『山形浩生の:世界を見るレッスン』 連載 6 回
月刊『マガジン・アルク』 2006/09号
要約:富岡製紙工場の女工の状況を描いた『富岡日記』は資料的価値だけでなく読み物としても実におもしろく、その技術を学んだ彼女が地元に戻ってはじめた六行社の記録も驚異的。一年でこれだけの技術を身につけて教える側にまわるとは! なぜ当時の日本の女工にそれができたか(そしていまの途上国にできないか)は大きな課題だ。
仕事が受注できずにずっと日本にいると、だんだん部長の視線が厳しくなってきて最近なかなか肩身の狭い状況なのだけれど、その分国内で、日本の産業発展とか工業化についてあれこれ考えたりしている今日この頃。その中で久しぶりに本棚から引っ張り出して、読むだけでなくスキャンしてインターネットにあげてしまったのが、「富岡日記」という本だ。
これは実におもしろい。明治の富国強兵策の一貫で作られた富岡製糸工場をご記憶だろうか。これはそこの初期の女工として働いた横田英という人が、数十年たってから記憶を頼りに書いた富岡製糸工場の記録だ。
そしてこれは、働く側から見た富岡製糸工場の唯一の記録だ。一部では女工というと、大正時代の女工哀史のイメージが強い。泣く泣く故郷から連れてこられて、酷使されてひどいめにあわされ、という感じ。でもこの記録を見ると、少なくともここではまったくそんなことはない。むしろ彼女たちは、お国と郷土と一族の誇りをかけて、無理矢理どころか積極的に工場の運営に参加していたのだった。
そしてその描写の生き生きとしていること。最初は、異人に血をとられるといった迷信のためになり手がなく、各地の地元名士の娘がノルマ的に選ばれたとか。そこから富岡までの道中、食べ物、服装、工場の様子や女工間のいさかい。さらに彼女たちは一年ほどで地元に戻り、地元の工場で後進の指導にあたる。コスト削減を要求する経営陣に対し、彼女たちは品質維持を断固として曲げずに対立し、自分たちの要求を通す。それがすべて、今の人にはもう書けないような上品で美しい日本語で書かれている。
そして一方で、これはぼくのような開発援助の関係者から見ると、奇跡のような記録なのだ。
富岡製糸工場は、明治期のいろんな産業関連施設と同じく、外国の技術を導入して作った。富岡製糸工場は、フランスの技術が入ってる。いまの開発援助用語でいうなら、これはつまり技術移転の試みだった。しかもそれは、いまの開発援助みたいに、先進国側が「ねえきみたち、ちょっと工場の管理技術とか勉強したほうがいいんじゃない~? ほら先生も出すしお金も出してあげるよ」と尻をたたいて、途上国側が不承不承つきあうといったいまの技術移転とは話がちがう。途上国(つまり当時の日本)が、自ら外国の人材を探して招聘している。そもそものやる気がちがうし、招いた側は少しでももとを取ろうと骨までしゃぶる。
その技術吸収は、一女工レベルにまで貫徹していた。彼女も同僚の女工たちとのライバル意識を燃やしつつ、すさまじい情熱を傾けて繭から生糸を取る技術をみるみるうちに習得する。さらに彼女は一年もたたないうちに地元で技術指導!
すごい。技術移転の理想型。これを読みながら、ああ、あのXXXX国の連中に一人でもこんな情熱を持った人がいたら、とぼくは天を仰いだ。技術移転の先生役は結構いろんなところでやるけれど、「おまえ、宿題くらいやろうぜー」とか、おれは小学生の家庭教師か、と思うようなやつばかり。ねえ、これはきみたちのためなんだよ! なんでおれがお願いしてきみに勉強してもらわにゃならんの! 本末転倒でしょうが! あの連中なら一週間で音をあげただろうに。
そういう規律というのが、なぜ日本にはあったのか。しかも士族の娘とはいえ女工レベルにまで浸透していたのか。それはある意味で、なぜ国が発展するか、発展できるのかという謎のいちばん大事なところなんだけれど。この本を読んで、それがわかった人がいたら教えておくれ。ぼくにはいまだにわからないのだ。