(別冊宝島Real (043)『まれにみるバカ女』2003 年 2 月 pp. 124-127)
山形浩生
要約: 竹内久美子は進化をネタに下ネタを展開する才能はあるんだが、それだけで終わっており、またその下ネタが思いつきにとどまっていて何ら啓蒙的な役割を果たしていない。そして、下品なだけのネタがユーモラスなつもりでいるのがなおさら痛い。
竹内久美子。一応この人は、生物学のなにやらセックス系のネタに、思いつきだけでこじつけにもなっていないような生物学的「説明」をつけるだけの代物をひたすら垂れ流し続ける、とても困った恥ずかしい人だ。
この人の書くもののトンデモぶりについては、本家と学会もイヂって遊んでいる。また、『シンメトリーな男』の支離滅裂さ加減については、みやのさんという方の詳しいレビューを見てもらおう。みやのさんは別に、進化論をきちんと勉強したわけでもないし、科学者でもない。それでも、ごく常識的に考えただけでおかしい箇所が山のように指摘されている。
もったいない話ではある。彼女の文は、既存の各種学説の紹介や、あちこちに出てきた論文の紹介に費やされている部分も多い。そこの部分は、結構よく書けているからだ。初期の『浮気人類進化論』でも『そんなバカな!』でも、ハミルトンやらメイナード=スミスやらの学説を紹介しているところは、結構手際もいいし、ツボをおさえた簡潔な説明をしてくれる。同じく遺伝生物学の一般向け著作で知られる長谷川眞理子の、生真面目で正確で好感は持てるものの、優等生的で面白みに欠ける説明に比べると、多少勇み足のところもあるけれどずっと読ませる。
が、常に問題はその後だ。論文の紹介の後に、彼女は必ずその理論や学説を実に恣意的に人間の身近な(または時事的な)下ネタ関連の行動に結びつけた、勝手な「解釈」をくっつける。そしてその「解釈」はいつも、あまりに粗雑だ。みやのさんにばかり議論を任せるのもアレなので例をあげると、たとえば『男と女の進化論』で彼女は、なぜ背の高い男がもてるのか、というのに対して、背が高いほうが遠くが見えたり早く走れたりして狩りに有利で、だから生存に有利、だから背の高い男に惹かれる女が生き残ってきたのだ、という珍説を述べている。背が高けりゃ逆に目立って肉食獣に捕まりやすくもなるだろう。身体が大きくなってエネルギー効率的にも悪くなるだろうに。一瞬でこの程度の疑問は湧いてくる。扱うトピックは必ず現状肯定。進化生物学批判に、ありとあらゆるものが「それは進化上の適応だ」ですまされて、現状肯定のイデオロギーに使われるだけだ、というものがある。竹内はその典型だ。彼女を読みかじったとおぼしき下半身のだらしない芸能人が「浮気は文化」と口走ったのは、もう旧聞に属するかな。
さらに、彼女はそれをやるにあたり、必ずしもそのもとの論文や学説をきちんと援用しない。だからその部分は、メインの論文紹介や学説紹介を手助けするようなアナロジーになっていない。そしてそのために、論文紹介の部分まで、本当に適切な紹介になっているのかうさんくさく思えてくるのだ。結果的に、彼女は自分自身の信用をも引き下げてしまっている。最近彼女は、イェール大学から出ている進化生物学関連のモノグラフの翻訳を始めた。これは結構おもしろいシリーズではあるのだけれど、竹内久美子が関わっているというだけで多くの人はまともなものだとは思わないだろう。メイナード=スミスのやつのあとがきを読んでも、メイナード=スミスを「黄門さま」呼ばわりして、見当違いのヨイショをしているだけだ。学者の理論上の指向と政治的な指向に相関がある、という指摘がそんなにえらいか。
それでも初期の本はまだよかった。まともな学者の学説紹介が分量的にはメインで、竹内のトンデモ妄想も分量は抑えられていた(とはいえ、『浮気人類進化論』においても、タイトルからもわかるとおり文としての力点は竹内のトンデモ妄想部分におかれてしまっている)。ところが最近になると、トンデモ妄想の暴走が先にあり、それを勝手な論文のつまみ食いでもっともらしく飾ってみせる(が議論的には補強しない)ものばかりとなってくる。
伝え聞くところによれば、彼女は自分のこうした著作に対するバッシングにかなり落ち込んでいたそうな。もちろんこの話は割り引いて聴く必要があるだろう。だって落ち込んでるなら、この人が機関銃のように量産するこの駄文の洪水はいったい何? だいたいなんで落ち込むの? こんなの書いて、どうして叩かれないと思うのかね。
ところがこの人は、救われないことに本当にバッシングが不当だと思っていたらしい。なぜか? 彼女は自分の下品なトンデモ妄想を、なにやら高度なジョークだと思っていたからなのだ。
それを竹内がはっきりと述べているのが師匠格の日高敏隆との対談集『もっとウソを!』だ。
ぼくは日高がどうして竹内なんかをひいきにするのかはわからない。が、まあそれはいい。この本は要するに、竹内の各種トンデモな物言いは「ウソ」なのだと言っているわけだ日高はこの対談の中で、竹内をバッシングする連中は冗談のわからんやつだ、と擁護する。竹内はそれに賛同して、自分の書くものについて「シュテュムプケ流の高度なジョークとして楽しんでほしい」とのたまうのである。
ハラルド・シュテュムプケ。傑作『鼻行類』を書いた生物学者で、マイルウィリのハイアイアイ・ダーウィン研究所博物館に所属していた人物だ。ハイアイアイ群島の沈没により、すでに他界されているのが惜しまれる。かれのは荒俣宏が名著『理科系の文学誌』で紹介したことで、一挙に有名になったすばらしい本だ。ある詩人のナンセンス詩をヒントにして、この人は鼻で歩く生物目をまるごとでっちあげてしまった。鼻で歩くナソベーム。鼻水で釣りをしたり、ジャンプしたり、鼻で花の擬態をしたりする動物たち。それが詳細な論文形式でしかつめらしく書かれている様は爆笑ものだ。
この人の書いたものには、学問的におかしいところはまったくない(まあ……ほとんど。本気で鼻で歩く動物が学問的におかしくないかと言われると、ちょっと自信がない)。つっこめるところもない。奇想天外ぶりはすさまじく、さらに一発の思いつきをここまではてしなく(しかも体系的に!)発展させた力量はひたすら脱帽だ。そしてこれは、社会批評にもなっている。この鼻行類(そして著者シュテュムプケ)のいたハイアイアイ群島は沈没秘密の核実験で破壊された。それは反核と、そして人間の生物抹殺に対する、ちょっとした批判にもなっている。かれのは、本当に高度なジョークだ。
で、竹内久美子のやつが、これに匹敵するジョーク、だと。いやそれこそお笑いだ。学問的には、トンデモ丸出し。いたるところ、突っ込みどころ満載(悪い意味で)。とれる笑いは、せいぜいが下ネタの下品な笑いで、それも強引すぎて無理があるものばかり。さらに批評性もまったくなく、だらしない現状肯定が延々と続くだけ。こんなもののどこをどう読むと、シュテュムプケ流の高度なジョークだなどと言えるんでしょうか?
「高度な」ジョークであるなら、だれも文句は言わないのだ。みてごらん、だれかがシュテュムプケの本に対してつっこみを入れたりしている? あるいは前出の『理科系の文学誌』は結構飛躍した、どこまで本気かわからないような議論が頻出する。でもそれがトンデモだとはだれも言わなかった。それはその飛躍が、それなりの論理性を持っていて、きちんと考え抜かれていたからだ。それに対して多くの人が竹内に石を投げているのは、それが低級でギャグにもなってないシロモノだから、なのだ。だいたいジョークなら、「ジョークがうけない」と泣き言を言ったりするな。
結局彼女の書くものは、下ネタばかりで理屈も緩いし説得力もない。いまや彼女の存在意義というのは、女の学者なのに下ネタをやる、というそれだけのことだ。そしてそれを批判されると、実はジョークでした、と逃げる。笑えない下ネタのジョークって、要するにいわゆるオヤジギャグかよ。もうぼくは、この人のやることは一切信用しない。というかできない。『男と女の進化論』で、竹内は自分にしわが増えておばさんになることを心配してみせる。だが、心配ご無用。あなたはおばさんどころじゃないもの。永六輔は男のおばさんと言われたけれど、竹内久美子は女のオヤジと呼んであげよう。
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