Voice 2015/12号 連載 回

人工知能はまだ自動化できない

(『Voice』2015 年12月 pp.38-9)

山形浩生

要約: 人工知能が話題になり、すぐに人間が絶滅するようなことを言っているけれど、そんなバカなことはないし、自動運転の人工知能はかなり単細胞ですぐだませるという。人間は、そういうイタズラ力をもってすれば人工知能ごときは(まだ)恐るるに足らず、ではないだろうか?



最近、人工知能についての期待や懸念があちこちで表明されている。シンギュラリティという用語を耳にされた方もいるだろう。いまから数十年(二〇四五年という数字がまことしやかに語られている)すると、コンピュータの処理能力が人間を上回るようになるという説だ。

 そして、それが実現した暁には、もはや人間の役割はなくなり、映画『ターミネーター』のように機械が人類を滅ぼそうとして……というのは極端にしても、やることのなくなった人間のための社会保障をどうするか、といった議論がかなり真面目に行われている。

 さて、もともとSF好きのぼくはこの手の話で大喜びだ。経済学の分野などでは、あの貧困削減で有名なジェフリー・サックスなどかなり大物経済学者までが、そうした機械やロボットの影響をかなり真面目に検討している。結局のところ問題は、人間の役割をどこまで機械で代替できるか、というものに尽きるようだ。一部の業務は、確かに置きかえられる。でもそれが、職を完全に置きかえられるか? 一部の人は、すでに自動化はほぼ完了し、あとは本当にニッチな分野でしか自動化は進まないと考えている。一部の人は、その見方は甘い、と批判する。

 さてSFファンとしてのぼくは、どんどん自動化が進んで変なロボットが遍在する世界を見たいと思う。が、現実主義者のぼくは、その可能性が低いとも思うのだ。

 そうした、機械が人間の職を脅かすという議論の代表格は、自動運転だ。これが実現したら、タクシーやトラックの運転手はいなくなる! これは明らかなように思える。各国政府が20世紀末頃まで必死に取り組んで次々に脱落していたのに、グーグルが人工知能的な成果を導入してそこそこの成果を出してしまったために、他の企業も慌てて追随している。

 が、実はアメリカで、ある企業による自動運転の実験地の周辺では、おもしろいことが起こっているという。子どもたちがボール紙で手製の「止まれ」標識を作って、道端に置いておくのだという。愚かな自動運転車は、それを見てしっかり止まり、その場でずっと止まり続ける。子どもたちはもちろん、どのくらいいい加減なもので車をだませるかを競って喜んでいるのだとか。

 機械学習や人工知能は、確かにあるパターンなどの抽出はうまい。でもその学習結果を見て、意図的にその裏をかくようなイタズラや悪意には、実はかなり弱い。でも、それに対応できないようでは、実際の応用はかなり限定されてしまう。各種のセキュリティ専門家もこうした点は指摘している。技術だけではセキュリティは確保できない。つまり自動化できないのだ。

 もしそうなら、機械や人工知能の活躍できる範囲は限られるのではないか? 自然現象や、少数の人の悪意が統計的に問題にならないビッグデータ解析などでは力を発揮するだろう。でも特に人間と接触するようなところだと(そしてたいがいの仕事はそうした部分を持つ)、機械だけに完全に任せられる場面は少ないのでは?悪意とイタズラこそが、機械に対する人間の切り札、というのも、なんだか複雑な心境ではある。でもその一方で、考えて見ればそれこそが人間の人間たる所以であり、歴史的にも人間進歩の原動力ではあったわけだ。

 むろんいずれ、そういう限界を突破する機械や人工知能もできるのかもしれない。が、もし機械がそこまで賢くなるのであれば、人間を適当におだてて(ゲームに夢中の人々を見ればわかる通り、人間はちょっとエロ画像を表示するくらいで飯も食わずに必死でボタンを押し続ける)、奴隷と感じさせずにこき使うくらいのことは簡単にできるはずだと思う。

 もちろん、こうしたすべては今の段階ではおとぎ話。技術進歩の世界も何が起きるかはわからない。が、ヘタをすると目前に迫りつつある問題ではある。皆様も一度考えて見てはいかがだろうか。そして機械をだませるだけのイタズラ力も鍛えておいてはいかが?


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