Voice 2016/06号 連載 回

東日本大震災の教訓は熊本地震に生きている

(『Voice』2016 年 6月 pp.38-9)

山形浩生

要約: 熊本地震は悲惨ではあったけれど、東北震災のようなくだらない自粛合戦だの増税の口実にしたがる陰謀だのもなく、復興に向けてかつての恭順がそれなりに活かされたと言えるのではないか。



ちょうど、熊本の大地震が起きて、執筆候補に考えていたネタのすべてが些末なことに格下げされてしまったところではある。おそらく本誌が出る頃には、余震なども一通りおちついて、そろそろ人々も、そして行政も、災害救助的な段階から、復旧・復興をどう考えるかという段階に進んでいるのではないかと期待したいところだ。

 執筆時点では、本当にまだ余震も続いていて、被害は拡大する一方だ。実際に今後何が起こるのかはまったく予断を許さないところではある。そして、一部では救援物資が届かず難儀しているなどの報道も聞こえてはくる。こうした状況はもちろん、まだまだ改善の余地はある。

 ただそれでも、どうしてもかつての東日本大震災と比べてしまうのは人情だろう。そして対応を見るに、前回の教訓はある程度生きているな、と感じられるのは、それなりに心強いことではある。

 というのも、当時自分が書いたこの欄の原稿を読み返してみるだけで、東日本大震災のときの対応がいろんなレベルでいかにひどかったかが、如実に思い返されるからだ。変な自粛の大合唱で、テレビコマーシャルは「ぽぽぽぽーん」ばかり。当時の民主党政府はおたつくばかりで、まともな対策本部の設置も野党の後塵を拝するばかり。

 そしてご記憶だろうか。あの時は、具体的な被災者の救済すらまともに進んでいない状況で、復興会議なる代物が作られたのだ。頭でっかちの評論家や実務のイロハも知らない大学教授どもが、食えもしない理念やら哲学やらをこねくりまわして、何の役にも立たない現代文明批判に精を出した作文を得意げに発表した。しかも具体的な中身が何もないのに「歳出見直ししろ、復興のために税金あげろ」という、よりによって財政緊縮提言がやたらにそこだけ細かく具体的に提示されている。災害が起きたら、人々が不安になるし多くの経済的な仕組みが壊れてしまったことで消費が落ちるから、それを政府が臨時支出などで支えるべきなのに……。さらにそれとは別に、多くの学者(それも、この手の話を多少は心得ているべき経済学者や財政学者も含む)が、増税しろという署名入りの回状を発表する有様。

 それに比べて、今回はいまのところ、なんぼかましだ。変な自粛の嵐もない。対策本部もすぐできた(野党の対応はずいぶん見劣りするが)。そして、変な復興会議はいまのところないし、これを期に増税といった世迷いごとも、やはりいまのところ聞こえてはこない。少なくとも、新しく税金を作って景気を冷え込ませろ、という話はない。

 もちろん東日本大震災は、地震にあわせて津波と、さらには原発事故というトリプルパンチだった。地震だけの今回とはいろんな意味で規模がちがったというのはある。あの時におたついた人々すべてを責めるのは、少し酷な部分もあるかもしれない。原発の建屋が水素爆発で吹っ飛んだ映像が出回ったときには、ぼくですらもうダメだと思った。が、責めはしなくても、一切擁護はできない。

 でも、その教訓があってか、今回は少なくとも明らかに変な動きは今のところない。ああすればよかった、ここは不足だった、という後悔はもちろん随所にあるけれど、それは仕方ないことだ。それでも一応関係者は、何をすればいいかは見通しがあり、そして人の不幸に乗じて自分の思惑を進めようとか、ましてそのために人の不幸を悪化させようとかいう(増税のような)話もない。

 だからこそ、ぼくは本誌が出るころには、熊本の大地震は復旧・復興を考える段階に入っているだろうと楽観視している。そしてその過程で、消費税率引き上げ見送り、という話も出てきてほしいところ。首相は、この程度では見送らないとか言っているけれど、これは選挙用の弾を温存しているだけと思いたい。

 とはいえこれは、ぼくが甘いだけかもしれない。過去のこの欄で、ぼくは東日本大震災の復興に関しても、楽観的なことを書いている。そしてもちろん、今後いろいろダメな政策が打ち出され、やっぱり東日本大震災の経験は何も生きていない、と次回は嘆く羽目になるかもしれない。が、そうでないことを祈って……


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