alt.culture 原稿

 問題の、である。まあここでは、多くは語りますまい。あの最初のうちあわせをした新大手町ビルのサブウェイもつぶれてしまいましたよ、穂原さん! 「インターネット」の項は、むかし別冊宝島に書いたものの焼き直し。

(追記1998.10.02:そろそろ多くを語ることにした……が語るのやめた。)
(追記2002.01.09:で、再開。)

[い-017]インターネット

 えーと、ここの中のインターネットの軽い歴史のおさらいをした部分で、「50年代に」とあるのは60年代の誤植、というかうちまちがい。永瀬唯さん、ご指摘ありがとう。いままでなおってなかったのは、ほかにだれも指摘してくれる人がいなくて気がつかなかっただけ。
付記:でもなんかアレだな。確かこれの前身の別冊宝島のヤツを書いたとき、60年代と書いたのをなんかの記事を読んで「お、もうチトさかのぼらせられる!」と思って50年代にしたような記憶がかすかにあるんだ。なんだっけ、アメリカの情報公開で、最初のインターネット構想を書いた軍事資料がみつかったとかいう話だったかな? まあそれでも、確かにそれだけでインターネットの発端を50年代にするのは強引すぎるよね。軽率。

[え-007]SF


[お-018]オルタナティブ


[こ-008]小谷真理およびそれを……

 いずれこれについてはきちんと言うべきことを言いたいんだが、何せここで茶化された小谷真理がぼくとメディアワークスと主婦の友社を訴えてきちゃったので、あんまりいろいろ書けない状況なのだ。

 ……と書いてるうちに状況が変わってきたので説明しよう。(1998.10.04)
 ……と書いてるうちにまた状況が変わってきたので今さらながら説明はやめよう。But I'll be back! (1998.10.07)

 ……と書いてから3年以上たって、I'm back! やっと片がついたので、まあ今更ながら公開しておこう。いま読むと当時とは認識が変わった部分もかなりあるんだけれど。それとこうして見ると、当時は冷静なつもりで、ぼくもかなり頭にきていたんだなあ(遠い目)。 (2002.01.09)

 ここでリンクを張ってるのは、ぼくたち被告側の謝罪文なんだけれど、小谷真理はこの謝罪文自体が名誉毀損だという得体の知れない主張を裁判で持ち出してきている。

 読んでもらえればわかるけど、ここでの謝罪文は 「山形は『小谷は巽のペンネーム』と書いた。これは両者がえらく似てるってことを強調するための文だったんだけど、まあ事実ではない。気に障ったようで悪い」 という文なんだ。ところがかれらの言い分は、この謝罪のなかで 「両者がえらく似てるってことを強調する」 という説明のくだりが、実は謝罪のふりをしつつだめ押しの名誉毀損を行おうとする陰謀なんだ、というもの。

 やれやれ、あなたたちさ、ぼくたちに謝らせるにしても、謝罪を読む側にはそれなりの背景説明ってもんが必要になるとは思わないの? 「文中に一部不適切な表現がありましたことをお詫びします」 なんていうテレビの謝罪みたいな、何の意味もないやつがほしいわけ? ぼくは謝るときはどんな場合でも、何についてどの点を謝ってるのか、見る人にちゃんとわかる形であやまるんだよ。ここには事実でないことは書いてないし、事実でないことをそう誤解されるような書き方もしてない。ぼくがどういう認識を持ってたかという説明はあるけど、でも、そこでも決定的な事実誤認は生じないんだ。それを読んで 「あ、なるほど、そういえばそうだ」 と思っちゃう人がいたら、それはひとえに書き手としての巽・小谷の筆力の問題だ。

 もちろん、名誉毀損ってのは バカをバカといったら、その人が本当にバカでも名誉毀損が成立する。でもあなたたちはそんな低レベルの話がしたいわけじゃないんだろう (とぼくは信じたいが……)。

■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■

 さて、裁判を含むこの一件全般についてのコメント。裁判所では口をきいていただけないようなので。

 小谷・巽さん。まずあなたたちは大きなかんちがいをしている。この裁判に勝っても、あなたたちは本当に達成したい目的を達成することはできないんだ。

 あなたたちは、「ペンネーム」 といわれたことよりも 「そっくりなほど似ている」 といわれたことで頭にきているようだ。あと、ファンダム時代には自分たちより小者だった山形が、たてついてきてるのが許せないってのもあるみたいね。で、あなたたちは裁判で勝てば (そしてかなりの確率で勝つだろう。あなたたちの望むような形でではないにせよ)、山形の記述を取り下げさせられて、そしてそれによって、その背後の 「二人が似ている」 という認識まで闇に葬れると思ったんだろう。そしてそれによって山形の評判も落ち、物書き生命も抹殺できる、と。

 でも、裁判は記述そのものの是非は問題にするけど、その背後にあるぼくの 「似ている」 という認識は問題にできないんだよ。「ぼくはそう思ったんです」 といえばおしまいだ。そして裁判すればするほど、「似ている」 という認識は世間に広まってしまう (そうならない手もあるんだけれど、その道はあなたたちが自分でつぶしてしまったよね)。だって、あなたたちは「似てない」ってことは決して証明できないんだもん (ぼくならできるけど、あなたたちはその手法を知らない)。そしてぼく以外でも「似てる」っていう人がいることは事実なんだもん。さらに、二人が似ていることはある程度は定量的にも示せるんだもの。やればやるほど 「なーるほど、そういえば似てる」「似てると言われてるらしい」 という評判は広まるんだよ。鼻であしらっておけばなにごともなくすんだのに。

 そして裁判であなたたちが、名誉毀損による被害の大きさを論じれば論じるほど (でも、これをちゃんとやってくれないので、争点がかなりぼけてきてるんだけど)、それは 「似ている」 というのを裏付けることになってしまう。たとえばお二人が誤解の余地がないくらいに決定的にちがう文を書くなら、ぼくが 「ペンネーム」 と書いても被害は何もない。二人の文を読めば、ちがってるのは一目瞭然になるから。似ていて、誤解される余地が多ければ多いほど 「実際に誤解された」 ってことで被害は大きくなる。

 つまり裁判で勝つときの条件を有利にしたいなら、あなたたちは自分たちがむしろ似ていると言ったほうがいいの。極端な話、「ホントにペンネームで、それを使い分けることで商品価値を高めていたのに、それをばらされては商売あがったり、賠償しろ!」 とでも論じたほうが圧倒的に有利なのに。でも、それはできないわよねえ。さあ困った。

 つまりこの裁判を始めることで、あなたたちは 「山形の言うことには根拠はない、二人は似てない!」 というのと 「(似ててまちがえられやすいから)被害は大きい」という相反する主張を両方しなきゃならない立場に自分を追い込んでしまったんだよ。この裁判で有利に勝てば勝つほど、あなたたちは (少なくともその片方は) 物書きとしての生命を縮めることになるんだ。その逆も真なり。しかし記者会見までやってここまでビッドをあげたら、もうおりられないだろう。さ、どうするね? ちなみにぼくたちは、どっちでもいいんだよ。だから裁判前から、和解条件だして交渉してるんだよ。

 そしてあなたたちがもう一つ忘れてること。ぼくはそこいらの三流学者よりはずっと頭もいいし知的貢献度は高いけど、でもアカデミズムの人間じゃない。だからこの裁判がどうなろうと、ぼくの物書きとしての立場には関係ないのよ。だってぼくはもともと「何を書くか予想もつかない人間」なんだもん。それにぼくはもうあなたが思ってるようなチンピラではないんだよ。あなたたちは SF ファンダムを捨てたくせに、まだ SF ファンダムででかいつらをしてた時代が忘れられないようだね。でも、あの頃とはもう何もかも変わってるんだ。ぼくも、あの問題の文を書いたとき、ちょっとそれを忘れていたかもしれない。ふと 「科学魔界」 や 「ローラリアス」 や 「うん」 や 「すん」 時代の気分になっていたかもしれない。ええ、あの頃は楽しかったわね。でもいまの、そしてこの先のぼくは、残念ながらあの頃のぼくじゃないのね。ぼくもあの頃に戻りたい気持ちはあるけど、でもほんとに残念だけど、もう時代は変わってるの。

 この二人は、内容の面でも、理論の面でも、ポピュラリティの面でも、今後物書きとして今以上に極端に大きく成長することはないとぼくは思っている。小谷・巽ブランドだけで売れる市場って、たぶん 5,000 人弱くらいかしらね。あとはアカデミズムのご威光と政治力と「フェミニズム」とかの限定業界でもう 1,000 人くらい稼ぐ感じだろう。それもじり貧。『聖母エバゲ』はエバゲのおかげで売れたんだから、誤解しちゃダメよ。

 一方のぼくはいまは、たぶんこの二人より商品としてちょっと弱いだろう。山形ブランドだけで売れるマーケットって、たぶん 3,000 人弱ってところじゃないかな。でも、今後 (おそらく 3 年以内に) これを 3 万にまでもっていくことは可能だ。瞬間最大風速ではもっといくよ。ぼくの現在価値の 90% は PVGO なんだ。ぼくは、あなたたちの小さなシマはだいたいわかってる。この 10 年、まったくと言っていいほど変わってないものね。でもあなたたちは、ぼくの守備範囲の全貌なんか想像すらつかない。言っただろう、昔のぼくじゃないんだって。そしてぼくは、今後ことあるごとにこの裁判をネタにできる。さて、どういう形でやろうかな。いい、ぼくの強みは、守備範囲が広いことだけじゃなくて、ぜんぜんちがう分野をクロスオーバーさせられることもあるんだよ (ちなみに永瀬さん、お見合いのお釣り書きじゃあるまいし、ぼくの学歴や勤め先は物書きとしてはなんの売り物にもならないんですよ。あまりみっともない劣等感をむきだしにしなさんな。ぼくは三流大出身の無職貧乏人でもあまり差別しませんからご安心を)。ぼくはどんな分野にでもこの話題をつっこめるんだよ。

 あなたがたはぼくの数分の一以下という小さな影響力で、しかも PVGO ゼロで、この先のぼくと張り合う気なの? 本気で? あなたたちの出入りしてる世界で、物書きとしてぼくが入れないところといえば、『三田文学』(あの噂がホントなら特にね(笑))くらいなのよ。何が起こるか想像くらいはつかない? こわいと思わない? 後悔しない? こりゃ相手がまずいと思わない? うふふふ、ダメでしょうね。それだけの想像力があれば、そもそもこんな裁判は起こすまいから。いや逆に、そうやってぼくのマーケットにたかる手はあるかもね。それはそれで賢いかもしれない。でも、そこまで考えてるとは思えないな。なぜかって? あなたたちはマーケットという考え方をしたことがないから。読者ってものを真面目に考えたことがないから。そうでなきゃ、『翻訳の世界』に重箱の隅みたいな文学史なんか連載できるわけないもん。翻訳者志望の人たちにあれを読んでどうしろと言うわけ?

 あなたたちはすでにいくつか、大きな戦術上のミスをやっちゃってる。そもそも裁判って何だと思ってたの? 裁判すれば天網恢々、あなたたちの言い分 (だけ) をみんながきいてくれて、卑劣なぼくたちに法と社会の鉄槌が下るであらふ、というようなロマンチックなことを考えていた……わけでは (まさか) ないわよね? 何をどう実現しようと思った? それをきちんと考えてないから、まず最初のところでぼくだけでなく出版社とさらには販売元までいっしょくたに訴えるという戦術的な大ポカをしちゃってる。ぼく一人を訴えれば、ぼくは資金的にも精神的にもいまよりずっとつらい立場になってて、あなたたちはもっとずっと有利にことを運べたかもしれないのに。唯一この戦術に意味があるとすれば、本気で賠償金を山ほどむしりとる気なら、相手はでかいほうがいいんだけど、でも相場ってもんはあるし、そもそもあなたたちがお金目当てとは思えないからねえ。どうせ 「坊主憎けりゃ」 てなもんで、あと先考えずに関係者をまとめて攻撃したんでしょ。だめよ、そんなんじゃ。

 そして長期的な方針をたてないうちに、ギャラリーを増やして話をでかくしちゃったよね。これであなたたちは、自ら退路を断ってしまった。もう引っ込みつかないでしょう。かわいそうに。でも、しばらくしたら必ずどっかで収拾がつかなくなって、是が非でもおりるしかなくなる。「あんなチンピラ、相手にしてられない」 という捨てぜりふを吐いて。それとも、女性差別的な社会のせいにするのかしら? でもそのときたぶん、その捨てぜりふはなんの説得力も持たずに、まけおしみにしか聞こえないでしょうね。かわいそうに。ぼくにはそこまで見えるのよ。そのときのあなたたちの表情まで。

 そして、ゴング(判決)がきたらどうするの? 結果はたぶんあなたたちにとってすごく不満なものにしかならないと思うよ。この種の裁判の判決の相場はご自分の弁護士さん (この弁護士さんたち (3人もいるんだ) には心から同情している。落としどころが見えなくてさぞたいへんでしょう。常識的な線で押せるぼくのほうの弁護士さんの比ではないはず。お察しします。300万円じゃ足が出ちゃうんじゃないですか?) から聞いてるでしょ? そしたらその振り上げた拳をどうするの? しかもそれは、来年のどこかで確実にやってくるのよ。あなたたちには、何が見えてるのかしら? ぼくにはそれも見当がだいたいつく。カッカしてるだけで、そもそも見ることすら忘れてるでしょ。なにも考えてないでしょ。万が一負けた場合 (たぶんこれはないだろうけど、でも絶対ないとはいえない) のコンティンジェシー・プランとかも一切想定してない。どうやってもとをとるの? ぼくには、その先のあなたたちの末路さえなんとなくわかるんだ。かわいそうだからその先のことは、こないだ湯島で天神様にお祈りしておいてあげたけれど、これが天神様にどうにかできる話なのか、ぼくはイマイチ自信がない。高天原でしかるべき筋 (だれかな) に話は通してもらえるといいわね。

 ほんとうに、あなたたちはどうするのかしらね。この裁判をネタに本でも書く、という手があるかもしれない。それで一年くらいは喰いつなげるかな。でもそれなら急いだ方がいい。ぼくはもうすぐ、この裁判の論点をなんらかの形でまとめて公開しようと思ってる。それが出たら、そんな本の商品価値は出る前になくなっちゃうよ。とはいえ、判決が出るとかするまでは、そんな本のまとめようもないだろうけどね。紙メディアは融通がきかなくて不便なんだ。

 あなたたちをここまで追い込むつもりはなかったの。そもそも軽い冗談だったんだもの。でもあなたたちは怒りのあまり、自分が追い込まれていることさえまだ理解できていないみたい。そして自分の主張の矛盾も、そしてそれが自分自身をさらに窮地に追い込んでることすらわかんないようね。そこまで怒らせるなんて、ずいぶん罪作りなものを書いちゃったな、と後悔はしてるの。すまないな、とも思ってる。ごめんね。あなたたちがそんなに気にしてるとは知らなかったものだから。だからこそ、本のページはさしかえたし、和解条件もだした。でも、あんまり無茶な要求には応じられないのよ。『オルタカルチャー』ってそんな超ベストセラーではないんだから、影響力も限られてるし、それ相応の対応しかできないの。ね? 賠償金 3300 万円に、あらゆる全国紙ぶちぬき謝罪広告なんて、ちょっと話をでかくしすぎているとは思わない?

 この件であなたたちがやってる、とっても政治的な各種動きも耳に入ってるし、あのつまらないアンケートも見たわ。あんなアンケート、裁判にだしても無駄よ。論点がちがうし、アンケート設計がなってないし、サンプリングも偏ってるし、一撃でつぶせる。小谷さん、あなたはまがりなりにも理系なんでしょ。まともな標本抽出や検定方法くらい教えてあげたらどう? そういう小細工はどれもむしろ、中長期的にはあなたたちに不利に機能しているのよ。一度、落ち着いて法廷闘争の外の全体的な構図を考えてごらんよ。その中で自分たちのおかれてる立場を考えてごらんなさいよ。ぼくがまちがってること言ってる? ぼくがあなたたちなら、そろそろきれいな花道づくりを考えるな。ぼくだってそれに協力するのはやぶさかじゃないよ。あなたたちがいまたくらんでることって、玉砕コースだもん。ぼくはお二人に特に恨みがあるわけじゃない。あなたたちがこねるくだらない文芸ヒョーロンもどきの理屈は嫌いだけれど、だからってあなたたちが必要以上に物笑いの種になるのを敢えて見たいわけではないもの。でも、どうしてもその道を突っ走る気なら、泥沼にはまりたいなら、止めはしないし、その過程でふりかかる火の粉も泥も払う。身代わりに玉砕してあげるつもりはありませんからね。

 とはいえ、こう書いてしまうことで、あなたがたの頭に血がますますのぼることも、まあ予想はつく。これ自体が名誉毀損だとのたまったりもするんでしょうね。すなおに読んでくれるわけないから、ぼくがここにこういうことを書いたせいで、かえってそれを理解してもらえるのが遅れるという事態も発生するな。するとあーしてこーしてこーなって……結局はそうなるしかないのか。 「それが絡新婦の理ですもの」 というわけね。ただね、ぼくはほぼいつだってすなおにストレートに書いてるのよ。変な小技は使わないし、重箱の隅で言い逃れようともしない。カンにさわる書き方はしても、自分にとって都合の悪いところだって認めるし、できるだけフェアではあろうとしてる。「いくつも嘘は吐いたけれども、常に気持ちには正直だったのだから」(織作茜)。いつかそれが少しはつたわるといいのだけれど。それであなたたちが、なんとかこの泥沼から抜け出してくれるといいのだけれど。それがぼくのせめてもの蜘蛛の糸。途中で切ったりしないから、のぼっておいでよ。ダメだろうなぁ。

 あらためてごめんね。こんなことがなければ、ぼくが変な茶々を入れなければ、その小さなせまい世界で、無益とはいえ人畜無害につつましく平和に生きていけたのにね。あの文を書いたとき、ぼくはあなたたちが、つつき方次第ではひょっとしたら有益な活動だってしてくれるかもしれないという期待は持っていたの。でも期待が重すぎたみたいね。負担をかけすぎたみたいね。それともつつき方が悪かったのかしら。わからない。ごめんなさいね。ただ、もう後戻りはしてくれそうにないけど、でもちょっとプライドを捨てれば、そういう道もあるのよ。いまならぼくを一気に罵倒して 「こんなヤツを相手にしてても無意味だ」 と逃げても、かっこうはつくわよ。まだ間に合う。まだ引き返せる。まだあの世界に戻れる。でももちろん、あなたたちはそういう面子を捨てられる人じゃなかったわね。ましてこう書かれてしまった後では。あなたたちはもう、そうやってその暗い行き止まりの道を行くしかないんだよね。たった二人きりで。かわいそうに。かわいそうに。ほんとにごめんね。

 じゃ、また裁判所でお目にかかろう。でも、もうあと何回、いつまで続くんだろうか。もう半年以上。ぼくはそろそろ飽きてきたよ。裁判そのものにも、あなたたちにも、そしておとなしくしていることにも。  (1998.10.03)

■◇■◇■◇■◇■◇■◇■◇■

Note: 魔界だのすんだの懐かしい名前も出たことだし、ちょっと思い出してもらおうか。ぼくはあの山野浩一、山田和子の NW-SF 路線の末裔のはしくれなんだよ。おぼえてる? もちろん、あの二人とは理論的なアレもちがうし、スタイルもちがう。山野浩一は1970〜80年代のあの時代にのみ意義を持っていた面が大きい理論家だし、山田和子は理論も翻訳もイマイチ。ごめんなさい、でもそうなんだもの。その意味では、ぼくは何も受け継いでいないんだけれど、ただ「いつも直球どまんなかの剛速球で真っ正面から勝負する」という態度はかれらから習った部分が大きいと思うんだ。少なくともぼくはそのつもり。山野浩一の文も人をよく怒らせてたっけ。でも、それは必要なことなんだ。

 もちろんそういう文しか書けなかった山野浩一たちとはちがって、ぼくは裏の意味をたっぷりのっけた老獪な文や、表向きに書いてあることとはまったくちがった目的をもったいやらしい文もほいほい書けてしまう。だから信用ならないんだけど、でも今回の裁判はぼくにとって、そこまで手間をかけるほどの価値はないんだ。奥行きがないうすっぺらな話だから、裏糸を張ろうとしても張る場所がないのよ。まあこう言っても信じちゃもらえないだろうけど。


[こ-027]コンピュータ

 小谷真理のさしかえ用原稿。

あと、おまけで、カート・コバーンの山形式オルタナティブ版:

[か-014] カート・コバーン(kurt cobain)

 90 年代ロックを代表するバンド、ニルヴァーナのヴォーカリスト、ギタリスト&メイン・ソングライター。94 年自殺。オルタナティブ・ロックの神であり、オルタナ系のコンサート会場で彼を少しでも悪く言おうものなら、腕の 3、4 本ではすまないし、一曲でもニルヴァーナを知っていれば全世界どこへいってもきみには居場所がある。プラハでも香港でもニューデリーでも。
 アル・ジュルゲンスン(ミニストリー)やトレント・レズナー(NIN)の過剰とテクノロジーを基調とするロックに対し、ニルヴァーナ&カート・コバーンは絶妙なバランスを最大の特徴とする。代表アルバム Nevermind 収録の曲はすべて意味が崩壊寸前の歌詞、ことばの響き、うたいかた、曲、ひずみなど、すべてが信じがたいバランスを保っている。代表曲 "Smells like Teen Spirit" はその代表。オルタナ系音楽最大のキーワードが angst(知らなきゃ辞書引け!)だが、その危ういバランスの中から疲れきった叫びとともに発せられる angst ほどぼくたちの「いま」を代弁してくれるものはなかった。Angstを「表現」するんじゃない。Angst driven ―― Angst に駆動されているのだ。それがいかに深くリアルなものだったかは、マイケル・ジャクソンに対してはあれほど有効に機能したアル・ヤンコビックのパロディや茶化しが、まるで通用しなかったことからもわかるし、かれの死にざまを見ても明らかだ。
 露骨にニルヴァーナを(頭で)模倣している Bush をはじめ、ニルヴァーナ(そしてカート・コバーン)の影響なしには、もはやいまのロックは考えられない。クランベリーズも歌っている。「カート・コバーンはどうしたろう/あの人の贈り物はいつまでも残り続けるだろうけれど/あなたはいまどこへ行ってしまったのか」。あるいはオアシスの Live Forever のビデオに登場する、泣き叫ぶようなカート・コバーンの写真。
 その angst は、世界のいたるところにある。もちろん日本にも。でもここらへんでは、それはエバゲごときで慰撫できるほどヤワなんだと思われてるらしい。おまえたちの持つ angst はそんな軽々しいものなのか。ラストでちょっと甘い顔されると舞い上がっちゃうほどいい加減なもんなのか。ネガティブなグランジ(それに対してポジティブなベック)とかいう言いぐさもぼくは信用しない。 Angst は angstであり、それはポジティブでもネガティブでもないのだ。それはいまここで、われわれのすべてが抱えているものだ。それが真に「オルタナティブ」なものすべての根底にある。そして繰り返すが、カート・コバーンはそのオルタナティブの神、なのである。


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