらゆる営為、さらには自らの高遠なる企図すらも超えた。一方、それと同時に、おのれに対するいっさいの思いやりと、おのれの願いに対するいっさいの特恵を棄てた。一瞬にして彼はおのれの個性を犠牲に供する……ここに至るまでは、その白負が精神を導いてきた、ここに至って自負は費消される……(精神は)……自らを不如意で裸で、対象なき力であるという無上の貧窮へと還元されていると知覚する……彼(天才)は本能なしに、殆ど心像もなく存在する、そして彼はもはや目的を持たない、彼に似るものは無だ。

この一節の傍に、誰かが余白になぐり書き していた――「無上の天オは遂に人間であることをやめた」

ハーストが私に会えるようになった時、スキリマンではないかと思いながら、この本を控えの問に置いていった人を知らないかと訊いてみた、彼は知らず、図書館で調べてみればどうかといった。そうしてみた。最後にこの本を借り出したのはモルデカイだった。おそまきながら彼の筆跡だと認められた。

気の毒なモルデカイ! 自分がもう人類の一部ではないと感じるという恐怖以上に恐しいことが――或は、人間的なことが――またとあろうか?

悲惨……ここでなされていることの表現を絶する悲惨さ、



T. M. ディッシュ『キャンプ収容』 野口幸夫訳     平成18年7月16日