山形道場 by 山形浩生(#16-23)



連載第 16 回(3.03)

番外編 「国際さらりまんの憂鬱」

 

 っつーわけでマニラにいるんだが、まったくやんなっちまうぜ、4 日でアポが 15 件も入ってて、さらに昼も夕飯も打ち合わせで、親分ときたら二言目には治安がどうのとかで(オレたちがそんなご大層なタマかよ、まったく)、通りをちょいと下ったとこにあるアポ先に出向くのにわざわざハイヤー借りて、明るい人通りの多い表通りを7分も歩きゃすむもんを、どうしようもない渋滞にとっつかまって 30 分かかって、泊まってんのがマカティってどこで要するに大ショッピングモール 5 つばかし(これがごていねいに、ありとあらゆるアメリカ系ジャンクフード屋が 3 組ずつも入ってやがんの)くっつけたのにオフィスビルを 20〜30 本添えたようなあたりで、つまんねーったらありゃしなくて、もう一日中エアコンホテルとエアコンオフィスの間をエアコンタクシーで行き来してるだけで、マニラで名喰ったってこれが東京でも香港でも NY でも何も変わらず同じくらいつまんないだけって感じで 2 時間に 1 度くらいなんだってこんなとこでつっかえてやがんだ、もう小一時間ピクリとも動いてねーこのタクシーから降ろしやがれコンチクショーメおりゃいったいここで何してんだぁと叫びたい衝動にかられるんだが、もちろんそれはここに仕事があるからで仕事そのものは決してきらいじゃなくて、会う相手だって面白いんだけれど、でもオレはたまには外気に直接触れたいんだ(ただしここは排ガスまみれなので不許可)、薄汚い屋台飯が喰いてーんだ、なんかここならではって味がほしいんだ、こんなホテル飯だの世界最低共通分母みたいな代物ばかはうんざり、それは建物も街もそうで、いまちょうどマイケル・ジャクソンが一緒に着てて、というのはつまりたまたま同時にマニラ都市圏にいるってだけで本当に一緒なわけじゃねーんだが、なんか例のお稚児さん騒動で最近市内浄化に精を出してるマニラ市から追い出されたうえにヘビだのサルだのつれててあちこちのホテルから断られてまあかわいそうではあるんだけど、なんか昨日のコンサートには 4 万人集まったとかで、かわいそうに、しかもそいつら、本気でそれを楽しんだらしくて、これまたかわいそうに、でも自業自得ってやつかね、ほんと今すぐフィリピン原理主義運動とかおきてくれたらさぞすっきりするだろうよ、まったく近視眼的偏狭抑圧国粋右翼の連中ってのは、たまに役に立ちそうなときにゃいたためしがねーんだよな、まったくどこにいやがんだよチクショーメが、ねえフィデル・ラモスくん、きみもそう思うだろう(わけねーか)。

近況:上に述べた通りでございます。ワイアードの 2 周年記念パーティーでは、伊藤穣一が率先して踊りだしたのには嫌味抜きで非常に感心。やるじゃん。



連載第 17 回(3.04)

今月の喝!「権利」

 モンディ・パイソンの名作『ライフ・オブ・ブライアン』には、ユダヤ人民戦線という頭でっかち行動皆無スローガンと抗議のみの左翼パロディが出てきて、「今度は何の権利を要求しようか」という差横断をする。で、一人が曰く「男にも子供を産む権利を要求しよう!」

 もちろん、物理的には産めないんだから、そんな権利は無意味だ。ではこんなのはどうだろう。山形はいま、100 億円の豪邸に住む「権利」が一応あることになっている。が、そんな金の持ち合わせはございませんので、これは実現不可能な「権利」だ。だったら、そんな「権利」はないことにしてはどうか。そしてそれを買えるだけの金(つまりは能力)ができた時点で、その「権利」とやらが生じることにしたらどうだろう。

 そもそも権利とは何か。ネットでポルノを見る権利はあるのか、画像などを置く権利はあるのか、子供に見せる権利はあるのか、子供に見せない権利はあるのか、子供の見る権利はどうなるのか、幼児ポルノを見る権利はあるのか云々。でもね、「権利」なんてどこにもないのだ。「権利」という話をはじめると、みんなそれがえらく実体のあるモノであるかのような話をすぐ展開する。たとえばアニマルライツなんていう、動物の「権利」なんてものを声高に主張したがるどうしようもなくバカな人たちがいる。「動物にも人道的な扱いを受ける権利がある」って、あのさ、動物は人間じゃないんだから、人道的になんて扱わなくていいの。畜生は畜生道的に扱われればいいの。しかしそれはさておき、こういう話がはじまると必ず「動物に権利はある」「いやない」というけんかがはじまる。でもさ、そんな権利があるとかないとか、どうやって決めるの?

 そもそも権利なんて、社会的なお約束ごとにすぎない。決めごとだ。そういう「権利」があることにしたら、なんかメリットあるか?それがないことにしたらメリットあるか?これまでのいろんな決めごとと、そこそこ整合性があるか?そういう判断で、あることにするかしないかを決めるだけの話。だから議論として正しいのは「こういうメリットがあるからそういう権利があることにしよう」というものであるはず。それが実際の議論は、いきなり「ある」とか「ない」とか。

 考えてもごらん。何事もそうやって「権利」云々と言い出した瞬間に、話はまったく生産性のないお題目開陳へと突入している。「権利」なんて示せないから、すれちがうしかないんだもん。世間的な議論では「権利」なんてたいがいはその人が勝手に考えている根拠レスな「べき」論にすぎないし、最終的には公共の金をむしりとるための口実でしかない。「ポルノを見せる権利はない」ってのはつまり、警察がそれを取り締まれってことでしょ。

 「権利」という概念が一時期は有効だったことは認める。が、こうもみんなが自堕落に「権利権利」と口走るとは、古人は予想していなかったのだろう。バカにもXXXにも選挙権を与えるのはまちがいだと思う。自動車の運転にすら試験があるんだよ。選挙権もほしいヤツだけが試験を受けて、政治経済のイロハがわかってるヤツだけが行使できるようにすべきだろう。その他の「権利」も能力と意欲と、それを認めてあげたときの意義を示せた人だけにあげるようにしよう。「地方在住者にもインターネットに接続する『権利』が」とか、バカな話。「だから公共の支援を」というわけだ。そうじゃないだろう。「おれはインターネットに接続したい」といえ。「おれに接続させるとこんあんいいいことあるぞ」というのを説得してみせろ。そうすればだれかが投資してくれるだろう。「権利」といえば公共がなんかしてくれるという国民の甘い考えも、いまの日本の財政問題と無関係ではないと思うんだがね。

近況:某ミュージシャンの本を訳す話が出ていて、そのミュージシャン曰く「訳者として適切か判断したいから、経歴書を送るように」。いいんだけどさ、いやあ、知らない人がぼくの経歴書を見てどう思うのか、是非きいてみたいもんだ。



連載第 18 回(3.05)

今月の喝!「教育にコンピュータを」

 本誌でも好評連載中のネグロポンテは、今の教育はよくないとしきりに言う。でもそれは生徒が悪いのではなく、教える側の問題なのだ、と言う。100 年前の科学者は今日では役にたたないけれど、100 年前の教師ならそのまま通用するだろう。こういう旧態依然としたマスプロ教育システムが悪い、コンピュータを使った個人別インタラクティブ教育を導入しよう! インタラクティブでディープなコンピュータなら、子供たちの興味が自由に展開するにつれて、個人に合った速度とレベルで理解を含められる。ネットワークで他の子供たちと自由に連絡を取り合い、想像力と創造力のおもむくまま好き勝手にどんどん能力を高められる云々といった話。

 だが、もちろん、みんながみんな創造力と創造力なんかホイホイ持ち合わせていてたまるかよ、というのがぼくの基本的立場である。関心のおもむくまま? ガキの関心のおもむくままに任せたら、インタラクティブなリモコンと操作盤を手に、テレビとゲームとマンガに没頭するのがオチではないか。現在ですら「関心のおもむくまま」メディアに没頭する弊害が広範に見られつつあるのは、金原克範が実証した通り(『”子”のつく名前の女の子は頭がいい』(洋泉社)を参照)。

 すでに基盤ができていて、創造力豊かな人材が豊富な MIT にいるネグロポンテなら、放任主義でもよかろう。でも教育というのはいちばん根本的なところで、子供に好きなことを好きにやらせるための制度ではないだろう。なんだかんだ言いつつ、いちばん重要なのは社会に適応させるために(程度の差はあれ)子供を鋳型にはめる機能である。鋳型というと聞こえは悪いけれど、でも子供の「興味」に媚びるばかりでなく、どっかで「おまえの興味や関心はさておき、最低限このくらいは身につけておかないと世間では通用しないぞ!」というのをたたき込んでくれないと、教育なんか無意味だ。ある程度は税金でまかなうんだしさ。

 それは子供のためでもあるはずではないか。子供の興味に任せて、お菓子とジャンクフードばかり喰わせておくわけにもいくまい。いやだ嫌いだと言ってもニンジンとほうれん草を「喰わせる」ことが必要だろう。だいたい教育システムがうまくいっていないというのは「お子さまがたのお気に召さない」って話じゃなくて、社会に出てから真に重要な能力を習得させられてないってことなんでしょ? それをインタラクティブソフトで救えるわけないじゃん。

 あと、コンピュータ・リテラシー教育が必要云々という議論。小学校でローマ字の授業をするとき、タイプの練習させてごらん。すぐ上達するから。

近況:今回はアンカラにて原稿書きである。トルコは良いところなんだけれど、通信事情が悪くて日本のメールホストにつなげないのが難点。




連載19回

今月の喝! 「オフィスにパソコンを」

 そろそろパソコンを導入しなきゃとお考えの管理職のみなさん。「情報武装のできないビジネスマンは取り残される」などというあざといプロパガンダを真に受けてお悩みのみなさん。悩む必要はありません。正しいのはあなたコンピュータ導入で業務効率があがるとか、生産性があがるとかいうのはまったくのウソ! それを定量的に証明してしまったので、みなさまにも披露しておこう。

 まず前提。コンピュータ1台あたり初期導入コストが今だと300万くらい(本体ハードだけじゃない。周辺機器やソフトも、参考書も買うし、勉強時間もある。これでも安いくらいだ)。ソフトのアップグレードや消耗品、スペースや操作時間を考えれば、運用コストは最低でも年間 20 万。これは時間の浪費でしかない WWW ブラウジングや、ゲームしたりして間を費やしたり、ゲームしたりしてててて時間は考えてない。

 では、その結果は? これだけの投資と経費で、まともな投資収益(たとえば 15 %)を実現するには、どのくらいの儲けが必要だろうか。ちょいちょいと計算すると、5年でスクラップするとすれば、パソコン1台あたり毎年 98 万円ほど、利益に(売上にではないよ)貢献しなきゃならない。つまりこんだけコストが削減できるか、あるいは収益が増やせなきゃなんないわけだね。

 現実的にはどういう意味を持つのか。98 万のコスト削減または収益増というと、常勤に近いパートを1人くらい。あるいは、粗利 10% くらいとすると、売上 1000 万円くらいに相当する。または、年収 600 万くらいのサラリーマン(たとえばぼく)が、残業を完全になくせばこのくらいのコスト削減になるかな。

 よろしいですか、管理職のみなさん。パソコンを1台導入してもとをとると言うのは、こういうことなんですよ。

 で、どう思いますか?

 最近は1人1台とかの世界だから、それをもとに部単位で考えてみよう。ぼくの本業の職場を見渡すと、総勢 40 人ほどの部でパソコンが 50 台。ということは……人材派遣のパート 50 人削減!?!?(そんなにパート使ってないって)、または部の売上 5 億円増加!?!?!が実現されていなければならない!! あるいは部員の残業と休日出勤が一掃!!

 通常の企業で常識的にパソコンに期待できる成果は、事務手続き時間が一割短縮とかそんなもんである。九割九分の企業では、それすら実現できてはいない。ネットワークがどうしたとか言うけどさ、インターネットだのイントラネットだのがいかにすごい代物でも、ここまでいけると思う? バカゆーんじゃねぇっての。

 よって、コンピュータなんか導入したって、経営的なメリットなどありゃしない。ただし例外あり……でもそれはここでは教えてあげないのだ。わっはっは。

近況:最近、ヒトラーの『わが闘争』を読んでとてもがっかり。知性もエレガンスも何もない! 下品で愚劣なオヤジががなってるだけ! ナチス的な美学なんかカケラもなし! おいゲッペルスぅ、もっといいゴーストライター使えよぉ……



連載 20 回(3.07)

今月の喝!……ではないが「近代を超える日本の思想の可能性」

 今の日本はとてもおもしろい時期にある。経済的には先がわからない。産業的にも、かつての黄金期復活はあるまい。特に量的にも質的にも人材的な理由から。ぼくが言っているのは、思想の話だ。

 思想といっても結局、一時はやったニューアカデミズムなんて、何も変えなかったし、何も生まなかった。その基となった、フランスの現代思想が云々やポスト構造主義のなんたらも、チマチマしているだけの自閉した代物。これの末流たる脱構築文芸批評について、経済学者のクルーグマンは言っている。「あれは独創性はないけど目端の利く院生が、自分の頭のよさを誇示するのに好都合だからはやったんだ」と。それ以外の「現代」思想とやらも、まあそんなものだ。しかしいまの日本で芽吹き出している思想は違う。数百年前、イギリスやフランスで、近代の基礎となる概念が体系化され、その後の世界の動きに裏付けと根拠を与えた。たとえば人権とか自由とか、市民とか国家とか、進化とか資本主義とか、物理学とかね。今、生まれつつあるのは、ひょっとするとそれらに匹敵する、今後数百年の世界の基礎となるような思想だ。

 たとえば岡田斗司夫の『ぼくらの洗脳社会』は、来るべき世界の構成原理について、ひとつの可能性を示唆している。すなわち、世界のすべてが、あのニフティサーブのフォーラム群のような、内輪受けの排外的な陰湿集団と化す可能性(まだ思いつきの域を出ないが)。あるいは金塚貞文の描く、オナニーの先鋭化とともに資本主義が崩壊する予感。自由に関する、かつての宮台真司の思想。自然淘汰を否定しようとする四方哲也(論証がまだ甘いけど。それとよく考えると否定にはなってないんじゃないかという……)。メディアを本当に考え抜いている金原克範。その他、橋本治など数名。

 みんな今のままじゃ足りない。まだ本当に未熟で、議論もアナだらけで、しかも 2 作目以降はまるで見当はずれの方向にそれていって(特に宮台真司!)、がっかりすることしきりなんだが、でもここには新しいダーウィンやルソーやホッブスとなり得る(かもしれない)代物がそろいつつある。あと足りないのはニュートン……はまあ無理だろうけど、ぜひ欲しいのがアダム・スミス。電子マネーあたりをてこに、未来の価値観と世界観における新しい価値媒体としての可能性と、それが最適配分を実現する論証が必要。それでほぼ完成する。そして、これを整理して方向付ける仕切り役だが、浅田彰はインターなんとかいう 80 年代遺物雑誌の同窓会はいいから、こういう大事な仕事に手を染めてよ。

近況:Atari Teenage Riot! Atari Teenage Riot! Atari Teenage Riot! Atari Teenage Riot! Atari Teenage Riot! 多忙で心身ともにボロボロ。ATR だけが救いと元気の素。Atari Teenage Riot! Atari Teenage Riot! Yeah!



連載 21 回

今月の喝! 「山形道場」

 何号か前に、この欄で「インターネットで闇経済が発達してみんな税金払わなくなる」という話を罵倒した。その際の基本的な考えかたは、さまざまな取引はトラブった際に何らかの解決手段を必要とする(つまり裁判に持ち込めないとダメ)だから、税金のがれでそうそう裏帳簿をつけてもいられないだろう、ということと、ロシアならいざしらず、ある程度以上の先進国ならばそれなりに徴税機関が能力があるから、そんな派手に裏取引はできないんじゃないか、ということだった。もちろん把握されない商取引というのがある程度出るのは仕方ない。でもそんな極端には多くないはずだ、GDP にまで影響が出るようなものではない、たかだか総生産の数パーセントのはずだ、という議論をさせていただいた。

 ぼくの考えが浅うございました。

 前半の話は、まちがってはいない。しかし人々の脱税意欲を、上の議論ではかなり甘く見ていたと言わざるを得ない。世界の闇経済の規模を推定した研究がオーストリアで出てきたんだが、これがなかなか無視できるような規模ではない。ロシアあたりだと、公式の GDP と同じくらいの規模の闇経済があると言われているけれど、イタリアでも GDP の25%。これはマフィア系もいるしわかるような気もするが、ベルギーやスウェーデンあたりでも GDP の 20% 前後(すげー)、ヨーロッパの主要国で概ね 15% 前後、日本やアメリカでも 10% はある!

 まいった。

 この調査は先進国だけなんだけれど、それ以外の国ならこれの数層倍の闇経済はあるだろう。そういえばこないだマニラを調べていたときにも、「フィリピンの高所得者層の申告所得は4万5千ペソくらいだが、実際に銀行預金で見る限り8万くらいあるはず」という話を住宅ローン屋からきかされていた。つまり申告所得(公式GDP)の80%くらいの闇経済がある可能性もあるわけだ。あれを書いた時点で、この話は知っていたのに……お恥ずかしい次第です。

 ネットワークの発達が、脱税の機会をそれなりに増大させるのは事実。一般企業がそんな大々的に裏取引と脱税を進めるかというと、やはりそれは(前回あげたような理由で)疑問だとは思う。が、前ほど強い断言はできない。どうだろう。大々的にはやらなくても、中々的くらいにはするかもしれない。ネットワークがそれを大幅に推し進めるかどうかは……もう少し考えねば。しかし、何はともあれ調べが浅うございました。伏してお詫び申し上げます。

近況:トマス・ピンチョンの新作が出たそうで。評判を聞く限りでは賛否両論。どんなもんかしら。ところで『ヴァインランド』の翻訳はもう出たんだっけ?


連載 22 回

今月の喝:香港返還

 今回は返還 10 日前の香港で書いている。あたりは一面、返還祝賀の電飾の準備に余念がない感じだが、それ以外には特に変わったところは見られない。本誌が出る頃には、手渡しはとうに済んでいるはずだが、おそらく大した変化は起きていないだろう。

 最近のアジア系雑誌は本当に楽で、2週間おきに「香港 1997 」とかいう特集を組んで、同じ内容を使い回していれば時事的な顔ができる。ビジネスウィークとタイムとニューズウィークが、まるで区別のつかない保存版特集なんか組んでいて、「あのー、別に消えてなくなるわけじゃないんですけどー」というのが現地のおおかたの感想だそうな。

 だって、今のメディアの騒ぎかただと、返還された瞬間に香港の空気が一変し、それこそ街並みから人の動きからあたりの雰囲気まで一瞬にして中共化してしまうとでも言わんばかりだけど、そんなことは(たぶん)ありえないもの。ベルリンの壁みたいな状況が漠然と想像されてるんだろうけど、ここは今までだって派手に人も物も行き来していた。返還後も、今の「国境」は残る。ああいうドラスチックなイベントはない。中国共産党だって、世界の注目の中でいきなり派手な動きはしないだろう……が、どうかな。これが怖いところだわな。ネットのドメインだって、hkのままだ。

 公共工事なんかがもめ出しているかもしれない。閉じたり名前を変えたりする店もあるだろう。Club 64 は大丈夫かな。緒川たまき写真集『1997』ではまちがって Club 24 になってたが、名前の由来を知らないな。天安門だよ。店内は落書きとリベラル学生の張り紙だらけ。日本だとリベラルは左翼系だが、ここのリベラルは反中共で左翼がかれないのでのがおもしろいところ。しかしそんなもんだ。

 それでも不安感はある。香港人の友達と飲んでいると、やっぱどこかで「あの」話になる。返還をどう思う? それに対する返事が、判で押したように同じなのが気になるといえば気になる。同じような情報をまとめると、同じような結論しかないということかしら。そして今回サンプルした連中は、この時点で香港にいることを選んだ以上、それなりにポジティブな結論に達しているわけだが、しかしそれがかくも似るものだろうか? しかも部外者のぼくとほとんど変わらないもんだろうか? うーん。

 以上が超短期の予測だが、さてどう出るか。で、長期的には……という話は、またいずれ。

近況:本誌が出るころには訳書「アイアンマウンテン報告」が出ているはず。これは朱鯉ですぞ。久々にあとがきでも力入れまくりましたので、多方面の逆鱗にふれることでしょうぞ。夜露死苦!


連載 23 回

今月の喝:例の写真公開がどうしたとかいう話

 頭の殺人事件の容疑者の写真が(たてまえ上は)公表されないことについて、西部邁が「本人も、そんなやつを育てた親のツラも見せしめに公表すべき」と週刊誌にコメントしていた。それ以外の「識者」とやらも、一様にそんな意見だった。

 ぼくは権利という概念を認めないので、容疑者の人権はどうでもいい。でも一方で「知る権利」だの、スキャンダルマスコミの社会の公器づらした「報せる権利」なんかもっとどうでもいい。効用だけで考えてごらん。西部は、その親の写真だので何するの? 今さら容疑者の逮捕には貢献しない。嫌がらせ電話やリンチが関の山だろうに。なるほどそれが「見せしめ」か。

 が、あの親御さんたちを責められるの? 立派に家庭をつくって子育てして、平均以上の優れた一家じゃん。それでもああいう子ができちゃうのが、人間の怖いとこ。その親たちの側にとって、集団リンチは切実な現実の問題だよ。西部の指示する無益で陰湿な「見せしめ」と、まだ罪も確定していない容疑者の関係者の身の安全とどっちが切実で優先すべきかといえば後者に決まってる。

 西部邁は最近、たぶん宮崎哲弥の影響かな、「共同体」の再確立を口にする。が、現在の問題は社会から共同体が失われたことではない。それが中途半端に残っていることなのだ。なぜ容疑者の写真なんか見たいかね。そしてなぜリンチの心配なんかが必要かね。もっとみんながアトム化していれば、そんな必要はないはずなのだ。みんな、単なる現象としての関心で殺人を見る。写真はリアリティの添え物にすぎない。

 写真を見ても、だれもそれに対してどうしようとは思わない――ちょうどわれわれが、ガース柳下の楽しい『世界殺人鬼百選』を読んで、完全に無関係な他人事として面白がれるように――そういう社会こそを目指すべきだし、そうなれば自体はずっとよくなる。

 そのガース柳下は宮崎勤関連の書籍を表して、「著者は宮崎の精神病と自分との連続性を認めようとしない」などと批判する。が、連続性なんかない。最終的にはわれわれは、かれとは決定的にちがう。われわれは無用に人を殺したりしない。なぜかは知らない。人格形成のプロセスなんかわかってないんだから。変なやつは確率的に生まれてしまうし、ほんのささいなきっかけで、人は変わるのだ。それも再現性のない形で。

 だからそんなものに関心を持つべきではない。無益だから。確率的な現象としての身近な殺人を鑑賞する社会が実現するまで、写真なんか公開してはならない。それは「共同体」に差別とリンチの機会というエサを与え、延命させるだけだ。

近況:とはいえ、あそこのホームページに行けば見られるのは、重々承知してるんだけどねー(あ、また消された)。

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YAMAGATA Hiroo (hiyori13@malhost.net)