朝日新聞書評 2002/04-06

 

Gibas/Jambek『実践バイオインフォマティクス』(オライリー)

 遺伝子工学。遺伝子組み替え食品から、遺伝子治療、さらにはバイオ計算機まで、応用ははかりしれない。その基礎が、コンピュータを使ったタンパク質や遺伝子の解析を中心とした、バイオインフォマティクスと呼ばれる領域だ。日本も先日、政府が専門家育成に乗り出した。が、なんせ世界的にも新しい分野で、専門家も足りない。

 本書は、この分野の入門書だ。生物学分野の研究者が対象読者ではあるけれど、そこはアメリカの参考書のえらいところ。遺伝子って何? それを「解読」するって?――そういう基礎的なことについても、実に手際のいい解説がなされていて、ちょっと知識のある素人なら十分に読める。

 この本のよさは、閉じていないということだ。入門書は、基礎概念を解説したらおしまいだ。でも本書にはその先がある。挙がっているツールやサイト――最先端の専門家と同じものだ――をいじることで、読んでわからないことでも見当がついたりする。新しい分野であればこそ、素人も専門家も、あまり差がないところからスタートできるんだ。ちょうどパソコン分野がそうだったように。そしておもしろいのが本書の出版社。コンピュータでも、素人たちがこの出版社の本で独学しつつ新しい世界を築いた。この分野でもそれが起こるんじゃないか? 本書はそういう楽しい想像も許してくれる。

 万人向けの入門書じゃない。本書の内容を使いこなすには、遺伝子やタンパク質の構造解析データを得るだけの実験設備がいる。また半分を占めるソフトインストール方法やコマンド解説は、興味本位の素人読者(たとえば評者)には煩雑だ。さらに、個人が興味本位で買うには高価だ。でもある程度の興味と探求心さえあれば――そしてできれば生物学とコンピュータの基礎知識があれば――本書は素人にも、新分野の息吹と広がりを感じさせてくれる。変に媚びて水で薄めた入門書では得られない臨場感がここにはある。

(コメント:読書委員就任記念に、とりあえずわけのわかんないものをやろうと思ってとりあげたのがこれ。狙いすぎだったかも)。
 

マッキンゼー社『企業価値評価』

 企業価値を高めたいと経営者ならだれしも思ってはいる。が、いざ実践となるとむずかしい。雇用だ利益だ社会貢献だリストラだとあれこれノイズがあまりに多く、おかげで迷走しているとおぼしき企業も少なくない。  本書はその常識を、とても理論的かつ実践的に説明した本だ。

 企業の価値といっても、本書は株主価値、つまりは株価だけしか考えない。この点は、読者として留意が必要だ。その株主価値を核に、本書は明快な企業価値の考え方を通覧してくれる。第一部では、企業の戦略が企業価値にどう影響するか、その際の判断指標、さらに実際に企業価値を高めるための経営方針を述べた概論とケース群。第二部では、個別の指標の理論と実際の計算方法。そして第三部は、それを個別に適用する際の、細かい懸念事項(会計原則の国際的な差等)を扱う。

 本書をまともに理解するには、それなりの予備知識が必要だ。DCF法とCAPM理論、財務諸表についての知識は必須。一応、ざっとは説明が載ってはいるけれど、あくまで復習用だな。そうした知識がなくても、第一部は企業戦略を考えるための読み物としておもしろいし、考え方や見方も漠然とは理解できる。でも本書のキモは、それを漠然とではなく、具体的に数字で詰められるようにしてくれる第二部以降の話ではある。他の本で勉強しつつ何度か読み返すといいだろう。実務レベルに達した人にも、必ず参考になる部分がある。評者の場合はリアルオプションについての説明が非常に簡潔で有益だった。

 アメリカではすでに標準的な教科書だ。翻訳もすっきりと読みやすいし、日本企業の評価に関する章が追加されているのもありがたい。ただ日本企業は歴史的に、本書のような企業価値だけを目指してはこなかったのだけれど。今後それはどうあるべきなんだろうか? 今後の日本企業の「価値」とその位置づけを考える出発点としても、本書は有用だろう。

(コメント:上のバイオインフォとどっちか、ということで結局バイオインフォマティクスに。こちらは「それなりの予備知識が必要だ」というところで読者を限ってしまうきらいがある、ということで見送りに。それを言うなら、内容的にはバイオインフォマティクスのほうが非一般ではあるんだが……)。
 

笠井潔『オイディプス症候群』(光文社)

 矢吹駆シリーズ最新作。七〇年代後半、ギリシャの孤島に集まった男女十二人が次々に殺される。奇病オイディプス症候群(いまやお馴染みのあの病気だ)をめぐる謎とギリシャ神話への言及、そして宿敵の国際テロリスト、イリイチの影が絡み合う難事件に、ナディア&駆コンビがまたも挑む。今読むと、この矢吹駆シリーズが京極夏彦の京極堂シリーズや、特に森博嗣の犀川&萌絵シリーズなどの先駆的な存在だったことがよくわかる。お約束の、駆の独断的な現象学的直感は健在だがあまり鼻につかない。また定番のストーリーと関係ありそうで実はあまりない哲学談義のお相手はミシェル・フーコー。推理小説の成立などもネタに単純な権力論が展開され、モデルを知る人はニヤニヤしながら楽しく読める。知らない人はうっとうしく思うだろうが、そこは矢吹駆の衒学的な造形であまり無理を感させない。八七〇ページを一気に読ませる。著者の力量が遺憾なく発揮された大作。

(コメント:最後の一文はとってつけたみたいでしたねー)。
 

大室幹雄『月瀬幻影―近代日本風景批評史』(中央公論新社)

 人は常に文化的なフレームに捕らわれている。それは必ずしも制約ではない。 枠組みなしには、人はそもそも見ることさえできないもの。そして新しい枠組み が古い対象に向けられ、古い枠組みが新しい対象に向けられるとき、人々は新し い世界と風景を獲得し、文化は新たな活力を得る。その構造を大室幹雄は、古代 中世の中国の都市や山林世界の興亡を通じて、ユートピア対アルカディアの拮抗、 つまり強力な階級秩序に基づく完全管理社会への信頼とそれを破壊し飲み込む無 秩序な混沌自然の桃源郷への憧憬の対立という精神フレームで縦横に描き尽くし た。その大室が、本書では日本にその分析を向けた。文化的フレームは、江戸シ ノワズリ。儒学と漢籍を通じて中国知識人のスタイルは学んだものの、その根底 にある世界観をついに理解しなかった江戸後期の知識人たちの、いわば様式だけ の中国文化だ。そのフレームが梅の名所として名を馳せた奈良の月瀬こと月ヶ瀬 や越谷の風景、あるいは地震や長崎のオランダ人女性をどう描き、描かなかった か――本書は知識人や役人たちの詩や散文や公文書の記録をていねいになぞりつ つ、かれらの記述、ひいては精神の限界を優しく指摘する。

 が、そこに無用な優越感はない。かれらの視線と楽しげに戯れる大室の文章は、 そのフレームが可能にした風景世界――明治維新とともに衰微が運命づけられた 世界――の喜びを生き生きと描き出す。その喜びに照らされ、一歩間違えば無味 乾燥でローカルな郷土史になりかねないこの著作は驚くほどの明るさに彩られて いる。文化枠組み自体の変遷とそれに伴う風景の変化、そしてそこに見られる近 代の萌芽をも的確に指摘する本書は、風景の精神史であると同時に、精神の風景 史でもある。そして本書は、それとなくわれわれにも問いかける。このわれわれ は、いかなるフレームに捕らわれているのだろうか。そしてそのフレームは、こ れほどに豊かな風景世界を生み出し得ているだろうか、と。明治以降を扱う続編 も待たれる。

(コメント:毎日にかなりでかいレビューが載ったので、400字にしとこうと思ったら、800字にしてくれと要望がきたので加筆)。
 

ウィルマット/キャンベル/タッジ『第二の創造:クローン羊ドリーと生命操作の時代』(岩波書店)

 一九九七年、世界に衝撃を与えたクローン羊ドリーを生み出した、ウィルマット&キャンベル自身が語る、ドリーに至る道とその先。最初の発想、先人たちの数々の取り組み、著者たちの無数の試行錯誤と失敗が丹念に描かれる。遺伝子、細胞分裂、生命発生の仕組みなどごく基礎的な事柄から、ドリー誕生に至るアイデアの高度な解説までカバーしつつ、同時に二人の科学者としての歩みやイギリスの研究環境に関する考察、そしてクローン技術の真の意義と可能性(および世間の十年一日のヒトクローン談義へのいらだち)まで盛り込んだ意欲作だ。分量はあるし、記述も流し読みを許さぬ重厚さだけれど、おもしろさは絶品だし、現場の科学者としての問題提起も深い。イメージだけで安易な生命倫理談義で悦に入る人々は、本書を熟読して出直すべし。もちろん安易でない本当の生命倫理を考えたい人も必読。訳はていねいで、図の追加など日本読者への配慮も素敵。

(コメント:特になし。いい本です)。
 

関満博『現場主義の知的生産法』(ちくま新書)

 ぼくの本業は、実は開発コンサルタントなのだ。国内外の産業政策の立案を助 けたり、開発計画を作ったりしている。期間は実質一年以下。その間に、役所の 話をきいて現場を見て、これまでの経緯を調べ、アンケートをかけ数値モデルを 作り、そして整合性ある計画をたてて調整したり。やることは山ほどあって、地 元の現場をもっと見なきゃとは思いつつも、数人の人に何時間か話をきいて終わ りになるのが常道だ。そしてその結果がどこまで役にたつか、ときかれると、必 ずしも胸を張れる成果ばかりじゃない。

 この本は、そのぼくにとってえらく耳の痛い本だ。各地の町工場集積が日本の 製造業の世界的優位性とって持つ意義を解明し、その後も日本各地やアジアの工 場集積をすさまじいフィールド調査で調べつくしている関満博の、研究調査ノウ ハウを簡潔にまとめたすごい本。といっても、誰も知らない秘訣なんかありゃし ない。とにかく現場に足を運べ。何年も通え。一生つきあう覚悟を決めろ。手軽 なアンケートに頼った、コンサルどもの安易な「現場」調査なんか無意味だ―― うーん。いや、われわれも努力はしておるのです、といいつつ、内心忸怩たるも のが。さらに、現場調査のメンバー編成、成果のまとめ方、論文はどう書くべき か、それを出版してどう世に問うか、出版をいかに自分の研究の節目として使い、 同時に後進の育成に役立てるか、さらにはその出版をどう商業的に成立させ、次 につなぐか――関はここまで意識的に戦略化してやっていたのか! すごい。従 来の「知的生産ナントカ」の定石の、カード式整理法なんかは無駄だとあっさり 一蹴されていて、とにかく泥臭い地道な作業の意識的積み重ねが強調される。

 研究者は必読。一回じゃなくて、毎月読んで襟を正せ。高校生や大学生も早め に読んで、覚悟を決めろ。ぼくも来月、マラウィのフィールド調査に持参して、 もっとがんばって無電化村を回るようにしなきゃ。現場での楽しいエピソードも 満載で、手軽な読み物としてもおすすめ。

(コメント:その後ちくまが帯に使ってくれました)。



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