季刊WOMBAT は、ふつうの人は知らないマイナー雑誌。講談社で『文芸』だか『群像』だかにいた編集者の人(三木さん)が、何でもいいから好き放題やれる雑誌をはじめるってことで、なんか変な小説を紹介してくれということでコラムをもらった。いずれも、短編の翻訳と、ぼくの解説。最初のブラムラインはぼくが訳したし、二回目のアッカーはもちろん渡辺佐智江訳の『Girls who like to Fuck』。
ちなみにウォンバットというのは、なんかナマケモノだかコアラだかみたいな動物で、世界でもっとも役に立たない動物だとライアル・ワトソンが言っていたそうな。
……ということで、なんかいい画像がないかとググってみたら、なんといつの間にか WOMBAT のウェブ版ができていたのには驚きだけれど、なんか変な宗教がかってていやだなあ。とはいえまあ直系の子孫ではある。もっともこちらも短命に終わったようで、ご愁傷様ではあります。でも、この編集会議では「無視され続けた」と書いているけれど、でも一瞬とはいえ実現したこともあったじゃありませんか。それにプラネットマガジンを標榜していたけれど、やはりブラネットにはなりきれなかったのが弱かった。
紙版は、判型はあの『群像』とかの文芸誌サイズ。結局どれだけもったんだっけ。二号? 三号までいったんだっけ? よく覚えていない。三号になるとき、ぼくの連載が切られたような記憶もあるけれど、それもさだかでない。いや、三号目で判型を変えようと言って、それっきり出なかったのかな? 忘れた。でもまあ、結局あまり続かなかったんだ。残念ではあったけれど、つぶれたときは「やっぱり……」という感じではあったけれど。
季刊『WOMBAT』創刊号 (1992/5) pp. 259-261
ウラジーミル・ナボーコフではないが、文学は文学独自の世界に遊ぶものであり、そこに卑しい現実のよしなしごとへのレファレンスを見ようとするのは、唾棄すべき卑しい精神の作用であると言えようか。今回ここに訳出した短編小説にあっても、これはそのまま適用することができよう。この作品を収録した短編集の冒頭には、卑近な現実との対応関係を読みとろうとする下世話な詮索を、あらかじめ禁じる文言が掲げてある。今回、訳出するにあたっては、通常の邦訳ではなぜか黙殺されることの多いこの部分を、自戒の意味もこめて掲げておいた。というのも、この作品は不用意な現実への連想を非常にたやすく許してしまうからだ。
たとえば、なぜこの患者の名前は「レーガン氏」なのだろうか。なぜかれは、「アメリカ的なものに対して頑固なまでの信頼を抱いている」のだろうか。未熟な読者であれば、ここに即座にアメリカ合州国の前大統領の姿を想い描いてしまうだろう。
かく言うわたしでさえも、一九八四年にイギリスのニューウェーブSF残党雑誌「インターゾン」に発表されたこの作品を、一九九二年に移植するに当たって、この患者の名前を「ブッシュ氏」に換えようかと不謹慎な考えを抱いたほどだ。むろん、こうした考えは忌むべきものである。翻訳者の分際で、芸術作品に恣意的な変更を加えるなどというのはそもそも許されざる行為であり、ましてその根拠が陳腐な政治的発想であるとなれば、なおのことである。同様に、医師団の命名にもまどわされてはいけない。その昔、中南米にエルネスト・チェ・ゲバラというヒゲづらの革命家がいたのは事実である。また、その昔、北アメリカのアリゾナ付近にコーチーズというインディアンの部族がいて、ヨーロッパ人の侵略により絶滅したのは確かだ。南アフリカ共和国には、ビコという反アパルトヘイトの闘士がいて、警察の拷問で死んでいる(ピーター・ガブリエルの歌にもなっている)。ングも、中央アフリカあたりの革命騒ぎで聞いた名前ではある。こうして見ると、「臓器が第三世界とアメリカ国内の発展の遅れた地域に配分された」というラストの一文も、なにやら意味深に思えてくる。だが、こうした読み方は邪道であり、排除されなくてはならない。というのはもちろんすべてウソである。
作者マイケル・ブラムラインについては、本業が外科医であることと、サンフランシスコに住んでいること以外は不詳。ここに訳出した「器官切除」が、一九八四年のかれのデビュー作である。この作品は非常に高い評価を受け、その年の「インターゾーン」傑作選にも収録された。その後も、「インターゾーン」や「トワイライト・ゾーン」などのSF雑誌やオムニ、セミオテキストなどに短編を発表。一九八七年に処女長編「山を動かす」(The Movement of Mountains)出版。間もなく第二長編が出版予定。また、小説以外にも、映画の脚本や戯曲を手がけている。
かれの小説は、好き嫌いが極端に分かれる。その分け目は、かれの「人間」という物体に対する扱いである。多くの小説は、肉体をあたかも存在しないがごとくに扱うか、あるいは過度の意味づけや想い入れをはりつけようとする。たとえば村上春樹の小説などは前者の例であり、ポルノや村上龍の「トパーズ」などは後者であると考えていい。頭では肉体も物理的なモノに過ぎないことはわかっていても、一般人たるわれわれは、なかなか肉体をとりまく妄想の壁を突破できない。サイバーパンクの作家たちは、そうした人間中心主義から脱したとも言われている。が、逆にそれを意識しすぎて、ブルース・スターリングなどはSMじみた印象すら与えることがある。
しかし、ブラムラインにそうした変な想い入れはない。かれは、マグロの解体を描くように人間の手術を描ける。それを受け入れがたいと感じる人は、ブラムラインの小説をグロテスクで悪趣味だと感じるだろう。逆に、そうした想い入れの不在に爽快感をおぼえる人は、ブラムラインの小説にも爽快な新しさを感じるだろう。医者の知り合いとたまに話すと、死がむやみと日常茶飯のこととして語られるので驚かされる。そういう何の気負いもない気軽さを、ぼくはうらやましいと思う。尊厳がどうのと力みかえるより、みんながこの気軽さを共有できるようになればいい。ブラムラインを読むのは、そうした軽やかさの体験だ。目の前で、人間がただの物体に豹変するような驚きが、ブラムラインの小説では随所に登場する。それに神経を逆なでされる人もいるだろう。だが、ブラムラインは逆なでするのみならず、一本一本むき出しにしてつついてくれるのだ。その集大成ともいうべき作品が、この「器官切除」である。
デビュー作にその作家のすべてがある、とはよく言われる。ブラムラインはこの一作で、政治性と医者の職業的な視線の両方を十分すぎるほどに見せつけてくれた。以来、一貫してその姿勢は変わっていない。「ポジティブ」好みのなまっちろいブンガクどもにはまったく期待できない、ある種の真剣さがブラムラインにはある。だからぼくは、かれの今後に大いに期待しているのだ。
――キャシー・アッカーのあきれた血みどろ瓢窃小説
季刊『WOMBAT』2号 (1992/8) pp. 64-66
前号のブラムラインも血みどろだったが、このキャシー・アッカーはそれに輪をかけて血みどろで、しかもその血がただの血じゃなくて、月経の血に精液を混ぜこんだ後にそれをからだ中に塗りたくり、ひとしきり SM プレイをやらかして汗で洗い流したのを集めたような、そんな汚らしい血で、しかもその間ずっと、あーあたしは寂しい、ぎゃーあたしのクリトリスは敏感なんだからさわんないでよ、ところでいくらくれんの、オッホッホッホと作者がわめき続けているような、そんな血みどろ。だからこの女が出まわりはじめた頃の評判といったら、それはもうロクでもないもので、「そーか、そんなにおれを怒らせたいか、上等じゃねーか」と評論家が目を釣り上げているところへ、この姐チャンが五分刈りでタンクトップといういでたちでバイクで乗りつけ、「文句あるゥ?」と肩のバラの紋所を突きつけながらムチを振り回すと、みんな恐がって(あるいはあきれて)口ごもる、といった光景があちこちで見られたらしい。
男にも嫌われているけれど、女にもえらく嫌われてるのがこのキャシー・アッカーで、フェミニズムの人なんかには「アッカーの小説に出てくる女は、いつも男性支配原理に喜々として屈従してるわ! こいつは男性支配原理を強化しているのよっ!」と言われる一方で、「アッカーの女はいつも暴力的で、男性支配原理を否定し過ぎて逆に強権的な女性支配原理を指向しちゃってるんだわっ!」とまったく正反対のことも言われて、ついでに両方から「だいたい何かというと肩の刺青をひけらかすのがよくないわ!」「むかしストリッパーだった頃のクセがまだ抜けないみたいねフフン」(まあ、これは事実だけど)と罵倒されるという理不尽な目にあっているのだけれど、それに対してこの女は、「あたしはからだ張って仕事してるんだ! 文句あるゥ?」と開き直り、「刺青は自分のからだに『書く』という文学的行為だ!」と強弁したあげくに「いいもの書くなら書かれる『紙』のほうもしっかりさせないとね」とボディビルでからだをきたえてはほくそ笑む、という天晴れな女丈夫ぶりを見せている。
で、最近は小説なんてなんでもありになっちゃったから、おかまがウジウジしていても、犬のウンコを食っても、コカインとヘロインとLSDをちゃんぽんでやりながら5Pをやらかしつつ F1 を運転して音速を突破してみても、「おーおー、飽きもせずによーやるねー、まあせいぜい頑張っとくれよ」というようなそっけない扱いしか受けない。読んでからため息なんかついて、天を仰いでは「ああ、ホント世紀末だねえ」と嘆きたくなるほどの小説を書くヤツと言えば、スティーブ・エリクソンとこのキャシー・アッカーと、村上龍の一部とその他若干名程度なんだけれど(「おお、二十一世紀の夜明けは近い!」と思わせてくれるJ・G・バラードは別格)、そのなかでこのキャシー・アッカーはやたらに人騒がせだ。SMだけならまだしも、この女は平気で他人の小説をかっぱらってきては登場人物の名前だけ変えて、自分の小説にブチこむんだもん。で、「盗作だ!」と言われると、この姐チャンは「盗作ってのは黙って他人の書いたもの持ってきて、自分のだと偽って発表することだけれど、あたしはいつも自分が他人の書いたものをパクるって公言してるし、聞かれればどこが他人の書いた部分かは明言してるんだから、これは盗作じゃないんだ!」というスゲー理屈をこねて、大ゲンカしているのだ。「盗作してるんじゃない、他人の文章を乗っ取ってるんだ! 文学的テロリズムだ!」・・・いやあ、なんつーか、ここまでやられると笑うしかないような爽快感が、あると言うかないと言うか。「あたしは現代思想の先端をからだ張って実践してるのよ!」だもの。ほんと、この人のインタビューって勇ましくていいんだよね。
こんな具合だから、キャシー・アッカーの小説というのは、どこかで読んだ気がするような文章の中を、「あたしがあたしが」とわめきながら、主人公が性別も年齢も身分も名前もころころと変えつつ、体液を滴らせ地響きを立てて駆け抜けていくようなすっごいしんどい代物だ。それが今年後半から続々と翻訳されちゃうんだと。代表作「血みどろ臓物ハイスクール」「アホだら帝国」(しかしすげー邦題)、そして多少遅れてこの「アイデンティティ追悼」。それにしても、あの下品な原作のお下劣ぶりを余すところなく伝える(場合によっては原作よりひどい)、下品きわまりない翻訳のできる渡辺佐智江とか山形浩生とかいう連中も、あきれた恥知らずだよね。いいのかなあ、こんな有害文書を日本に流して。良識あるドイツなんかだと、18 歳未満は彼女の本を読んではいけないことになってるんだよ。いやあ、もう何も言いませんけどね、うん。ただ、たぶん真面目な人は読まないほうがいいと思うね。脳の血管が破裂するから。