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GDP というものの考え方について

山形浩生 (2008-08-30)

追記を先に (2008-09-03)

 稲葉大人がいろいろコメントをしているんだが、ぼくは実務屋なので、話をでかくしたほうが市が栄えていい的な学者的発想には与しないのだ。ぼくの議論がパーフィットの議論と似ている――それはつまりワタクシがパーフィット並にえらいということでしょうか? えへへ、照れるぜ。でも、パーフィットの名前を出すことで議論に資する部分はまったくないと思うの。技術論で片付くことは技術論で片付けるべきだと思う。その意味で、下の本文の後半で話をでかいほうに持って行ったのは失敗だったかもしれない。ぼくは 1970 年と 2008 年のGDP をそのまま比べることには十分意味があると言うのが主眼だ。そしてそれがもじもじの目的に合わないからといって、GDP 概念やその比較を否定するのは愚かなことでだよ、と言うことが理解されればそれでいい。

 主張を整理すると

1. 1970 年と 2008 年の GDPは比較できない
単位が同じなら当然比較できますよ。数字なんですから。
2. 背景となる政策、条件その他がぜんぜんちがうから比較できない
できますって。それに比較することで、その背景となる政策や条件等がもたらす影響が検討できるんだし。どういう目的意識で比較をするか次第でしょう。
3. まず重視するものに基づき政策を決めて、それが1970年に完璧に実施されたらGDPがどうなっていたかを推定し、それと2008年のGDPを比べるべきである
何を重視すべきかどうやって決めますのん? どうやって政策を決めましょか。多くの人はあなたのように、ドグマチックな価値感を抱いていたりはしない。所得保障が無条件にいいとか格差消失が無条件にいいとは思っていないし、可能な政策はいくらでもある。政策の有効性だって明確じゃないことは多い。だから、「まず方針がある」「まず政策がある」という発想自体がドグマ優先のまちがい。いろんな方針(またはそのミックス)があって、そのよしあしをなんらかの指標を使って比較する、というのが普通のやり方。
4. それでもまず政策を決めて(たとえば完璧な所得分配実現)、それが1970年に完璧に実施されたらGDPがどうなっていたかを推定し、それと 2008 年の GDP を比べるべきである
そうですか。もちろんそういう比較手法もあります。で、その場合、2008年のGDPはいまの半分になっていたでしょう。で、これは何のための比較なんでしょうか? ここから何を言います? 通常はこの結果を基に、完璧な所得分配実現をやるのは望ましくない、という結論を出しますが。
5. いやそうは言えない。所得保障がある GDP100 兆円と、所得保障がない GDP200 兆円は比較できない。前者がいいという考え方もある
あるでしょう。でもその考え方が社会全体に受け入れられるとは限らない。所得保障があるGDP100兆円の世界と、所得保障がない GDP500 兆円の世界では? 所得保障がない GDP1,000 兆円の世界では? 人々は「所得保障がある」に無限の価値をおくわけじゃない。各種の価値観がどれだけ重視されているかを見るのにだって、GDP みたいな数字は使えるんですよ。そしてどっちかを選ばなくてはいけないなら、比較は当然せざるを得ないでしょうに。

  というわけで、GDPはいろんな形で比較できるし、使い方も様々。比較が適切かどうかは、何を評価したいか、何を見たいのか次第なので、もじもじ的な主張は、傍流の一部としてはあり得るだろうけどそれでほかの考え方が間違ってるとはまるっきり言えない。

  ということだけを以下ではもっと明確に書くべきだったかも。

 それと、ぼくはこれをカンボジアで書いていて、しかも下の本文用のメモはよりによってツールスレン収容所で書いていたから、ポルポトの話は出やすいのよ。大規模な社会変革を短期間で起こそうとすると虐殺粛正などは起こりやすいし、その例としては適切だと思う。ぼくは品のよさよりは論点の伝わりやすさを重視するのだ。


 なんだかロンボルグの本のGDPに関する記述を見て、おもしろいことを言っている人がいる(webcite)。その議論はそれなりに興味深い。1970 年の GDP と、2008 年の GDP を漫然と比べて、何パーセント増えたの減ったの言うことは無意味だ、とこの人は言う。なぜかといえば、それは政策的な目標を反映していないからだ。たとえばマクロ経済政策として所得平等を重視するのであれば、1970 年に完璧な所得分配かなんかが実現されたと仮定しろ、と。それをもとに2008年がどのくらいの GDP であったはずかを推計して、それを現実と比べなさい、と。もちろんこの議論だと、これは所得平等以外でもどんな経済社会的な目標であってもいい。

  なるほど、そういう考え方はあるのかもしれない。だが、それが本当に意味あることだろうか? ぼくはそうは思わない。ぼくはそもそもそんな指標にまったく意味がなく、意味があったとしてもそれは解釈しようがなく、結果はあらかじめ決まっているようなものだからそもそもそんな指標を考える意味がない、と思う。

  なぜそう思うか? ちょっと説明しよう。

1. うだうだへりくつ垂れてないで、実際にやってみようよ。

  さて、この方はあれこれ聞いた風なことを述べている。でもさ、そんなご託を書いている間に、実際にやってみたらいかが? すると話の見通しがもっとよくなるだろう。なに、厳密な数字なんかいらない。大まかな置きの数字で手順を追うだけでも、いろんな問題点は見えてくるもんだ。

  というわけでやってみました。

  さてみなさんご存じのとおり、1970 年の社会では完璧な所得分配とやらは実現されていなかった。したがって、それがいきなり完璧な所得分配の社会になるためには、それなりのコストをかけなくてはならない。

  そしてそれにはすさまじい社会変革、ちょっとやそっとではすまないとんでもない革命が要求される。おそらくその前にあっては、ポル・ポトの変革でさえ甘く見えるだろう。そのためのコストはどのくらいだろうか?

  これははっきりした答えはない。が、ざっと見当をつけよう。それと、その際にポルポトみたいな粛正が起きたりはしないものと(甘く)想定してみよう。人口の二割が死んだりせず、社会の中のシャッフルだけですむことにしよう。そういう大幅な社会変革が経済に与える影響の事例としては何があるだろうか?

 共産圏の市場経済移行が参考になるかもしれない。おそらくこの「モジモジ」なる人物の考えるのとは逆の動きだけれど、社会的な混乱という点では共通してる。たとえばモンゴルでは、社会主義から市場経済に移行したときに、マイナス 10 パーセント成長くらいが何年も続いて、その後もかなりの低成長を余儀なくされた。他の共産圏もそんなものじゃなかったっけ(チェコとかはかなり速く回復したけど)。マイナス 10 パーセントが5年、さらにそれを一瞬で実現させるためにはさらに余計なコストがかかるので、まあざっと見積もって GDP の半分くらいコストがかかると思ってまちがいない。しかもその後は、新しい体制が機能するまでに五年くらいは成長横ばいだ。

  さて 1975 年以降の成長率はどうだろう。バブルは、所得分配が平等なら起きなかったんでしょ? すると日銀の変なバブルつぶしもなくてデフレもおきずに、少し高めの4%成長がずっと続いたとしようか。すると 1970 年に理想的な状態が(多大なコストをかけて)実現された場合の 2008 年の GDP は、かなり甘く見てもいまの実際の GDP の半分強にとどまりそうだ。

  というわけで比較ができました。で? これを見て何をどうしろと?

2. やってみてわかること

  やってみると、この手法については疑問がいろいろ出てくる。

  まず、この人は 1970 年に完璧な社会を実現させるために必要なコストのことを考えていただろうか? おそらく考えていなかっただろう。おそらく、1970 年の GDP と同じ水準で、スルスルっと社会体制だけが変わったら、というような状態を考えただろう。でも世の中そんなに甘くないのだ。社会を変えるには、それなりの手間もお金もかかります。しかも一気にやるなら、ここで見積もったコストですらたぶん甘いんじゃないか。

  この人物の文章の書きっぷりから言って、GDP が高いだけじゃだめだ、と言いたいわけだ。1970 年と比べて増えましたというだけでは意味がない、理想的な状態ならこのくらいまでいけたはずだ、というのを出すことで、単純に GDP が増えたというだけの議論に冷や水を浴びせたいというのが狙いだ。

  つまりおそらくこの人は、その理想的な状態に基づいた GDP は(当然ながら理想的な状態なので)実際のGDPより高くなるはずだと思い込んでいたんだろう。でも、社会を変えるコストまで考えると、絶対にそうはならない。

  次に、それだけのコストをかけて 1970 年に完璧な所得分配が実現されたとする。で、その後は? 1971 年は? やっぱり完璧な所得分配なんですか、それともその後の成り行きにしたがって理想的な状態からずれていくと想定するんですか? ほっておけばずれるだろうから、それを補正するなら、コストを積み増さなくてはならないだろう。すると、この結果はもっと悪くなるかもしれない。

  また、1970 年を基準にすると上のような結果だけれど、なんで 1970 年なんですか? 革命は 1965 年に起きてはいけませんでしたか? あるいは 1980 年では? 2008 年の数字を評価するのに、いろんな年を基準にした無数の数字が出てくる。どれを使えばいいんですか? どういう根拠で? さらに実現したい目標はいくらでもある。あらゆる人に超高度医療の機会を与える社会は? まったく二酸化炭素を出さない社会を目指したい人もいるだろう。どの評価でどの尺度で見ればいいの?

  というわけで、具体的にこの手法を使おうとすると、わけがわからなくなる。たとえば経済成長率ってのをどう解釈しようか? 1970 年と 2008 年を比べるのがナンセンスなら、それと 1971 年を比べるのもナンセンスだ。そうなると、経済成長率を考えるのは無意味になる。一人あたり GDP も考えられなくなる。それでいいんだろうか?

3. この数字の使い方

  さらにこの数字をどう使おうか? 実は経済を云々するときによく使うのは、むしろ成長率や、一人あたり GDP だ(ロンボルグ本も、豊かさ指標として一人あたり GDP を使うことが多い)。 いまの仮定だと、バブル期は現実には 7% 成長してましたが、この理想状態だと 4% しか成長しませんでした。理想状態ダメダメ。でも、近年だと、現実では 1.5% 成長だけれど、理想状態だと 4% が続く。理想状態ステキ! といえるかもしれない(でも、いずれの場合も豊かさは圧倒的に「理想状態」のほうが少ない)。さて、何を基準にいいとか悪いとか言おうか?

  ちなみに、国同士の比較も無意味になる。1970 年のソ連の一人あたり GDP と、日本の GDP を比べるのも意味がない。だって所得保障とか福祉とかぜんぜんちがうんだから。でも――それは本当に無意味なんでしょうか? この例でいえば、GDP はその制度がもたらす豊かさもあわせた一貫性ある指標として使えるからこそ有用なんじゃないでしょうか?

  そして最後はその結果の解釈だ。

  ざっと計算して、所得配分が平等だと GDP はいまの半分。平等でない所得配分で GDP は 510 兆円。平等な所得配分だと、GDP は 250 兆円くらいだろう。

  で、どっちがいいんですか?

 こうしたやり方は、一部ではすでに行われている。政策評価だ。あのときこうしていれば、どうなったか? この場合だと、1970 年に完璧な社会を実現していたら、いまのGDPがえらく下がってしまうことがわかりました、したがって 1970 年にそんな政策をとるのは賢明なことではなく、そんなマクロ経済政策はまちがっています、というのが普通の考え方だ。これはロンボルグ(やノードハウス)が、京都議定書遵守と現状維持とを比較するときに使う議論で、広く認知されている。

 が、この人の場合はちがうのだ。GDP がどうあろうとも、それよりは社会的な方針が優先されるらしい。この人物のあとのほうの記述によると、多少 GDP が低くても所得が平等のほうがいいとのこと。でも「多少」ってどのくらい? 半分でも「多少」ですか? でもそれならつまり、どんな結論が出ようが、所得が平等の方がいい、とこの御仁は強弁するんでしょ? だったら、何のためにこんな面倒で不正確な計算をしなきゃいけないんでしょうか? 結論はあらかじめ決まっている。GDP がどうだろうと、所得平等のほうがいいんでしょ、あなたは?

  つまりこんな面倒な計算をして、その妥当性についてあれこれ議論したところで何の意味もない。要するにこの議論は、GDP で何でも決まってしまうように見えるのはいやだ、というのをややこしく言ってるだけなのだ。

  もちろん、GDP という指標の限界はよく知っておく必要がある。GDP が高いからといってすべてオッケーというわけじゃない。ただし、GDP が成長することでパイが広がると、いろんな改革もやりやすくなる。それだけですべてが解決する訳じゃない。でも、経済成長なしで所得分配を解決しようとすると、ある層(たとえば貧乏人)が豊かになるためには、別の層の所得が減らざるを得ない。もちろんその層はいやがるだろうから、改革はずっとむずかしくなる。

  だから GDP はあらゆる経済政策の前提にはなる。でも、それだけをみんなが見ているわけじゃないことは理解しよう。

  そして同時に、「マクロ経済政策」というときの意味もきちんと理解しよう。マクロはマクロなので、細かい所得分配まではなかなか面倒見られない。金利とかマネーサプライとかいったツールでは、所得分配とか、物欲しげなニート連中が卑しい性欲をもてあましているのまでは面倒見切れないのだ。所得配分を平等に、という政策目標はあり得るだろう。でもそれは、マクロ経済政策では処理しきれない部分が多々あるのだ。

4. 生の一回性――自分のいない世界をどう肯定しますか?

  そして最後に一つ。

  この人は、1970 年に完璧な社会ができていれば、という。そしてそれに比べたら現代がどうかを見る必要がある、という。でも、そのときに一つ考えるべきことがある。

  その完璧な社会に、あなたは存在していただろうか?

  この人はたぶん結構年寄りで、1960 年代生まれなのかもしれない。だったら、1960 年を基準にしよう。そのときに完璧に平等な世界ができていたら、それは父や母が別の道を歩み、出会わなかった世界かもしれない。出会っても、貧しくて子供が養えずに最初の子(つまりぼく)は間引きされた世界かもしれない。その結果として、この議論を展開しているモジモジくんなる人物は生まれていなかったかもしれない。

  さて、あなたは完璧だけれど自分のいなかった社会と、不完全だけれど自分のいる社会とどっちを選ぶね? あなたはこの社会が嫌いなのかもしれない。でも、そのあなた自身もその社会のまちがいまで含めた結果の一つなのだ。この社会を否定することは、かなりの確率であなた自身の存在を否定することでもある。

  ほとんとの社会選択――たとえばマイクロソフトの経営方針をどうするか、卑しいニートどもが物欲しげなことを言わないようにどう黙らせるか――は、まあおおむね同じプレーヤーがいることを想定できる。でも、まったくちがう世界を想定するなら、そうはいかない。自分のいない理想社会がいかにすばらしくても……自分がいない世界をあなたは是認できる? 理想社会を作るので死んでくれと言われて、あなたは死ねる?

  死ねるなら結構。あなたは自分の信念と行動を一致させられる立派な人だ。今すぐ死んでほしい。でも、たいがいの人にはそれはできない。

  だったら、そんな世界を考えて、そういう世界でないと言って現状を責めるのは妥当だろうか。1970 年に、人々は革命を起こして所得分配を完全に公平にすることもできた。でも人々はそうしなかった。それは、当時の人たちが怠惰で不正に鈍感な怠け者だったから、なのかもしれない。でも、人々はそのためのコストを考えて、あえてそういう道を選ばなかった、とも言える。このもじもじ君なる人物の議論は、その当時の人々の選択を糾弾する考え方だ。でも――あなたは本当に当時の人たちを責められるのか。いまこの時代に生きているあなたたちは、所得の完璧な平等の実現をどこまでできているのか? 全然できてない。そんな無能な連中が、なぜ 1970 年の人々を責められる?

  これは小島寛之の本でも出てきた変な考え方だ。理想的な状況を設定して、それとの比較で現状をいいとか悪いとかいう、という。これは、何かベンチマークのパフォーマンスを設定するのとは話がちがう。ベンチマークは、どこかで実際に行われたものだからだ。でも、理想はちがう。人は不完全なので、どんな状況でも理想通りには行動できない。理想通りでないからといって、人を責めるような発想は、絶対に慎まなくてはならない。それはあらゆるファシズムが行ったことだからだ。

  いまの日本の GDP は 510 兆円くらい。それはもちろん、理想社会で実現できたはずの GDP とはちがっている。上でやった結果だと理想社会のGDPのほうが低そうだが、でも高い場合もあるだろう。でもそれは、人々がそれぞれの年、それぞれの瞬間に行った、善悪問わず選択の集積としての 510 兆円だ。そしてそれは、「もし~だったら」という無用な憶測を伴わない、いろんな選択の集まりを表す数字でもある。年ごとの GDP を比べるのは、そうしたいろんな選択の善し悪しまで含めて結果を評価する、ということでもある。

 それは、人々の一回だけの生を受け入れ、そのまちがいも成功も含めて受け入れる、ということだ。半世紀前にぼくたちの先祖がこんなことをできたかもしれない――それは思考実験としてはおもしろい。でも、それを基準にいまの人たちを断罪したり糾弾したりしてはならない。人々は、自分の――そして先祖たちの――選択の結果を自らいまこの瞬間に生きている。それを否定してもいいけれど、それはあなたが自分自身を否定するということでもあるのだ。

5. まとめ。GDPとその他指標について

  この人物の言いたいことは、わからなくはない。そしてもっともらしいように思ってしまう人もいるだろう。でも、同じような議論がほかの指標についてもあてはまることを考えよう。たとえば身長。子供時代の身長といまの身長を比べることに意味があるか? 環境もちがう、年代もちがう、食生活もちがう。五歳の頃は身長一メートルだったけど四五歳のいまは身長一メートル八十だ、という比較には意味がない、といえるだろうか。人間の成長は、どんな成長をすべきかというマクロ成長方針次第なんだから、五歳の頃に完璧な食生活と栄養状態が実現されたと仮定して、いまのあるべき身長を比べ、それをもとにいまの身長を評価すべきだ、と言う議論は正しいだろうか?

  正しい場合もあるかもしれない、としかいえない。そういう評価が意味を持つ場合もあるだろう。でもそれは何を検討しようとするか次第だろう。たとえば、何らかの飢饉や食糧危機が人口に与えた影響を考えたり食生活の善し悪しについて検討する場合には。そしてその場合にも、一応身長は(常識的な範囲では)高いほうがいい、という合意があってはじめてそれが目安となる。自然食ばかり食べていた子の身長が低かったら、まともな食事をしていたらこのくらいの身長になっていたはずだから、自然食という政策はだめなんじゃないの、という政策評価がなりたつ。

  さらにそのとき、身長だけではすべて言えない、がりがりの骨と皮だけの高身長と、健康なからだの高身長とでは意味がちがう、という主張をするのは正しいか? もちろん、まちがっちゃいない。でもだからといって身長が比較できないことにはならない。そして身長に変な操作を加えろということにもならない。ほかに重要なみどころがあるなら、別の指標でそれを見ればいい。また、それで「いや自然食という政策がまずあるんだから、身長がどうなろうとそれを死守すべきだ」と言い出すんなら……身長なんか見ても仕方ない。

  GDP だって同じこと。経済において GDP はすべてではないのだけれど、でもすべては GDP にかかっている。そして、まともな経済学者は、これを知っている。GDP は重要だと知りつつ、それがすべてではないことくらい、百も承知している。

  が、定期的にそれを理解していない人が出てきて、GDP がすべてではない、なんてことを鬼の首をとったように騒ぎ立てる。そしてそういう人に限って、すべてではないはずの GDP を金科玉条のようにまつりあげる。GDP がすべてでないなら、単にほかの指標もあわせて見ればいいだけじゃないの? でも、こういう人たちはそうはいかない。GDP にばかりこだわり、なにやら GDP をいじくった変な指標――このもじもじなる人物のような――をでっちあげて、それをここでやったような 3 分ほどの検討も加えることなく得意げに提示してみせる。

  でも、ロンボルグのその本の部分にもあるとおり、GDP という指標の問題点は昔からいろんな人が懸念して、なんとかしようという努力を重ねてきた。でもデータ収集の容易さとかあれとかこれとか考えると、まあ便利な指標であることは否定できないなあ、というのがだいたいの結論だ。それが万能だとは思いますまい。でも、第一歩として真っ先に見るべき数字だ、というのも否定できない事実なのだ。

  んなわけで、GDP という指標をどう見るかはよく勉強してほしいな、と思う。繰り返すけれど、それがすべてではない。それはみんな知っていることなのだ。ただし、何を考えるにあたっても、まずそれが最初の目安にはなる。それだけの話なのだ。

  というわけで、GDP が指標として不十分な場合があるのは、ご指摘の通り。ただし、それはちゃんと勉強した人なら(いやぼくみたいな我流の付け焼き刃でさえ)だれでも知っている。そして、欠点はあれ、やっぱり GDP は便利で役にたつ指標だ。いろんな条件を集約した一つの指標としては、何よりも先に出てくるものだ。不十分だからといって、すぐに捨ててはいけない。どこが不十分で、どこが使えるか知っていれば、いまの GDP でも十分に役にたつ。そして安易に改良指標を提案するのは――もちろんそうした蛮勇には敬意を表する一方で、あなたの考えることくらい、すでに多くの人が考えているはずだと考えるだけの冷静さは持とう。なぜ自分と同じ考え方が広まらなかったのか? それはひょっとしたら、あなたがすさまじい天才であるか、あるいはなにやら石油メジャーが陰謀をめぐらしてそれを抑圧したせいなのかもしれない。が……むしろあなたの考えが足りないだけ、という可能性も、ちょっとは考えてみたほうがいいんじゃないかな。



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