『ワイアード』のロゴ

ワイアードの雑文

 ワイアードは、本国版は創刊号からずっと買ってる。創刊号に載った、服部圭かだれか(注:ぜんぜんちがった。どっかの毛唐だった)の「日本のおたく」記事はまあご愛敬だけど、インターネットの盛り上がりとクリッパー反対運動と、いろいろ時流にうまく乗った(しかもそれなりにきちんとした)方針をうちだして、すごく関心。日本のインターネットがいかに変なことになってるかを紹介した記事なんか、非常によかった。

 日本版が出るらしいという噂は聞いていて、まあどうせろくでもない代物になるにちがいないと思っていたら、柳下と、当時は白水社だった後藤氏の紹介とかで、ボストンにいるときにメールがきた。でも、あのワイアードでしかも当時のぼく(まあバロウズ屋さん、だな)に接触してくるというのは、ああこれは明らかにしょうもないサブカル雑誌を目指してるな、という印象。まあ翻訳中心でいくようだし、それなら出番もそれなりにあるか、と思ったな。それに、この手のあいさつだけ来てその後何の音沙汰もない雑誌ってのも何回かあったから、まあ動き出してからお手並み拝見。

 で、連絡が来た。担当がかつてのシティロードで多少つきあいのあった仲俣氏で、これには驚いた。そして最初にきた仕事は、スターリング『帝国のボタ山』翻訳で、これは原稿用紙 30 枚くらい。おお、こういうちょっとマジっぽい読み物もやるのか、と感心(だってこの手の雑誌って、まともに読みでのあるものってめったに載せないで、うわっすべりしたような紹介記事ばっかでまとめるでしょう。雑誌としても無難でしかないし、ライターもいいかげんだし、という悪循環の温床だと思うんだけれどね。

 これって創刊 2 号くらいに載るはずだったんだが……急に連絡がきて、オリジナル記事の割合を増やす方針に変わったので、これは没、金は出す、いずれオンライン版かなんかで出すという。これを聞いて、かなり失望した。だって、本国版のこの中身にはりあえるものを、日本のいい加減なサブカルライターどもが書けるわけないじゃん。でも、没になってもお金はちゃんと払ってくれて、それはポイント高かった。

 それがだんだん印象が変わっていった。日本初の ISP ってことで、TWICS(当時)のクレイグ小田のインタビューなんかが出て(まさかかれといっしょに本を書くようになるとは思わなかった)、これは当然なんだけれど、セガの取材をアメリカ版に頼らずにちゃんと自前で書かせているところとか、山下卓の「霞ヶ関を接続せよ」なんてのも、そこらのくだらない「ビジネス」雑誌の浮わっついたちょうちん記事ではなく、きちんと視点をもってるところとか、数号で評価はがぜん高まった。編集長日記にもあったけど、現代思想系のライターに甘い顔はせんのだっつーことで、へえ、やるじゃんって感じ。

 もちろん、それでも慶応 SFC のあの大学案内パンフみたいな特集はなんじゃー、とか、テッド・ネルソンみたいなおまぬけなのをいま誉めてどうするんだー、とか(ちなみにちょうどこの時、本国版 WIRED にはテッド・ネルソンのライフワーク Xanadu (TM) を、究極の vaporware とけなす記事が出ていて、コントラストは一層きわだっていた)、あるいはジャストシステムの広報資料そのままみたいな記事とか、ダメなもんはいくらもある。でも、日本のほかのコンピュータ雑誌(いや、それを言うならあらゆる雑誌) はダメなもんしかないって感じではないか。

 個人的には疑問符なところもある。サブリミナル映像なんて効かないんだから、TBSがそれを放送したのなんのと騒いでなんの益があるのかな、とか、苫米地はなにしに出てきたんだろう、とか(あんましいかがわしい人間と関わると、卑しさがうつっちゃうから気をつけなきゃ)。ハッカーの扱いに関する抗議も、きちんと応対すればいいのにと思うんだけれどな。あと、こないだ(橋龍一万円札が表紙の赤い号。4.04くらいだっけ?)の日本経済の話は、ありゃなんですかい。
 でも、全体として骨もあるし、取材をちゃんとした読みでのある記事が載るし、アムウェイとか警察とか、面倒そうなところも臆せずとりあげるし、ケンカするときにはケンカするだけの度量もある。テーマも広い。ただのインターネットちょうちん雑誌じゃねーな、あほカルチャー雑誌じゃないな、というのはもはやだれの目にも明らかだったはず。マンガと日本経済とゲームと映画を同列に扱える雑誌が、日本にほかにあるか? バカなヒョーロンカに屁みてーな感想文書かせるんじゃなくて、ちゃんと取材して、バックをつけて、それに理屈と分析もつけて、というちゃんとした取り上げ方をするって意味での「扱う」だよ。ないじゃん。

 それが1998年9月21日発売号をもって休刊になる。いろんな事情については、ワイアードのホームページからたどれる編集長日記を読んでおくれ。残念だな。ぼくはこの雑誌こそが21世紀の日本の「総合誌」に相当するものになると思っていた。唯一、「読む」価値のある雑誌として君臨すると思っていた。だから最近は毎号のように「よしよし、いいぞう」とうなずき続けていたのに。やんぬるかな。

 またしばらく雑誌不毛の日々が続くのかな。それでも、ここまで『ワイアード』は本当によくやってくれたと思う。なくなって残念だと思った最大の雑誌だけれど、いつかここから出た芽が、本当に大きな流れをつくっていく、なんてこともあるかな、と気休めに思ったりしないでもない。そして、自分もその一部なのかも、なんてことも。


山形道場(1993年〜1998年)


情報サブウェイ (各種レビューなんか)



「藤元よ、早急に視察団を組もーぜ」(インターネットカフェ見物記)

 当時はまだインターネットカフェも物珍しかったんだ。このカフェって、NY のかつてのセントマークス書店にできて、Blast の連中が住んでたところの真下だったんよ。だからわざわざ行くって感じではまったくなかった。下の HOPE に行くついでに見かけたもんで、この藤元 (NRI でインターネットといえばこいつね)にうったメールをそのまま原稿にしてしまった。

「無邪気なハッカーたちの祭典」(ハッカー会議HOPE参加記)

ハッカー雑誌 2600 主催の世界ハッカー会議、Hackers On Planet Earth の参加記。反クリッパーで盛り上がっていた時期。

「ハッカーの四十八手教えます」(「Firewall and Internet Security」書評)

 ちょっと脱線。ハッカーということばを、悪い意味で使うべきではないという主張があって、理屈も気持ちも十分すぎるくらい理解できるし、ぼくもなるべく気をつけてはいる。でも一方で、ことばはだれのものでもない。世間的に、ハッカーということばを悪い意味で使うケースが、不本意にせよ定着してしまっているのは、動かし難い事実。物書きとしては、それに頼る選択肢だって十分にあるし、それだけで責められるべきではないと思う。
 それに善玉ハッカーといえど、常によいことばかりしているわけではない。ストールマンのハッカー精神に基づくいくつかの行動は、必ずしも社会的に容認されるとは言い難いものだろう。ターミナルを独占している教授の研究室のドアをぶち破るとかさ。痛快だけれどね。
 さらに、ハッカーの大好きな創造的ないたずらは、下手をすると相手しだいではかなり悪質な破壊行為とみなされる。かれらにどんな意図があろうとも。知り合いの設定ファイルをいじってちょっとしたメッセージが出るようにするのは、冗談ハッキングですむかもしれない。が、それをネットワーク中で無差別にやれば、これはウィルスでクラッキングだ。MITのドームの上に家を乗せるのは、ジョークとしては最高だけど、撤去する役目のキャンパスポリスは、笑いながらもメンドーだな、とは思ってるはずなんだ。ちょっとシャレのわからんやつが出てきたら……
 あるいは物理学者ファイマンは、好奇心で金庫をいじってみて、たいがいの金庫がえらく簡単に開くことを発見して大喜びであちこちのを開けまくる。かれはまちがいなくハッカー精神を強烈にもっている人なんだけれど、それは金庫のクラッキング(文字通り)も簡単に発揮されてしまうものだ。別にかれがハッカー道を踏み外したんじゃない。むしろ、ハッカー気質のゆえにかれはクラッキングをやってる。その間の一線はほとんどない。
 結局、ハッカーとクラッカーの差はただの結果論にすぎないんじゃないか。これは決して厳密に適用できない区別じゃないか。
 もっともだからといって、笠原利香や橋本典明の扇情的な「ハッカー」記事作文が肯定されるわけじゃない。でも、かれらが石を投げられるべきなのは、事実誤認や誤報、浅はかさや、不安と誤解をあおるだけのスキャンダル報道でしかない低劣さの点においてであって、クラッカーをハッカーと呼んだ点ではない。それは無神経ではあるし、なかなか有効なリトマス紙でもあるけれど、そこを責めても不毛じゃないかな。

「過渡期のソフトPGP」 (PGP書評)

 ぼくは、だんだん暗号ソフトは通信ソフトすべてに統合されると思ってる。だって、いちいち PGP 使うの面倒じゃん。それでも、Eudora のプラグインになってかなり楽になったけど。でも、これってまさにぼくが言ったような方向ではあるよね。
……と当時は思っていた。でも、いま読むとぜんぜんダメだ。これを書いた頃、ぼくはまだ信頼の鎖という概念を理解していなかった。お互いのキーへの署名やキーサーバの使い方などの理解もなってない。したがってここに書いてあることは、記述としてはまったく不十分。信用しないでほしい。

「この次のレベルが読みたい」(クリフォード・ストール、Silicone Snake Oil 書評)

 邦訳は「インターネットは空っぽの洞窟」。

「著者にはそもそも定見がないにちがいない。」(橋本典明『リアルハッカー』書評)

 ある時、アスキーの編集者から、「山形がこの本の書評を書くときいだんだが……」と言われた。その時はぜんぜんそんな話はなくて、「ガセねたでしょう」と回答したら、しばらくしてからホントに話がきた。あれはなんだったんだ。
 さて、ぼくは橋本典明とは何回もあってるし、座談会みたいなこともしてるし、むしろ好意的だったんだ。かれの処女作『メディアの考古学』はダメな本だったんだけれど、『SPA!』で書評を書いた時には、悪口をならべて最後にそれをひっくりかえしてほめているかのような書評にするという芸当まで使ったし。でも、この本はちょっとあまりにいい加減だった。いろんな意味で。インタビューされてる人間のラインナップと、その中身のなさとのギャップは目を覆うばかり。メネ・メネ・テケル・ウパルシン。
 その後橋本氏とは会ってないので、感想をきく機会はない。でも、なんか最近どんどんおかしなほうに行ってるし、まあ絶望だろうね。でも、これを読んで宮崎哲弥がいたく感心してくれたとか。何が幸いするかわかったもんじゃない。

「阿波踊りの換喩的シュールレアリズム」 (『踊る目玉に見る目玉』書評)

 レジデンツのバイオグフィーの書評。全部一つの文章でずらずら続けるのは、蓮実重彦が『話の特集』の連載でやってたことで、まねしようと思ってやったんだけど、ワイアード式のあっちとびこっちとびするレイアウトだと、あまりそれがうまい効果を上げなかったのは残念。

「総論賛成、各論反対」(宮崎哲弥『正義の見方』書評)

 宮崎哲弥ご指名とのこと。それではと気合いを入れたんだが、1,000字ではなかなか気合いも入りきりませんわ。でも論点は出したし、まあこの字数では健闘したつもり。

Beyond HOPE参加記

 HOPE 参加記を書いた以上、これもまあお約束みたいなもんです。朝日パソコンに載せたものと、まあ似たような内容。

「汎用の美学」

 このころ、とても入れ込んでいた Emplant の話。これはアミーガ用のマックエミュレータなのだ。これが結構使えるんだよ。


その他

帝国のぼた山(ブルース・スターリングのモスクワ紀行、ワイアードで使用予定が見送りに)

 もう時事的にもちょっと古い感じではあるな。まあ、やりましたという自慢のためだけにアップしとこう。なお、没でも ワイアード はちゃんと支払いをしてくれて、へえ、まともな感覚してるんだ、と感心した(だって書いて載ってもカネを払わないとことか多すぎるもん)。

「プラスチック人間たちの勝利」 (ブルース・スターリングのプラハ紀行 翻訳)

 翻訳は単純作業だから、つい退屈しがち。だもんで、ぼくはよく勝手に訳注まがいの感想文をバンバン入れてしまう。で、そのまま出す。たいがいは編集者が全部削ってしまうけれど、このときはたまたま、おもしろがって残してくれたんだ。そしたら、読者から「こいつは何様だ」という抗議がかなりあったみたい。

We Sex, but We Also Linux (Linuxのすばらしさを伝える啓蒙記事)

 実はタイトルはちゃんと韻を踏んではいないのだ。英語的にも若干問題があるのだ。

21世紀への希望と絶望(1998年8月号)

 なんかいっしょに出た写真が、かなり顔つきと目つきが悪いんですけど……石上主席には、「妙にオプチミスティックで山形らしくない」と言われた。最近、ちょっと前向きに人生を送ろうかな、なんて思ってるもんで。

いま日本に必要なのはインフレだ!(訳と解説)(1998年9月号)

 クルーグマンの『日本のはまった罠(トラップ)』の抄訳と解説。原文最後の、ケインズを下敷きにした冗談がわかってもらえず、ホントに何もしなくていいんだ、というふうに編集の人に理解されてしまって、ゲラであわてて説明を増やした。そうだよなー。ふつうは"In the long run, we are all dead." っていうの、知らないよねー。

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