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21世紀に託す絶望と希望

(『ワイアード』1998年8月号)


山形浩生


 20 世紀がもうすぐ終わろうとしている。21 世紀のきみたちになにを遺せるだろう。確実に遺すのは、たくさんの老人(つまりはぼくたち)。そしてその老人たちへの(果たしきれない見込みの高い)年金の約束。ものすごい財政赤字。決して高い水準とはいいがたいけれど、そこそこのインフラ。チマチマしたものをつくらせたら天下一品だけどちょっと弾切れ気味の製造業。わけのわからないおたく文化とそのソフト生産能力。そしてもうしばらく続きそうな、いまひとつよくわからない不景気(これは 21 世紀までには終わっているかもしれないけれど)。

 どうひいき目に見ても、貧相なリストだ(もちろん製造業とおたくの部分は、バカにしたもんじゃないけど)。そしてこの貧相さはだれの目にも明らかなのに、みんな中途半端にいろいろ持っているからだれも切迫感を持っていない。とりあえず既得権益さえ守っておけば、あと 10 年くらいは食っていけるだろうとたかをくくって、じりじりと貯金が食いつぶされてゆく。

 こんなはずじゃなかった。こんなケチな一覧表になるはずじゃなかった。みんなもっともっといいリストができるものと確信していたはずだ。なんといっても、この 20 世紀の間中、日本の経済はほぼ常に目を見張るような急成長を続けていたんだから。いつだって、明日はもっとよくなる、10 年後は目を見張るようによくなる、100 年後には想像を絶するユートピアがやってきて、それはまさにいまの延長線上にあると思っていたんだから。そのユートピアの基盤を遺してあげられると思っていたんだから。

 20 世紀―― 20 世紀というくくりがアレなら、明治維新以降でもいいや。それはこの地球全体にとって異様な時期だったし、中でもこの日本にとってはとんでもない時代だった。だってその前といえば、日本はちょんまげ結った江戸時代だったんだ。それが数十年のうちに、世界の列強とタメを張る存在にまでのしあがって、第二次世界大戦の無謀な賭けに走り、叩きつぶされてからまた性懲りもなく異様な急成長をとげて、またもや数十年のうちに世界第 2 位の経済にまでのしあがってしまった。

 でも、なぜそんなことができたのか、実はよくわかっていない。後付けで、あれはよかった、ここがよかった、とは言えるけれど、それは結局、たまたま運とタイミングがよかったという話でしかないんだ。戦後の発展について、10 年前であればかなりの人が胸を張って「メインバンク制を含む日本的企業経営と産業政策」と指摘しただろう。これぞ欧米とは異なる新たな発展モデルだと言って。いまは、もうその自信もない。もはや足枷でしかない過去の異物という見方も強いし、それが 20 世紀においてすら、実は本当に有効なモデルだったのかを疑問視する声さえある。

 そして過去の異物をきれいにするという意味でも、ぼくたちはあまりいい仕事をしてこなかった。子孫に美田を遺すなというけれど、美田はないまでもせめてこの平成不景気を機に、いろんな膿みを出しつくしてきみたちが動きやすいようにできるんじゃないかと思ったけれど、これは思ったほどは進まなかった。

 結局、20 世紀のぼくたちは、なにをきみたちに伝えていいものやら。反面教師と負の遺産ばかりを遺してるんじゃないだろうか、という気がしてならない。

 にもかかわらず、絶望的というわけじゃない。20 世紀の経済発展の理由が実はよくわからないように、21 世紀にだってわけもわからず発展できる可能性はある。そしてそのための材料が見えてない訳ではないんだ。

 手始めに、たぶんあと数年で(四年としておこう。バブルの最後っ屁のでかい開発が市場に出てきて、地価が下がりきるのにそのくらいかかる)、そこそこの回復がくるはずだ。その契機はわからない。規制緩和だの構造改革だのじゃないよ。この不景気は需要不足なんだから、需要がどこで出てくるか考えないと。一つには、住宅を中心とした不動産じゃないかな。家を買いたがってる人間はそれなりにいるんだ。値下がり期待と先行き不安で様子を見ているけれど、これが数年以内に動いてもいい。

 さらに中国がこれから(たぶん一回派手にクラッシュしてから)じわじわと成長してくる。これはかなり政治的に波乱含みで、ひっじょーに恐い面もあるのだけれど、でも入りこむ余地だって絶対ある。東南アジアも、数年以内に着実に回復する。そこでの需要がとれる。その一方で、ユーロで無理したヨーロッパがしばらく苦労するし、アメリカも早晩バブルがはじける。日本が相対的によく見えてくるチャンスは大きいんだ。

 でもその後(いやその過程)で、新しい要因が浮上して経済の仕組みが変わってくる。バブルから学んでね。せっかくの発展を投機につぎこんで負債を増やすようなまねはせず、その新しい要因をどう取り込むか考えて。一つには環境。京都会議で出たような、排出権の取引なんかが、経済の中で重みを増すだろう。同時に石油を含む資源も深刻に不足してくる。世界中が生活水準を上げれば、必ず資源とその捨て場不足が問題になるんだから。

 著作権商売も変わるだろう。これは部分的にはかなりはやい時期にくる。フリーソフトがこんな急速に動くとはね。それ以外の部分はどうだろう。サンプリングを逆に推奨してアーティストや作家の価値を高めるような方向があるはずだ。「海賊版が売れてるところでコンサートを開いてもうける」というピーター・ガブリエル的発想。

 そして労働力。これから労働人口は減って、それが支えるべき年寄りは増える。労働力はぜったいに不足してくるんだ。ただし今みたいなホワイトカラー労働の需要があるかな。多くの人間は自前の判断力を持たない付和雷同の無毛サルにすぎない。そしていまの企業や官僚組織のうち、ホワイトカラーで本当に仕事をしている人間はごく少数だ。あとはそれにたかってる寄生虫で、それがお互いにへまをしあって仕事を作りあい、会議と称する顔色うかがいごっこで生産性を下げているだけ。そういう存在は、いずれじり貧だ(とはいえ、保身にだけはたけているこの連中を侮ってはいけない)。かわって必要とされるのは、小手先の職人芸的な技だろう。そしてさらに掃除や介護や給仕みたいな、単純だけれど小回りの要求される絶対に機械化できない仕事がだんだん重要になってくる。これがどう効いてくるだろう。これをうまく使えば、今は地獄絵図としか思えない高齢化社会で、派手にインフレをかけつつ逆に年寄りをこきつかって経済をまわすことが可能になるかもしれない。

 あと、いまの日本の問題として、野心も志もない小人物が、運悪く高い地位にたどりついてしまった不幸というのがある。なまじ日本が成長せず、いまのポルトガルくらいの存在だったら、さぞかし気楽だったろう。これはきみたちも背負う不幸ではある。でも日本人が、自分の資産運用とかで人生設計を真剣に考えだした段階で、これはケリがつくはず。その時にきみたちはどういう選択をするんだろうか。21世紀前半にはこれを読むぼくたちもまだ生きていて、その選択はたぶんまさにぼくたちに迫られるものではあるんだ。

 きみたちに遺せるのは、せいぜいこんなもんだろうか。さて、2050 年の死に際の山形浩生よ、20 世紀のおれは、いったいなにを見落としてるね? そして 21 世紀のおまえはいったいどういう選択をしたね?

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YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>