レッシグたんのお話@東大ビジネスローセンター
11月28日 13:30--15:00
東京大学本郷キャンパス 法文一号館25教室
山形浩生
(注:以下は山形のメモより。「前フリ」とか小見出しは、こっちで勝手につけた。聞き損ねとか聞き落としとかあったら教えてちょうだい。特に、最後の質問のあたり。最初の二人の質問は、遠くてマイクもなくて、ぜんぜん聞き取れなかった!)
前フリ
- 社会には批評が必要。それもindependent で well-regulated な批評。これはむずかしい。アメリカでも、最初はこれがなかった。憲法修正第一条ができて、やっとこれが確立した。
- また、これは維持するのもむずかしい。ニューヨーク市対Sullivanとか、あるいはスミソニアン博物館が原爆投下を疑問視する展示をしようとしたら議会が反対したりとか。
- こうした言論の自由が、大きく制限されつつある。それが特に顕著なのが、著作権の分野。他人の言ったことや発表したことを使って新しいものを作る能力が大きく制限されつつある。
- 例その1:ディズニー映画
- ディズニーのアニメは、常に主流映画のパロディだった。たとえばミッキーマウスを生んだSteamboat Willは、バスター・キートンのSteamboat Bill のパロディ。その後もディズニー映画は、グリム兄弟の作品を拝借したり(白雪姫)、日本のアニメを拝借したり(Lion King)、既存のストーリーを拝借したりして新しいものを作ってきた。ところがディズニーは、他人に対してはこれを禁止しようとしている。
- 例その2:マンガ同人誌
- 日本のマンガは産業的にもでかい。そして、そのパロディ同人誌の活動がすごく活発。コミケには3万サークルが参加して、その活動も多様。アメリカでは、たぶんすべて違法で、著作権で取り締まられる。すでに既存マンガをパロディや諷刺に使って訴えられる例がいくつかある。それと関係があるかはさておき、アメリカのマンガ産業はいまやないも同然。
- 例その3:「Gone with the Wind」vs「Wind done gone」
- アリス・ランドールが「風と共に去りぬ」を黒人奴隷の視点から書き直した小説を出そうとしたら、ミッチェルの遺産管理人に止められた。
コモンズと、コントロールの拡大
- さて、世の中には「コモンズ」と、「コントロールされてる部分」がある。コモンズはだれでも好き勝手に自由に使っていい領域で、コントロールは、だれが何をどう使えるかが制限されている。コントロールするのはたいがい法律とかで、弁護士たち。コモンズは、いわば、弁護士のいない領域、といえる。
- 人々は、コモンズにあるものを使って、コントロールされた世界にあるものを作る。でも、コントロールされた世界のものは、いずれコモンズに戻ってくる。
- コントロールされたものでも、新しいものは作れる。でもコモンズが何がいいかというと、transaction costが低い。また、independenceがある。これにより、creative workがやりやすく、またその方向性も制約されず、ちがったcreativityも発揮できる。
-
さて、これまでアメリカの著作権のおかげで、アメリカではコモンズは豊かだった。それは以下のポイントのせい:
- 有限期間
- 範囲も限られている
- 利用の制限
- ところが、これがつぶされつつある。
- まず、期間はやたらにのばされている。すでに作者の死後50年とずいぶん長かったのが、98年にはさらに20年のばして70年。Mickey Mouse Protection Actと皮肉られている。もう分割払いで永続的な著作権が実現できるほど。
- また、範囲がやたらに広がっている。昔、著作権は、Copyrightだからcopyする権利だけの話だった。ところがいま、その派生物にまで拡大されて、さらに複製から利用にまで範囲が拡大されている。
- もともとは、ブツ(著作権つき)が真ん中にあって、その周りに「規制されているけれど、でもフェアユースの範囲で好きにしていい利用」があって、そのまわりに「好き勝手にできる利用」があったのだ。
- ところがネットが出てきて事情が変わった。ネットはなんでもかんでもコピーするというメディアだ。そしてネットという世界では、法+テクノロジーという組み合わせが強い規制力を持つ。
- 例:Adobe eBook
- <ここでは、著作権の切れている本、著作権のないはずのテキストまで、eBook化されたとたんに「印刷しちゃダメ」「コピーペーストだめ」「読み上げだめ」という制限がテクノロジー的につく(ちなみに「コモンズ」原著もそうだったが、山形がAmazon.comでviolentlyに文句を言ったために制限は緩められた)。「利用」が規制されるようになっている。
- 例:aibopet.com
- Sony Aibo に新しい芸を仕込む方法を説明したサイトが、ソニーから訴えると脅された。Aiboに新しい芸ができるようになったら、Aiboの価値は高まる。Sonyにとってもありがたい話。自分の買ったものを好きに改造するのは、フェアユースの範囲内の当然の権利。弁護士はそんなことをまったく考えずに、狭い了見でこうした動きを行っている。Sonyのマーケティング部と経営陣が、やがて事態を認識して話をひっこめたが、でもこうしたフェアユース侵害が行われている。
- 例:copyも強化(だっけな?ここんとこ忘れた)
- (あとから思い出したことだが、たしかここらへんで、アメリカのメディア集中問題の話があった。ラジオの70%がごく少数のオペレータに押さえられ、レコードも映画も少数の企業、外国映画も入ってこなくなっているという点。かれらが著作権の適用範囲を広げたがる、という話だったかな)
- こうやって、自由だった部分、コモンズだった部分が縮小する。それによって、transaction costがあがり、independenceも下がる。creative work は当然下がる。
- 例:映画
- ひどい状況。むかしは「ふつうの人が見てわかるもの」は、権利保持者のお許しが必要だったけれど、いまや「だれかが見てそれとわかるもの」はすべて権利保持者のクリアが必要。ドキュメンタリー映画の背景のテレビに、「シンプソンズ」が一瞬映っているだけで、ものすごい大金が要求される。このため、映画はこの規制をクリアできる人(金持ち会社)と出来なくて映画を公開できない人に分かれてしまう。
- 例:ウェブサイト
- ウェブ上での批判や気にくわない利用をかわすのに著作権がつかわれる。たとえば動物愛護団体のサイトをつぶすのに、製薬会社が著作権侵害を訴え、プロバイダは(それが口実にすぎないことを知っていても)法廷で争うコストが負担できないので、製薬会社にしたがうしかない。
課題と対策
- こんなにコモンズ(あるいは批評の余地)が小さくては、まともに国が動かない。批評も機能しなくなる。アメリカが自己批判機能を失っては困るし、それはアメリカ人だけでなく、世界の他の国にとっても懸念事項のはず。
- この状況は、lawyer(弁護士)の問題でもある。かれらが狭い了見で問題を創り出している。極端に知的所有権を強化しよう、という話を進めてしまっている。これはよくない。
- J. P. Barlowは、かつてインターネットによって著作権の死を宣言した。これは一つの極端だ。でも実際にはこれは起きていない。そしてその逆の極端が生じてきている。
- ITはこれまで、強すぎない知的所有権の話をわきまえてきた。マイクロソフトだって、自分のOS上で行われることをかなり自由に認めてきた。ITが法を教え、法が知的財産権を教えるべき。極端に走らないようにするために、independent lawyerを育ててく必要がある。
おしまい。
質疑
- Q. (質問ききとれず。特許の問題がどうよ、という話だったみたい)
- A. 著作権だと、表現とアイデアとの分離が云々。が、それを普通の人に説明するのはむずかしい。(答の中身も、趣旨よくわからず)
- Q. (この質問もよくわからず)
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A. (答えもちょっとわからんかった。コードの著作権がどうしたこうした。かれが理事か何かをやっている団体 https://creativecommons.org/でなにやらそれに関連したソフトのライセンスの一案を出すとかなんとか)
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Q. 映画はハリウッド製が多い。したがって、映画の著作権が強まることは、アメリカとしては国益にかなっているのではないか。
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A. それは昔からずっとある議論。「ヨーロッパ人からもっと金をとれ!」という説。でも、ヨーロッパ人よりアメリカ人のほうが多い。さらに著作権以外にもアメリカには産業がある。著作権強化は、アメリカ人や、ほかのアメリカ産業にもマイナス。だからその議論だけでは説得力はない。アメリカの今回の著作権延長(レッシグが違憲訴訟しているやつ)では、フリードマン、コース他、ノーベル賞級の経済学者がずらっと並んで、これがアメリカの利益にまったくならないことを証言している。
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Q. 極端と言われるかもしれないが、本当のアーティストは、著作権なんかなくったって、抑えきれない衝動から作品を作る。著作権を主張するやつは金にしか興味がないのでは。
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A. 極端と言ってあげよう。金がなくてはできない作品もある(大作映画とか)。かれらが、それなりのコストを回収できるようにすることは必要。
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Q. 原理的にはみんなこの話に賛成するだろう。でも実際の議論は、無限かゼロかではない。50年を70年にのばそうとか、少しずつやってくる。それに対してはどう答える? 著作権が死後50年ならよくて、70年はいけない、というのをどう主張する?
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A. その質問には簡単なところとむずかしいところがある。簡単なところでは、どう考えてもばからしい部分。たとえば反対ウェブサイトつぶしに著作権が使われる状況はだれがどう見てもおかしい。また、50年を70年にのばすのは、それがあまりに先のことなので、現在価値換算するとその追加分はないに等しいから、そんなことに利益はないと明らかにいえる。
むずかしい部分は、最適なのがどこか、という部分。それについては、いろいろ議論がある。でも、現状はまだそこまで話がきていない。
- Q. (ここでもう一つ質問があったがぼんやりして聞き落とした)
- A. (答えも聞き流してしまった。)
- Q. 芸大のピアニストだが、文化では新しいものが量だけできればいいということにはならない。文化の質の問題はどうだろう。売れるものだけがいいわけじゃない。
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A. 質を高めるには、アメリカ的には批評をしやすくする、というのが答えになる。みんなが自由に批評をすることで、よいものが残るわけだ。
別の考え方があって、それはコントロールをすることだ。これはミッキーマウスのコントロールを正当化するのにディズニーが使う論法。ミッキーマウスをフリーにしたら、ポルノに使われたりとかひどいことになる、品質を守るためにはわれわれが管理すべきだ、という説。考え方としてはわかるものの、少なくともアメリカの伝統ではない。
- Q. プライバシーとの関連は? ある作家の小説がプライバシー侵害で差し止めになったが(柳ミリの話でしょう)
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A. それは話が別かも。プライバシーは著作権とは別の形で社会の批評機能を高めてくれる価値あるものなんだが、ちょっとここで話している余裕なし。ただ、著作権のように、それによってすごい利益を得られる団体が一方にいたりはしない。だから、著作権ほどゆがめられない形で議論を進めることができるはず。
追記:
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YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)