Voice 2009/9号 連載 回

反対者こそ裁判員になれ

(『Voice』2009 年 09 月 pp.132-3)

山形浩生

要約: 裁判員制度に反対する人は、被告にもっとよい裁判を受けさせるべきだといい、裁判員のおはちがまわってきても辞退するという。でも、裁判員がはじまったら、裁判員制度に反対の人のほうが法的人権意識が高く、被告によい裁判を受けさせられるのでは? 自分のこだわりやポーズのために、裁判員を辞退して被告を素人裁判員にさらすのは、かえってかれらに危害を加える身勝手な態度では?



 今回は少し抽象的な話を。

 裁判員制度について原則的に擁護する議論を書いたところ、かなりの批判メールをもらった。その多くは、人を裁くのがいいとか悪いとか述べたあげくに、もし自分に裁判員の招集状が来たら絶対に応じないと決意表明をして終わっていた。

 さて、もちろん裁判員制度が気にくわないから参加しない、という直情的な判断はわからないでもない。己がよいと思わないものには自ら関わらない。いやご立派。

 だが……そもそもその人は、なぜ裁判員制度に反対なのだろうか。素人だらけの烏合の衆では、正しいよい判断ができない(かもしれない)から、というのが理由のはずでしょう。そんな制度によって裁かれたら、被告はまともな検討も受けられず、ろくでもない判決を受けてしまうかも知れない、それは許せない。よって裁判員制度はよくない、というわけだ。

 つまり裁判員制度に反対するのは、最終的には被告になるべくまともな判決や量刑が宣告されてほしいから、ということになる。

 さてここで問題だ。高い見識を持って裁判員制度に反対する人が、裁判員になることを拒否したとしよう。裁判員になるのは、そういう高い意識を持たず、被告がどうなろうと気にしない人たち、あるいはこの裁判員制度がもつヤバさを認識していない人々、あるいは認識していてもそんなことを意に介さない高潔さに欠ける人々だけ、ということになる。

 さてかれらは、信念にしたがって裁判員を辞退した高潔で意識の高い人たちに比べて、正しい判決(その辞退した人から見ての正しい判決)を下す可能性は高いだろうか、低いだろうか?

 当然低いだろう。

 では、それがわかっていて、裁判員を辞退するのは本当に本来のその人の意図とマッチしているんだろうか。被告が変な判決を受けかねない状況を心配していたはずの人が、自分のちんけな正義感とポーズのために、みすみす被告が変な判決を受ける可能性を増やしてしまう——それでその人々は、良心の呵責を感じないのだろうか。

 実はこれに似た話はよく見かける。かつて、グーグルが中国に進出したときに、中国政府はグーグルに検閲を強制した。民主主義とか天安門事件といった検索は、結果が歪められている。これについては批判が巻き起こり、グーグルには失望した、グーグルは中国の要求を拒否して、中国進出をやめるべきだった、という議論がたくさん起きた。

 それはインターネット法の権威で民主主義の大擁護者でもあるローレンス・レッシグも同様だ。かれは自分の著書でそのグーグルの対応を批判し、もし中国がその著書の中国語訳を出すときにその部分を削除しろと要求したら、自分は本自体の発刊を認めない、とたんかをきった。

 でもなぜ中国の検閲に反対するんだろうか? それは中国の人たちがもっと民主的な体制に移行するのを阻害するからだ。では、中国の民主主義にとってはどっちがいいんだろうか。ある程度検閲されていてもグーグルが使える状況と、グーグルがまったくなく、中国のお手盛り検索サイト百度しか使えない状況と。あるいは、中国批判の部分がなくても民主主義の重要性を強く訴えているレッシグの著作が読める状態と、それがまったく読めない状態と。

 ぼくは、いずれも前者だと思う。直接は民主主義が検索できなくても、他の多くのグーグル検索を通じて、かれらは情報共有の重要性を悟るはずだ。そしてレッシグの本にみなぎる民主主義の価値称揚は、中国批判の部分があろうとなかろうと人々に伝わる。

 そして裁判員だって、この制度を憂慮するだけの見識のある人たちが入ったほうが、確実に判決の質は上がるんじゃないか?

 グーグルが椅子を蹴ったり、レッシグが自著の発行を拒否したり、あるいは裁判員を拒絶したりするのは、一見するとかっこよさげに見える。でも実はそれは、かれらの当初の目的を裏切る行動なのではないか。

 ぼくたちは、完璧な世界には住んでいない。それはだれでも当然知っているべき前提だ。そこで完璧でない事態に直面したとき、ぼくたちは何をすべきか? そのすべてに背を向けるべきなのか? それとも、不完全な制約を受けた状態の中で、最善の結果をもたらすために精一杯の努力をすべきなのか?

 ぼくは後者だと思うんだが。

 もちろん、これはつらい道だ。いずれも敵と野合したとなじられるだろう。そして絶対にそうすべきだとも言わない。見方を変えれば他の選択肢もあるだろう。ただすでに裁判員制度が始まっている中では、自分だけ拒否したところで、単に見得を切る以外にいったい何が実現できるのかについては、よく考えてみるべきじゃないだろうか?


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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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