Voice 2013/10号 連載 回

青空文庫プロジェクトの成果

(『Voice』2013 年10月 pp.38-9)

山形浩生

要約: 青空文庫の富田倫生が他界した。著作権フリーの文書を出回らせ、日本で電子テキストの基盤を築くと同時に、TPPに含まれる著作権の無意味な延長に対する反対論をずっと展開してきた。実際に文化を広げるためには、彼がやったようにフリーの電子文書を出回らせることで文化の基礎を作るべきで、だれも使わない権利を強化しても意味はないのだ。



当初、今回は消費増税をテーマにする予定だった。アベノミクス/黒田日銀によるインフレ目標政策とそのための金融緩和で、景気は徐々に回復しつつあるが、まだ十分ではない。いまここで増税による重荷を背負わせれば、また腰砕けになる可能性も高い。それに消費税の税率を上げたからといって、税収が増えるとは限らない。消費税の税収は増えても景気が低迷すれば、全体としての税収はかえって下がり、そもそもの狙いだったはずの財政再建さえ達成できない可能性も高い。いずれ税率を引き上げるにしても、いまそれをやる必要はない。今は見送るべきだ——書こうとしていた内容はおおむねこれに尽きる。

 が、執筆中の八月半ば、富田倫生の訃報が飛び込んできた——と書いて、誰のことやらご存じの方が何人いることだろうか。著作権切れの文書をボランティアの活動で電子化し、フリーで公開している青空文庫の呼びかけ人の一人だ。

 こうした活動は世界のあちこちに見られる。代表的なものはアメリカの「プロジェクトグーテンベルグ」で、青空文庫はその日本版とされることも多い。機械読み取りが実用水準にある欧米語に対して日本語は手作業に頼らざるを得ない。青空文庫は、多くのボランティアを募りながら少しずつ作業の手順を整え、ファイルの扱いに関する方針を定め、じわじわと点数を増やしていった。ネットで明治期の日本文学などを検索してみると、かなりの確率で青空文庫がヒットする。二十年ほどかけてこのプロジェクトが生み出してきた成果だ。

 多くの人はこれを単なる好事家の趣味と思っている。だがその成果は単なる手すさびにとどまらない。はやい話が、ここ数年毎年のように日本の電子書籍元年とか言われ、電子書籍の新端末なるものが鳴り物入りで登場した。そうした端末のほとんどすべてにおいて、課題はコンテンツの充実だし、そしてその際にフリーの青空文庫の作品は大量に活用され、悪く言えば作品数の水増しに貢献してきた。日本の電子書籍というビジネス分野——まだビジネスと言えるものになっていないという批判も十分に可能だが——は、こうした集合知的なボランティア活動の上に成立しているとも言えるのだ。

 さらに富田倫生は、この青空文庫をプロジェクトとして成立させるばかりではなかった。それに関連して著作権期間の無意味で有害な延長への反対運動など、電子テキストを取り巻く環境の整備に対しても積極的な取り組みを行ってきた偉大な人物だった。このぼくも、半ば彼の活動に影響されてフリーの翻訳プロジェクトを始めたりもしたし、それも含めて彼が周囲に与えた影響ははかりしれない。その早すぎた死を心より悼むと同時に、ぼくたちがその遺志を少しでも継いでいかなくてはならない。読者のみなさんがネット上でなにげなく接する各種文書(特に日本文学)が、実は青空文庫の成果だったりすることも多い。ときには、ご自分が読んでいるものの背後にあるこうした活動にも思いをはせてみてほしいなと思う。

 さてその富田倫生が晩年に取り組んでいたのが、TPPと関連した著作権強化の動きだった。TPPは当初、参加国内の貿易自由化の取り組みだったはずが、ふたを開けてみると円滑な貿易のために規制をそろえろと称して、規制を厳しいほうにそろえるようなおかしな話が特に知的財産権がらみでは横行している。しばらく前に、著作権を現在の作者の死後50年から70年に延長しようという動きがあり、それに対する疑問と反対については本稿でも取り上げた。その際にはつぶれたこの話が、TPPを口実にまた蒸し返されてきている。それがいかに愚かなことかは、当時書いた議論がほぼそのまま当てはまる。その他の知的財産権の「整備」と関するものもすべてそうだ。

 そうした財産権強化にばかり頭がいって、中身もないうちに騒いだ結果としてほとんどの電子書籍端末は鳴かず飛ばずだ。それが曲がりなりにも商品として登場したのは、相当部分が青空文庫のようなフリーなテキストのおかげだ。行政も電子書籍産業を後押ししたいなら、著作権を厳しくするより、公共が率先してフリー文書を大量に作り出し、各種プラットフォームが活用する素材をたくさん提供するほうがいいのに。富田の遺志を継いで今なお続くこの青空文庫の活動を見て、一人でも多くの人がそれに気がつきますように。


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