まずは若干の言い訳から。この文章を書きかけている途中に、タイミング悪く谷田和一郎『立花隆先生、かなりヘンですよ』(洋泉社)という本が出てしまったのであるよ。
この本はとってもよく書けている。よくぞやってくれました、わが無教養な後輩よ。できがよすぎて、ぼくが追加で書くことはほとんど残されていないくらいだ。ぼくが今回もらったお題は、特に立花隆のITがらみの妄言をつつくことだった。でも、それについては谷田がかなり徹底的にやってしまっている。
すばらしい。ちょっとデータを見てみれば、世の中まだまだ二次産業の泥臭いモノづくり従事者が主流だし、生産額を見たってモノが主流だ。しかも谷田はその批判を『日本国勢図会』といういちばんお手軽なデータ集だけであっさりこなしている。これもなかなか小気味いい。そしてこの本でとってもいいのが、そのITがらみのトンデモぶりを、立花発言全体に流れるニューエージオカルト的な人類進化思想みたいなのと結びつけたところ。これはぼくも認識していなかった。脱帽。
ぼくとしてこれに付け加えることはほとんどない。ただし一つだけ、谷田が不十分だなと思うことがある。それは、実は立花のITがらみの議論というものが、ほとんどかれの独創なんかではないという点をあまりついていないことだ。谷田は、立花のインターネットがらみの大風呂敷が、かれの独創だと思っている。ネットによる情報革命が人類進化だの文明の新段階だの言うのが、立花くらいだと思っているようだ。でもそうじゃない。立花のあげているいろんな説には、ネタがある。そのネタもとは立花発言よりも周到だったりする。かれの発言のまずいところ、谷田が叩いているところというのは、実は立花がパクるときにうろ覚えでやった部分、だったりするんだ。
そのネタの一つはもちろん立花自身も挙げている、トンデモ・ガイアニューエージ・ハイテクヒッピー自画自賛書ラッセル『グローバル・ブレイン』だ(だいたいこの本は訳者の名前を見た瞬間に即座に警戒すべき本なんだが)。でももう一つ立花のあげていない大者がいる。アルヴィン・トフラーの『第三の波』だ。
トフラーは、とっても商売上手な人だ。その時々で、うまーく時代のはやりをとらえて、それをキャッチーにまとめる才能を持っている。センセーショナルな書き方はするから話題にはなる。ここらへんは、もと『フォーチュン』誌編集長だった頃の、深い知識はないビジネスマン向けの煽り方を熟知したやり方だ。けれど、厳密な検証に耐えるような形での理論は出さないので、まともな学者に学問的に相手にはしてもらえない。そしてそれゆえに、手っ取り早い答えだけがほしいビジネスマン相手にかなり眉唾なことを言いつつも、派手に叩かれずにすんでいる。そして五年ごとくらいに、でかい花火をうちあげては、すぐに忘れられていく。谷田は一九七六年生まれだから、かれが高校から大学にいる期間では、トフラーはまったく話題になっていなかった。かれが知らないのも無理はないだろう。
1970 年には『未来の衝撃』、1975 年には『エコスパスム』、1980 年には『第三の波』、1985 年には『未来適応企業』、1990 年には『パワーシフト』、1993 年に『戦争と平和』。その時々には、ガーッと話題になる。ぼくが新入社員だった頃には、ねこも杓子も『パワーシフト』だった。それがいまじゃ、ブックオフの百円コーナーにゴロゴロしている。
そしてその中でかれの最大の主著と言っていいのが『第三の波』だろう。これも、新刊でなんか買う必要はまったくない。古本屋に腐るほど転がっているから。それに、立ち読みだって十分だ。トフラーの議論はとっても簡単だ。農業革命(第一の波)があり、工業革命(第二の波)があり、そしていま情報革命の波が人類に押し寄せている――トフラーはそう論じている。
「新しい文明の黎明。それは、われわれの生涯の唯一最大の爆発的な事実である。 それは核心的な出来事であり、われわれが直面する未来を理解するためのカギである。それは、一万年前の農業の発明とともに起こった第一の波と同じほど重大な、産業革命とともに始まった地を揺るがすような第二の波と同じほど、深い意味を持つ事件である。われわれは、この次代の変容、第三の波の子供なのである。」(『第三の波』二六ページ)
さてこれと、立花のこんな発言を対比させてみよう。
「農業革命、産業革命、情報革命と並べるくらいの人類史的大変化がおきてると考えたほうがいいんじゃないかと思います。」
どうだい。言っていることも、その大風呂敷もそっくりだろう(トフラーのほうが風呂敷はすごいな)。ちがうのは、トフラーのほうは一九八〇年の発言なのに対して、立花のほうは一九九六年の発言だということくらい。谷田は、「人類史レベルの進化をもたらす」とまで大風呂敷を広げたのは立花氏くらいしか見あたらない」と書くけれど、実はその先鞭はもういまから 20 年も前についていたわけだ。
「第三の波は、あらゆる人の足元をすくう。家族を引き裂き、経済を揺り動かし、政治制度を麻痺させ、われわれの価値体系をめちゃめちゃにするだろう。それは古くさい権力機構にぶちあたり、今日すでに揺らぎつつあるエリートの特権と特典を危うくし、あすの権力闘争のための舞台をしつらえる。
(中略)
第三の波は、完全に一新された生活様式をつくる。その基礎になるのは、多用かつ再生可能なエネルギー源であり、現代の流れ作業産業のほとんどを不用(ママ)にする生産手段であり、新しい非核家族、『エレクトロニクス住宅』とでも呼ばれるであろう新生活であり、現代とはまるで違う学校や企業である。この新文明はわれわれのために新しい行動規範をつくり、標準化、同時化、中央集権化などを越え、エネルギーと富と権力の集中を過去のものにしてしまう。
古い文明は挑戦を受け、官僚機構は転覆し、民族国家はもはや主役ではなくなり、脱帝国主義の世界に半自立的な経済を勃興させる。行政機構は簡素に、効果的に、今日よりはるかに民主的にならざるをえない。新しい文明は、独自の世界観と時間、空間、論理を持ち、また因果関係について独自の対応法を備えている。」(『第三の波』27 〜 28 ページ)
わぉう。この最後の「因果関係について独自の対応法」というのがいったい何なのかよくわからないのだけれど(本文を読んでもまるっきしわからん)、なんかすごい。すごくて明らかに大風呂敷すぎて眉唾だ。
そしてその大風呂敷の眉唾ぶりは、谷田が違和感をおぼえている立花隆独自の大風呂敷ぶりと、まったく同じはずだ。立花隆もまた主張していた。インターネットのおかげで、情報公開が進んで政府が電子化されて効率化する、と。情報に基づく新しい空間ができて人々がそこで生きるようになる、と。情報の発信元が分散化して、従来のメディアとはちがう新しい情報発信が可能になる、と。そしてそれによって新しい政治が生まれる、と。そして、古い世界と新しい第三の波にのった人々との間で大闘争が起きる、と。
もちろん、当時のインターネット翼賛論は、大なり小なりこんな話をしていた。立花の議論も、トフラーをどこまで直接引っ張ってきたのかはわからない。でも、基本的な方向性は完全に共有されている。
そして谷田の批判する立花隆のエリート主義。これもトフラーがさんざんあおった図式と同じだ。
「換言すれば、今日の政治のもっとも重要な展開は、第二の波の文明を守るモノと第三の波の文明へ進む者という二大陣営が、われわれの真ん中に生まれたことである。一方は、核家族、公共教育制度、大企業、大労働組合、集権的民族国家、似而非代議制政体といった産業主義大衆社会の中核をなす諸制度の維持に、執拗に取り組んでいる。他方は、現制度の能力的限界に気づき、エネルギー、戦争、貧困から環境破壊や家族制度の崩壊など、もはや産業主義の文明の枠内では解決できない緊急な問題を認識している。(中略)
第二の波と第三の波の大闘争は、階級、政党、年齢層、人種、性別、サブ・カルチャー・グループなどを、ぎざぎざの線で二分する。(中略)意識するしないにかかわらず、われわれはこの大闘争のいずれか一方の兵士として役割を果たす。その役割は、破壊につながるか創造に向かうかの、どちらかである。」(『第三の波』574 〜 578 ページ)
第三の波の兵士は、情報革命に対応した人たち。第二の波の兵士たちは、古い前世紀の遺物にしがみつく人々。さああなたはどっちの兵士になりますか? この煽りかたは立花のこんな煽り方といっしょだ:
「私は日常的にいろいろな人に接していますが、二種類の二元にはっきり分かれつつあると思います。インターネットによる意識革命に対応している人としていない人に」(『インターネット探検』)
「科学技術を使いこなす人たちは、非常にソフィスティケートされた形で社会を支配し、科学技術を使いこなせない人たちは、それなりに幸せに暮らしてはいるけれども実質的な決定権は何もない、そういった形になるんじゃないか」(『立花隆 対話編:宇宙を語る』)
立花の言っていることは、このトフラーの『第三の波』議論そのままだ。この部分も層だし、それ以外のITがらみの主張もほとんどがそうだ。トフラーの本の「情報」とか「通信」の部分を「インターネット」に置き換えれば、立花のインターネット関連の主張はほぼ網羅される。ちがうのは、トフラーはそれをインターネットなど影も形もなかった(一般人的には)1980 年の段階で言えていたこと。それに対して立花隆は、インターネットが出てきた 1990 年代半ばの段階でそれに追従しているにすぎないということだ。
さて、ぼくはアルヴィン・トフラーは嫌いだ。かれのテーマの選び方がいちいち魂胆が見え見えなのもいやだし、さらにその煽り方もいやだ。「ほらほら時代は変わってるぞ、早くしないと乗り遅れるぞ、これまでのやり方は全滅だ、気がつかないヤツはすぐ滅びるぞ」――何を言うにも、かれはこういう論法を使う。またいま読むと、かれの言っていることは結構はずれている。『戦争と平和』は、日本のバブル崩壊に続く長い経済停滞をまったく考えずに議論を展開している。日本こそは第三の波に対応した新しい産業を構築したのだ、というこの本の議論は、いま読むと結構笑える。国内は研究開発機能と、R&D と切り離せない試作工場だけ残すことで、日本の産業は情報財中心となり、というわけ。ちなみにかれの『未来の衝撃』は、1960 年代の経済成長がそのまま続くことを前提としてまったく疑っていない。
でもその一方でトフラーは、そこそこ周到だ。それが立花とは一線を画すところでもある。
たとえば谷田は、立花隆が述べる「いまは情報財が中心だ」「情報産業従事者が圧倒的に多い」といった議論を、具体的な数字を挙げて次々に蹴倒す。すばらしい。でもトフラーはその点、そういうヘマは犯さないのだ。かれが挙げるのは、産業別従事者数ののびだ。第二の波産業に従事する労働者数は、成長が鈍ってきたよ、とトフラーは言う。そしてこれは確かにその通り。二次産業従事者数ののびは、三次産業従事者数ののびに比べれば低い。伸び率で見る限り、情報関係の従事者は、一次や二次産業人口よりも高いのびを示す。
また、情報による製品への付加価値が重視されるようになってきた、という。要するにさ、人が買い物をするときに、単に機能だけとかよりも、デザインとか、話題性とか、本来の機能とは必ずしも関係ないところにお金を払うことが、昔よりは多くなってきている、という話だ。「昔より」の部分に注意。確かに 10 年、20 年前と比べると、そういう部分はあるだろう。また情報そのものについても、百年前に比べたら、人が映画や本やCDやソフトに使うお金は、当然増えているよね。電話代もネット接続代もどんどん増えてきている。その意味で、情報財に使われるお金は、昔よりは確実に増えてはいる。トフラーはだから、そういうものが工業製品よりも急速にのびてきている、という言い方をする。これも、事実ではある。ベースが小さいんだから、成長率が高いのはあたりまえ、と言う批判はできるけれど、でも事実は事実だ。そして、増えているというトレンドがあって、だからこれが将来さらに増えて、もっと大きな影響を及ぼしますよ、という話をする。確実かといえば、そんなことはないけれど(ちなみにトフラーはここでちゃんと予防線を張っている)、絶対まちがっているかどうかは、だれにもわからない。
ところが立花は、このそれぞれについて「増えてきている」という議論を「絶対的に多い」という話にしちゃっている。それは明らかにまちがいなのだ。そしてそこを谷田に的確につっこまれている。生兵法は怪我のもと、というやつかね。どうせ受け売りをするなら、こういう小技まできちんと身につけてからやればいいのに。もちろん、「インターネットはグローバルブレイン」などの著書の多くが、立花の直接書いたものじゃなくて、講演や談話を起こしたものだ、というのはある。そのせいで、多少チェックが甘くなったのかもしれない。が、ゲラで直すでしょう、ふつー。
またトフラーは、大風呂敷トレンドを広げるときには、一応それなりに事例を引いてきて裏付けらしきものは提供する。第二の波と第三の波の衝突、という話だって、あちこちの抗争や紛争を例にひいて、もっともらしい議論を作っている。ところが立花は、それをほとんど思いこみだけでやっちゃう。「これからは人類は二極化するはずだ!」とかね。それをまたいちいちつっこまれることになる。
さらに大風呂敷という話で言うなら、文明の新しい段階とか、人類の新しい進化段階という話は、トフラーの独創でさえない。それは欧米では一貫して存在しているイメージだ。たとえばアーサー・C・クラーク『地球幼年期の終わり』や『二〇〇一年宇宙の旅』を考えてほしい。あれだ。人はいつか、いまの状態から進化して新しい種となる――そして進化して神に近づく――これは欧米の、一つのオブセッションと言っていい。オカルト屋さんの好きな、ティヤール・ド・シャルダンという神学者は、地球の進化について、物質圏、植物圏、動物圏、精神圏(ノウアスフィア、またはヌースフェル)という概念を提出している。地球という石のかたまりがあって(物質圏)それを植物が覆い(植物圏)その植物の上に動物たちが暮らし(動物圏)そしてその動物たちの上に、われわれ精神をもった存在が地球を覆うことで、新しい圏域が形成される。そしてそれがどんどん高まることで、いずれオメガポイント(神様みたいなもの、だと思ってくれ)に到達できる、というのがかれの理屈だった。
あほくさい話ではあるのだけれど、ティヤール・ド・シャルダンは、これを真剣に考えていた。クラークもかなりまじめだ。ラッセル『グローバルブレイン』は、この精神圏をまじめに(オカルトニューエージ自体がどこまでまじめか、という点はここでは考えない)具体化しようとしたものでもある。こういう議論は、荒唐無稽ではあるけれど、そこにはある種の知的伝統がある。立花隆には、それはあまり感じられない。かれも、「宇宙からの帰還」なんかでこの伝統と似たようなことを言う。アメリカのLSDの教祖ティモシー・リアリーは、宇宙に出ることで人間の意識が拡張して、新しい進化をとげるのだ、という理屈を展開していた。『機動戦士ガンダム』のニュータイプ理論、みたいなもんですな。これも、ある意味で欧米にあるこうした知的伝統をベースにした発言ではある。でも、欧米のオカルト屋さんは、人類が進化した先に神様という究極の目的があるのね。立花は、そこまでの方向性が見えていない。なんか新しくなるんじゃないか、という淡い希望を語るだけだ。それはかれがジャーナリスティックに、すぐに具体の話に落としたがるせっかちさも原因かもしれない。そして文化的な蓄積の差もあるのかもしれないね。もちろん、神様なんぞを目指すのがえらいわけじゃない。が、その見通しがないために、立花隆のやることは非常に手当たりしだいで散漫な印象を与えるのは事実だ。
さらに……トフラーのやっていることは、ある意味で悪質な煽りだ。が、こいつがこれを発表したのは 1980 年。書いたのは 1970 年代末ってことになる。すごい。この頃は、インテルがようやく 8080A チップを出して、モトローラが 6800 チップを出して、マイコン革命がこれから、という時代だった。その時期に、それがもたらす社会的なインパクトについて、ここまで大風呂敷を広げたのはすごい。十年以上あとのインターネット狂騒で言われた各種の予想の中で、トフラーが『第三の波』で触れていないものは、ほとんどないに等しい。もっとすごい。その守備範囲の広さは脱帽するしかないし、それが当たらなかったといってだれが責められよう(それにトフラーは、このあたりでもかなり周到に逃げを打っている)。また、トフラーはいつも大きな話をして、細かい具体論は避ける。ところが立花隆は、さんざん風呂敷を広げて、でもその後でやるのは……ホームページ紹介だ。
さて不思議なことに――立花隆は、自分の読書歴に、このトフラーをまったく入れていない。『インターネットはグローバル・ブレイン』『インターネット探検』を見ても、トフラーのトの字も出てこないし、『ぼくはこんな本を読んできた:立花式読書論、読書術、書斎論』や、『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』といったかれの読書歴を書いた本を見ても、トフラーにはまったく触れていないのだよ。なぜだろうね。たとえば谷田がかみついている、熱力学第二法則を知らないのはシェイクスピアを知らないに等しい、という議論のあたりでは、そのネタもとであるC・P・スノーを大々的に持ち上げてヨイショしているのに。
もちろん、ホントに読んでいない可能性はある。トフラーの真似っこや受け売り論者はいっぱいいる。そしてそいつらが相互に引用しあったりしているうちに、トフラーそのものを読まなくてもかれの発言に似たようなミームは、そこらじゅうにのたくっている状況にはなっている。でも、ホントに知らないなら、それはそれで恥ずかしいことだ。立花のインターネットがらみの発言の屋台骨は、トフラーが提供しているといっていいくらいだし、かなり有名な論者でもあるんだから。そして知っていたなら、それはジャーナリストとしての誠実さを欠くことだろう。同時に、そこでトフラー並の周到さも見せず、十五年前からある議論に何の批判的な観点も持たないばかりか、それをさらにグローバルブレイン論とからめて、トンデモな方向に押しやる――これはずいぶんと恥ずかしいことではある。
2001 年秋頃から、ネットのあちこちで見かけるようになった文書がある。地球の人間を百人にしてみたらどうなるか、という話だ。その多くは非白人で、しゃべる言語も英語ではないし、飢えている人もたくさんいて、大学教育を受けた人はたった一人。そして、コンピュータを持っているのも、その百人の中のたった一人。
これが数字として正しいのかは知らない。でも多くの人にとって、IT なんか無縁の世界だというのは事実だ。IT が世界を変えるまでには、まだまだ時間がかかるし、変えられるかどうかもわからん。逆に変な期待が IT にかかっているために、いろんな優先順位がゆがんでいる例さえ見られる。たとえばいま、海外援助の世界では、とにかく IT とつけばなんでもオッケー、みたいな状況が出てきている。電気がなくても i モード、とのたまったどこかの国の首相をご記憶か。でも、多くの援助機関はそれを笑えない。
立花隆流の IT ネット関連の煽り――そしてその本家たるトフラー流の煽り――は、笑い話ですんでいるうちはいいのだけれど、いまそれが、バブルがはじけた後でも、じわじわと実際の世界をむしばみつつある。立花くらい影響力のある人間は、そのことにもっと敏感であってほしいと思うし、この谷田の批判なんかをふまえて、自分のかつての作業を見直すこともやってほしいな、とは思うのだけれど。無理かな、やっぱ。