Voice 2008/12号 連載 24 回

クルーグマンのノーベル賞と調整インフレ

(『Voice』2008 年 12 月 pp.134-5)

山形浩生

要約:  クルーグマンがノーベル記念経済学賞をとった。かれは、みんなが知っていることを巧妙なモデルにして経済学の中に取り込むのにたけており、それにより収穫逓増の貿易理論や立地理論、通貨理論などを大きく広げた。アジア危機の指摘やドルの為替レートなど予想もいろいろあてている。かれが日本の不況について10年前に述べた調整インフレ理論は、日本の関係者はくさすけれど世界ではもはや常識化しているので、これを期に見直して導入を本気で考えてはいかがだろう。



 アフリカの奥地に二週間出張している間に、世界は一変していた。ダウは一万ドルを割り、日経平均はなんと八千円台! 執筆時点で、まだ世界の金融業界は大激震の最中で、何がどうなるやらわからない。従来の資本主義は崩壊だといった極論もきかれ、これを予見・阻止できなかった経済学は役立たず、というような論調すら一部には見られる。

 さて、もちろん経済学は完璧じゃない。でもそれを改善し、広げようとする努力は絶えず行われている。その好例が、金融市場暴落とほぼ同時にノーベル記念経済学賞を取ったポール・クルーグマンの業績だ。

 かれがノーベル賞をもらったのは、戦略的貿易理論のためだ、という紹介がされているけれど、おそらくそれでは何のことかわからない人がほとんどだろう。それは簡単に言うと、規模の経済というものを経済学に導入したことだ。同じモノを作るなら、小さな工場で手作業で作るよりも、でかい工場で大量生産したほうが安い。これをかれは経済学で扱えるような方法を考え出したのだ。そして、それが貿易に影響を与えるのだ、と。

 こう書くと、多くの人は失笑するだろう。大量生産で値段が下がるなんて、常識以前のことではないか! 経済学者はそんなことも知らなかったのか、と。でも、まちがえてはいけない。もちろんそんなことはみんな知っていた。でも、それを経済学のモデルにする方法がなかった。クルーグマンは、現象を見つけたからえらいんじゃない。だれでも知っているその現象を理論として扱う手法を見つけたのがえらかったのだ。

 これは別にかれの業績を貶めるものじゃない。クルーグマン自身が幾度となく述べていることだ。そしてそれにより、経済学はいまの先進国同士の貿易や都市の存在も説明できるようになった。経済学は広がり、新しいことを説明予測できるようになった。それは現実に対する力を持ったし、実際にかれの理論は一部の産業政策に大きな影響を持った(その使われ方自体は本人にとっては不本意なものだったけれど)。

 クルーグマンの業績は、実はそれだけじゃない。かれの理論は常に経済学の幅を広げ、現実をもっとよく説明できるようにしてきた。一九九七年のアジア通貨危機以前に、当時のアジア経済が必ずしも順風満帆でないことをおおっぴらに指摘したのは、クルーグマンをはじめほんの数名だけだった。かれは為替の理論でも有名で、ジョージ・ソロスなどの通貨攻撃の方向性や1980年代のドルの方向性などもみごとに当てている。時に変わった提案をしつつも、かれの(少なくとも経済がらみの)発言や予測はいつも骨太で小技に頼らず、経済学者の中ではかなり高い的中率と説明力を備えている。かれのノーベル賞受賞に対し「クルーグマンの予想はほとんど常に外れている」なんてことを言う人がいるのは驚くべき事だ。

 だから、かれが日本の景気回復策として十年前に行っている提言も、これを気にそろそろいい加減にまじめに受け止めるべきだ。景気を上げるためには金利を下げて、お金を流通しやすくしなくてはならない——これは今回の金融危機で、(日銀以外の)ほぼあらゆる中央銀行がやったことで、ほぼ議論の余地のない処方箋だ。でも、日本の金利はゼロに近くて、これ以上下げられないとされてていた。そこでクルーグマンは、とても簡単なことを述べたのだった。実質金利がゼロなら、それをもっと下げてマイナスにしなくてはならない——ということは、名目金利をインフレ率よりも低くすることだ。そして、名目金利はゼロよりは下がらない(というのも現金で持っていれば金利はゼロだから)。だったら、インフレのほうを上げなくてはならない!

 この議論は、いまや日本以外の経済学者はほぼすべて認めていて、日本でだけなぜか、蛇蝎のごとくに忌み嫌われている。でも最近になって、インフレターゲットを否定する人が同じ本の中で、期限付きのお金というアイデアをほめていたりする。期限付き、ということは時間がたてば価値が下がるということなので、これはインフレと同じだ。そしてインフレターゲット論を口を極めて罵っている一知半解な論者が、ブログで実質金利をマイナスにすべきだと得意げに主張していたりする姿も見られる。今回の金融危機で、世界的に景気底上げを図らなくてはいけない状況は確実に出てきているし、日本もそれに協力しないわけにはいかないだろう。クルーグマンのこれまでの実績もあるんだし、ノーベル賞を期にこの発想をちゃんと実施することを考えたほうがいい。


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