山形道場

連載第28 回
words 山形浩生(hiyori13@mailhost.net

今月の喝!

「1997年」



 いまは1997年12月の末。なんという1年だっただろう。去年のリアリーに続いて、ぼくの訳した文や本の著者がいろいろ死んだ。ギンズバーグ、バロウズ、そして12月に入ってキャシー・アッカーまで。

 だが一方では拓銀が死に、山一が死に、香港が返還されてアジアが瀕死となり、その他死ぬはずがなかったいろんなものが、なだれのように死んだ年でもあった。まだ生き残っているものも、多くは戦々恐々としている。この三月の決算がかなり大きな転機だろう。詳しくは書けないけれど、まさにいま、その死肉あさりの外国人たちが、大挙して日本に押し寄せている。土地がたぶんもう少し下がるかも。少しですむかな、どうだろう。そのあとで、はじめて何らかの生産的な動きが出てくるだろう。ただし前回も書いたけど、そうやって土地が流動化しても景気回復とはぜんぜん関係ないのよ。

 最近知ったのだけれど、ジュディス・メリルも今年(97年)死んだそうだ。名著『SFに何ができるか』(晶文社)を書き、創元推理文庫の『年間SF傑作選』を編集した人。彼女がいなければ、たぶんぼくはSFに深入りすることもなかったし、ウィリアム・バロウズにクビをつっこむこともなかった。ぼくにとって、メリルはSFにこだわる一つのよりどころだった。某所でぼくは、SFの歴史的な役割は終わったと書いたのだけれど、それが彼女の死とほぼ同時期だったというのは感慨深いものがなくもない。

 彼女にはいろんなことを教わった。60年代に書かれた『SFに何ができるか』で、彼女は一部SFなどに見られる新しい方向性について語っている。そして、それを理解したときにはじめてわれわれは、数学も物理も社会学も心理学も文学も統合した、新しい総合的な認識に到達できるかもしれないと書いている。これを中学高校時代に読めて、ぼくは本当に幸運だった。

 それに対して、ある「古参」を自認する偏狭な日本のSFマニアは、「SFってそんなご大層なものかぁ?」とバカにしてみせた。うん、かれのような小人物にとっては、違うのだろう。でもわからないのか。彼女やその仲間にとって、SFはただの楽しい読み物や書き物なんかではなかったということが。世界がまったく新しい相貌を見せようとしている(かのように思えた)あの時代、彼女たちにとってSFは、その世界認識を仮説的に統合できるかもしれないツールでもあったということが。「テーマのために小説があるのではなく、小説のためにテーマがあるのだ」というのが、この人物のお題目なのだけれど、それではその小説やSFだのが、いったい何のためにあるのか、かれは考えたことがあるのだろうか。

 いつかSFはその力を放棄した。いま、あの1960年代のオプティミズムと拡大志向とは別のものに基づいて、世界が変わりつつある。かつての(メリルにとっての)SFに相当するものはなんだろう。心あたりはなくもないけれど、まだこわいから教えてあげない。ただ、そうだな、もったいつけた書き方をしておくと、幸せの青い鳥は案外近く(たとえば目次のあたりとか)にいるのかもね、とだけは言っておこうか。1998年、それがもっとはっきりした形で見えてくるはず、なのだけれど、さてどうなることか。



山形浩生:1964年生まれ。本業は地域開発関連調査と評価。翻訳と雑文書きでも有名。

近況:1998年はまた、かのキングギドラのX星人が地球を焼き尽くし、われらサブジーニアス教会員だけを救う年でもあったのですが、デバッグの遅れで、リリースは1999年第2四半期にずれこむ見込みです(笑)。




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