山形道場
連載第24 回
words 山形浩生(hiyori13@mailhost.net)
今月の喝! ではなく讃!!
「ネットワーク共産主義」(その1)
共産主義は死んだ、というのは90年代のクリシェなんだけれど、もちろんそんなのはデタラメだ。昔から富や権力は一部の人々に集中してきたわけで、それに対し平等と共有に基づくシステムの方がいいな、というのはみんな考える。それは今後も不変だ。
が、共産主義は常に敗北し続けてきた。やっぱり人はどうしても自分がいちばんかわいいし、見栄もある。それに「共有」って実は不可能だ。この本を他人に貸したら、自分の手元にはなくなる。共有は、自分を犠牲にして他人に与えるという行為を含む。そこまでの自己犠牲を日常的にみんなに要求できるか。つらい。でもそれができないと、共産主義は長期的には成立しない。
マルクスは、産業革命に伴う生産力の向上に希望を託した。大量生産により、車なんかいくらでも作れるようになり、コストもどんどん下がる。みんな欲しければ車を 10 台でも 20 台でも持てるようになる。そうなったとき、これまでの価値観は変わるだろう。「所有」にかかわるステータスなんか消え去る。車を 10 台持つのが自慢にならない世界では、持つことにこだわりなんかなくなる。他人にそれを渡すことに何のためらいがあろうか。そこらにあるのを拝借しあえばいいではないか。そしてそうなれば、「価格」という市場からの情報に基づいて生産力配分が決定される、という資本主義的な仕組みは機能しなくなる。だれかが世間のニーズをモニタして、生産量を計画することになるだろう。
が、そうは問屋がなんとやら。資源はやはり限られている。原材料も、労働力も。すべてコストゼロでバンバン量産するわけにはいかないのだ。それを無視し、さらに価値観の変化をすっとばして生産計画だけやろうとした社会主義・共産主義は、結局非効率と私利私欲に蝕まれて崩壊してしまった。しかし前提はさておき、マルクスの考えそのものはまちがっていない。もしコストなしに量産できる財があれば、彼の思惑通りに事は運ぶかも。そういう財が、共産主義国家と入れ替わるように台頭してきた。それがネットワーク化された情報であり、ソフトウェアだ。情報は目減りしない。一定のインフラさえ前提にすれば、その複製には何の追加コストもかからない。しかも他人にあげるときに自分があきらめる必要がない!
ここには新たな共産主義の可能性が存在している。そしてネグロポンテごときの妄言なんかより深い意味での「アトムからビットへ」の動きを認めるとすれば、それは以前よりもずっと普遍性をもった形で、ずっと純粋なマルクス主義に近い形で存在している。
そしてそれを(知らず知らずのうちに)実現しつつある連中がいるのだ。(次号に続く)
山形浩生:1964年生まれ。本業は地域開発関連調査と評価。翻訳と雑文書きでも有名。小説、経済、建築、ネットと、何でもござれの広く深い視野で知られる。
近況:いまだに思い出すと腹がたつ。あの雨と泥と怒号にまみれた難民キャンプと化した富士ロックフェス! あの不手際と無策加減は金取れる代物じゃねーぞ!人死にが出なかったのが奇跡だぜ、むわったく。
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