連載第31 回
山形浩生=文
hiyori13@mailhost.net
瀧本広子=題字

今月の喝!

フリーウェア/オープンソースをめぐる各種の物言い
 3月末日にネットスケープ社がソース公開にふみきったのは、すでに旧聞に属する。あわせて開催されたオープンソース会議資料では、ぼくのリーヌス・トーヴァルズのインタビューも使われたそうな(やった、世界進出!)。でもこれをめぐる報道をみると、そもそもフリーソフトの考え方がみんな理解できてないようだ。「変なバージョンが出回ったらどうするんだ?」そんなことにはならないの。なったとしても、あんたらマスコミがダメなバージョンを指摘すればいいじゃん。

 右記のインタビューの初出時にも、金子郁容が「ボランタリー経済」という駄文を書いていて、フリーウェアへの誤解を垂れ流していた。いや、フリーウェアは無視して、なんとかお金の話にこじつけようと、シェアウェアの話をするんだ。「気に入ったら金を払うシェアウェア方式は経済的におかしなものだ」。へえ。お代は見てのお払いって、昔からあるのに。その作者が将来もいいものをつくってくれるように、という未来への投資として行うの。十分合理的でしょ? 「バグを指摘してくれたり(中略)して、建設的にかかわってくれるのは代金を送ってくる利用者だけ」って、金払わなくてもバグは指摘できるじゃん。「情報の共有と経済は相反するものというのはこれまでの経済常識」? あのね、共有したほうが社会としての財の生産量は増えて経済に貢献するの。問題は情報生産のインセンティブの確保で、その苦肉の策が著作権だというのは本誌の寺本振透の読者なら常識だよね。

 フリーソフトの根拠にはいろんな面がある。まずは拙訳『伽藍とバザール』を読んでほしい。ネットスケープ社は、これでソース公開にふみきったんだよ。そしてこの論文で抜けてる点をひとつ。まず価値があるのはソフトではなく、それを使って行う作業である。フリーソフト参加者は、作者も含めて全員がそのソフトの利用者だ。つまりソフトは手段で、それを使った作業を改善するのが一番の目的なんだ。協力すれば、ソフト開発の速度も質も向上し、ソフトを使って得られる効用も増える。金がなくても、増えた効用の現在価値で、貢献分のもとはとれるんだ。まったくの利己心だけだって、この協力システムは成立する。そのための条件も、ほぼわかってきた。われわれには見える。遠からず時代は再びフリーソフトのものとなるであろう。  しかしすべてが順風満帆ではない。同じ3月末日、UNIX の GUI 標準 X-windows のリリース 6・4が発表されたが、ライセンス条件が変わり、一部で配布に制限とライセンス料が課せられる。フリーソフト派は制限のない 6・3 ベースで開発を進めるけれど、この分裂は下手をすると PC 系フリー UNIX の世界には大きな痛手となる。まだ油断はできない。

(付記:その後、X Window R6.4のライセンスは、むかしのものに戻されて、XFree86 も6.4ベースで開発をすすめる方針に変えた。)

山形浩生:1964年生まれ。本業は地域開発関連調査と評価。翻訳と雑文書きでも有名。

近況:そういや金子も慶応か。福田も訴訟原告の夫君も。おれって慶応と相性最悪。前世の因縁? Aphex TwinのCome to Daddy のビデオは、おっかないけど最高クールです。


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