Voice 2014/05号 連載 回

『アンネの日記』、お読みですよね?

(『Voice』2014 年 5月 pp.38-9)

山形浩生

要約: アンネの日記が破られる事件が起きて、「あの本を読んでナチスの残虐さと当時の悲惨さを〜」といった論者が湧いてきたが、本当に『アンネの日記』を読んだんだろうか? そういう部分はかなり少ないのだ。印象だけであれこれ言わず、きちんと読んで見よう。



しばらく前に、東京各地の図書館および書店で『アンネの日記』が大量に破られるという事件が起きた。多くの「識者」やらが、これはレイシズムのあらわれだ、ネオナチだ、したがって嫌韓右翼(またはその逆)の仕業だといういい加減な憶測をまき散らしていた。そして数人は、かつて『アンネの日記』を読んでその悲惨さに涙した、それを破るとは何と恐ろしい、という議論を展開していた。

 さて……それを見てぼくは「むむ?」と思ったのだった。というのも、読んだ人はご存じの通り(もちろんお読みですよね?)、『アンネの日記』自体にナチスの直接の蛮行は比率的にさほど多くないからだ。むろん彼女の一家が隠れて住んだのはナチスのせいだ。そしてがさ入れが入ったり、知り合いが連れ去られたり、という苦労エピソードは多い。でもそれよりは、アンネが親に(かなり理不尽に)むかついてみせ、いっしょに住んでいるボーイフレンドに心をときめかせ、自負をもって(青臭い)作文を書き、自信過剰と劣等感、希望と絶望との間で葛藤する十代少女の青春日記が主体なのだ。それ自体を読んで涙するような代物ではまったくないのだ。

 もちろん、あらゆる『アンネの日記』には背景説明がついてきて、彼女のその後の運命やナチスの非人道ぶりが大量に書かれている。それを見て、健気な日記部分がなおさら哀れに思えて涙する人はいるだろう。が、そこまで高度なメタレベルの読書ができる人が、そんなにいるはずもない。でも『アンネの日記』を読んだら「アンネかわいそう、ナチスひどい、戦争反対」と書くのが小中学生の読書感想文のお決まりだ。そして多くの人は実際の日記なんかまともに読まず、そのテンプレ通りのことを書いて夏休みの宿題を乗り切り、その後一生ずっと、『アンネの日記』もそのテンプレ通りの本なんだと思っている。

 それは本としてとても不幸なことだ。それは『アンネの日記』が反ナチのプロパガンダツールに貶められているということだからだ。そしてそれは図書館にある本を破く以上に、実際の本を読ませない力となっているからだ。

 そういう違和感をおぼえているのはぼくだけではない。アメリカの1990年代の名作テレビドラマ『アンジェラ十六歳の日々』に、主人公の多感な女子高生がこの本の感想文を書く回がある。彼女は「あたしもアンネみたいになりたい」と書いて、大問題になり親が呼びつけられる。で、ナチスの圧政や彼女の悲劇を無視してアンネになりたいとはネオナチに染まっているのでは、と先生が言い出すと、彼女はブチ切れて「だってアンネはボーイフレンドが一緒だった! あたしはいない!」と実に高校生らしい近視眼的で身勝手なことをわめく。でも、圧倒的にこの女子高生のほうが正確に本の内容をとらえている。学校が求めているのは、出来合の筋書きへの準拠であり、それが(ナチズム批判であっても)本当によいことなのか、とその番組は問いかける。

 ぼくもそう思うのだ。

 さてこう書いただけで、このドラマの先生と同じく「反ナチプロパガンダを疑問視している、ヘイトスピーチだ、山形は親ナチだ」みたいなことを言い出す人が出てくるだろう。そういえばカナダのアイドル歌手がアムステルダムのアンネ・フランクの家でちょっとふざけたことを書いただけで、えらく叩かれたりもした。ぼくはそういう雰囲気のほうが怖いと思う。ついでに言うと、そのアンネ・フランクの隠れ家はウサギ小屋日本人の感覚からすると意外に広くて、ものすごい秘密の穴蔵を想像していたぼくはかなり拍子抜けしたんだが……

 が、閑話休題。図書館の本を破るのはよくないことではある。でもそれには少しだけいいこともある。これが原因で、『アンネの日記』を実際に見ようという人がある程度は出てくるからだ。大事なのは、『アンネの日記』を多くの人が実際に読むことだ。図書館での状態は、あくまでその手段でしかない。「識者」と称する人たちは、プロパガンダに加担するより(いやそのためにも)実際に人々が本を手に取るための方策を考えてほしいし、また読者諸賢もいい機会だから、久しぶりに目を通してみてはいかがだろう。たぶんご記憶(あるいは思い込み)とはまったくちがうものであるはずだから。これは泉佐野市の教育委員会に撤去された『はだしのゲン』でもまったく同じだ。


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