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alc2011年06月号
マガジンアルク 2011/05

『山形浩生の:世界を見るレッスン』 連載 64 回

フォロワー数で変わるツイッターのメディア性

月刊『アルコムワールド』 2011/07号

要約:ツイッターの持つメディアの特性は、フォロワー数によってだんだん変わる。それに自覚的でない人の多くは、自分のおかれた環境にまったく鈍感なために愚かしい醜態をさらすことが多い。が、求める水準のメディアにとどめるための作業もむずかしい。


 ある人の書くものでも、あるいはツイッターのツイートでもいいけれど、長いこと見ていると、ときどきその人がだんだん——または突然——おかしくなって、ぎょっとすることがある。今回の震災と原発事故では特に、ツイッターでそんな光景が見られた。それまで普通あるいは高めの見識を持つと思っていた人が、いきなりわけのわからないことを言い、デマに踊らされ、それをたしなめられると逆ギレして相手を罵り、過去の発言との矛盾を指摘されると変な言い訳を始め、底の浅さを露呈して失笑を買う例が随所に見られた。

 むろん、これは震災や原発だけじゃない。その理由はあれこれ考えたんだけれど、たぶんツイッターというメディアの特徴があるんじゃないか。ツイッターは、フォロワーが増えるにつれてメディアとしての質が変わる。でも多くの人は茹でガエルのようにその変化の閾値に気がつかないのだ。

 フォロワーが数十人くらいであれば、お友達の雑談サークルの世界だ。フォロワーはすべて、自分が何者か知っている。何をいってもかまわない。そいつらは、こっちが間違っていれば耳の痛いことも言ってくれて、それでも「あ、まちがえた」ですむ。

 でもちょっと気の利いたツイートでもして、フォロワーが百人を突破したあたりで、だんだん様相が変わってくる。自分のことをよく知らない人もフォロワーで入ってくる。内輪の冗談も通用しない場面が増えてくる。もはや、ツイッターは仲良しコミュニティの道具ではなくなる。冗談の通じない人や、揚げ足取り人もちらほら出てくる。一方で、こちらも知らない人に恥ずかしい指摘を受けて、むかつく思いをするケースも増える。でも、ここらは一応、いろんな意見のやりとりもあり、話をするのは自分と多少共通点はある人で、生産的な議論もしばしば展開される。

 が、フォロワーが千人突破から二万人あたりで、たぶんツイッターの魔境が生じる。自分をまったく知らない人もフォロワーに入る。いや、そういう人が圧倒的多数になり、かつての仲良しコミュニティの人々はほとんどいなくなる。ツイッター上で行われる発言は公式発言となり、だれかとの議論も(本来なら)人の目を気にしたものとなる。さらに、フォロワーの中でも、自分の信者とも言える人、好意的な人、ただの野次馬から、耳の痛いことを言う人まで出てきて、その中から自分の好きなサブグループを拾い出すことが可能になる。そしてここで、たいがいの人は、自分の好きな(つまり自分に何でも賛同してくれたり、自分が賛同している意見を常に言う)人だけを選ぶ方向に走るのだ。それも無意識のうちに。

 人が変わり始めるのはそのときだ。そうなったとき、だれかが自分のまちがいを適切に指摘してくれた場合ですら、それを否定して「あなたは正しい」と言ってくれる人が出てくる。ぼくの見る限り、人が豹変してしまうのはそのあたり。そうなったとき、自分が耳を傾けるコミュニティは自分自身の鏡像となっている。それなのに自分は、多くの人のコメントをもらい、外部からの意見を聞いているようなつもりになり……そしてそうなったら、人はどんな方向にでも暴走できるようになってしまうのだ。

 さらに進んでフォロワーが数万人単位になってくると、おそらくもうメディアとしての性質は完全に変わる。そこでのツイートは、もうただのアナウンスとなる。ツイッターは直接コミュニケーションで云々と言われたけれど、レディ・ガガやオバマ大統領が自分のフォロワーたちと双方向のコミュニケーションしているなんて、まさか思っていないでしょう?

 ぼくはそういうのを避けたくて、一時ツイッターではフォロワーをランダムに切ったりブロックしたりして数百人単位に抑える、というのをがんばってやっていた。疲れたこともあって、いまはツイッター自体から撤退してしまったのだけれど。でもタコツボに陥らず、社会性と客観性を維持し続けるにはどうしたらいいのか、いまでもいろいろ他山の石を見て考えてしまうのだ。

追記。

ぼくは一時、フォロワーをランダムに切ったりブロックしたり、また自分のツイートを一週間から一ヶ月で消したりしていた。それを見て、ずいぶん変なことをしていると思われたし、実際かなり変なことだったとは思う。が、その背景ではこんなことを考えていたわけだ。

 基本的に、ぼくがやりたかったのは、情報、つまりぼくのツイートが完全には伝わらない、という状態。不完全に伝わるようにしたい、ということ。『CODE』読者やレヴィ=ストロース読者なら、その意義がわかるはず。で、まず、ツイート非公開で陰口をたたくのはいやだったし、それならツイッターなんか使うまでもない。誰でも、見ようと思えば見られる状況にはしておきたい。だから公開にはしておく。一方で、上にいるような理由で、特定の人間がぼくの口走ることをすべて見る、というのもいやだった。言うことすべて見られていると思うと、言うことに自分で制約をかけてしまう。何でも受け入れてくれる支持者や、揚げ足を取ろうとしているストーカーだけに囲まれている状況は避けたい。そして、伝達が時間とともに劣化することが必要。

 でも、そのフォロワーの選択を、その人物の背景審査までするわけにもいかなし、またそういう恣意性を入れると、どうしても自分に都合のいいファンや追従者だけを無意識に選択するようになる。というわけで、ランダムにフォロワーをはずすことで、ぼくの言うことを自然にすべて見ることになる人を減らし、しかもその特性の偏りに歯止めをかけようとした。ぼくをフォローした人というだけで、すでに選択バイアスはあるわけだが、まあ知らない人に無理にフォローさせることはできないので仕方ない。さらにはずすだけだとすぐに戻す人が多かったので、ランダムにブロックもかけるようにした。ぼくのツイートをある程度は半ば偶然、半ば意図的にたまに目にするけど、見落とすものも多い、というなるべく普通の読者(つまりぼくの執筆するものをすべて読む読者というのはほぼあり得ない)をフォロワーとして再現できないか、と考えた。それにより、べたべたしないけど傾聴すべきコミュニティみたいなものが実現できるか、というのが魂胆ではあった。

 もしツイッターが「半分フォロワー」とか「quarter フォロワー」とか作ってくれたらありがたかったんだけどね。つまり、その人の TL にはぼくのツイートが確率 50 パーセントや 25 パーセントで現れるわけだ。とはいえそんな馬鹿なものをほしがるのはぼくくらいだろう。それに実際には、フォローしている数の多い人はTLを全部読むわけじゃないだろうから、どのみちすべて読まれるわけではないんだろうけど。だからたぶん杞憂ではあるんだけど。



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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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