ぼくはあなたに何かを伝えたい。ぼくにはあなたの顔も見えなければ気配もわからない。でも、そこにだれかいるはずだ。そう信じて書いている。これを伝えることで、ぼくはあなたに何かメリットを提示しなくてはならない。もちろん、あらゆる人にメリットのあるような文章なんてものは存在しないし、この雑誌を読んでるあなたのプロフィールというのは、世界の人口のなかでかなり偏っている。その偏りを前提にしながら、ぼくは自分の伝えたいメッセージを、それによって最大のメリットを得られる集団にいちばんうまく届くようにと文を書く。
ぼくが書くときのモデルは、なるべくだけれども「話しかける」モデルだ。だからぼくは言文一致をすごく大事だと思っている。口で人が他人に語りかけることばが変わっているのに、文字で人が話しかけることばが変わらないわけないじゃないか。
英語やヨーロッパ系の言語は、それができている。それは言語の性質とは関係ない。そのことばの使い手が、そういう努力をしてきたか、という話だ。それをやるのが、作家の本来の役割だったりする。ウィリアム・バロウズだって、評価された大きな理由の一つは、ゲイやドラッグ使用者や売人のはびこるアングラ社会のことばを持って浮上してきたことだった。ルターだってディケンズだってハードボイルドだってそうだ。そういうのを通じて、ヨーロッパ語は活力を維持してきた。そしてその活力は、書くという行為すべてに流れこんでいっている。でも日本の作家はこれを滅多にしない。
ぼくがいま訳している経済学の本は、常にこっちに話しかけようとして書かれているので、わかりやすいし、ぼくはすごく訳しやすい。自分が書くように、話すように訳せば、それでできてしまう。でも、ほかの人が訳した同じ著者の本を読むと、ひどく苦労している様子がありありとうかがえる。なぜってそれを訳してる人たちにとって、本とか文章ってのは語りかけるものじゃないし、人に何かを伝えるためのものじゃない。何かそれ自体で完結した、つるつるしたボールみたいなものだからだ。そういう本は、ぼくたち読み手のほうを向かずに、書かれている対象の方だけを見ている。そしてその対象についても傍観者的な態度でしか接しない。ぼくたち読み手は、書き手といっしょに傍観者になるしかない。それはぼくたちに何かを伝えることよりは、文章内部での矛盾のなさ、揚げ足取りの余地のなさ、あたりさわりのなさ、そんなものに一生懸命になっている。そのために、自分や読者という主観要素や不確定要素は極力取り除かれていく。結果として、文中の一人称と二人称がほぼ追放される。そしてそれが、「アンアン」から何とか論にいたる、あらゆる日本の文の主流を占めている。また、それは理工学系以外(場合によってはそれすらも)の日本のあらゆる文化的な閉塞感の原因でもある。(つづく、かもしれない)
山形浩生:1964年生まれ。本業は地域開発関連調査と評価。翻訳と雑文書きでも有名。