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たかる社会にたかる人々

山形浩生

 死ぬとか死なないとか口走ったりすることには、たぶんちょっとした冒険気分と快楽と、そして安心感がついてまわるんだろう。ああぼくだって、世の中にはほんとうに、死んだほうがよっぽどましなほど劣悪で悲惨な状況に置かれている人がいるのは知っている。ほんとうにバランスがとれなくて、目をはなしたらすぐに首をくくりかねない人がいるのも知っている。そういう人たちはまた話が別だ。でも今回のぼくの話は(そして今回の別冊宝島がたぶん念頭においているのは)、そういう切実な人たちの話じゃない。むしろそういう切実な人たちに対する社会の反応を見て、それと適当に戯れることでなにか達成感を得ている、そういう人たちの話だ。

 そういう人たちだって、自分ではそれなりに切実なつもりなんだろう。そして本人が切実なつもりである以上、それは切実以外のなにものでもないんだろう。ただぼくには、そういう人たちの一部がいかにもお気楽に見えるし、ときにずいぶん楽しそうだなとまで思えてしまう。死ぬなんて、そんなむずかしいことであるはずがない。どんなバカでもいずれはやることなんだもん。いまは鶴見済のよい本だってあるし、本気ならかなり確実にすっぱり死ねるはずだ。一部の人は明らかに本気じゃないのだ。ぼくが仕事がきつくて「うー、もう死にてぇ〜」とわめくのと同じくらいの感覚でしかものを言っていない。なかにはその戯れさえうまくやれずに、ほんとうに死んじゃう人もいるけれど、それはまあこっけいな事故だ。一種のバカだな。どっかの楽隊の大将とかね。ところでそういう戯れの人と本当の人の間にはっきりした一線があるのか? それはよくわからない。

 で、なぜそういう戯れがなりたつかといえば、それは社会が、死ぬの死なないのという話で大騒ぎするからだ。でも、なぜ世間はそんなことに大騒ぎするんだろう。自殺するといって中間試験だか運動会だかを中止した愚かしい学校があった。だれもが思っただろう。そんなどうしようもないヤツは、さっさと自殺でもなんでもするがいいのだ、と。そんなのでいちいち対策会議なんかしちゃってヘコヘコするから、バカがつけあがるんだ、と。あのとき本当に「人命尊重」なんてことを本気で考えていたやつは、一人もいないはずだ。みんな「ふざけやがって、死にたきゃ死ね」と本気で思っていたはずなんだ。実際に行事を中止したまぬけなPTAどもだって、表向きは人命尊重だのと口走っていたけれど、実際には単にことなかれ主義で自分のケツを守っていただけだ。そんなバカなガキ、死んだっていいじゃないか。なぜそう言えないんだろう。

 というわけで、この文では、とりあえず死ぬっていうことと、それに対する社会の態度についてダラダラと考えてみよう。ダラダラ考えるには理由があって、死ぬっていうのは話しにくい話題なので、さっくりしゃべると抽象的でうそ臭くなってしまうから。そして、それをベースにして、死ぬなとか殺すなとかいう社会の言いぐさについてざくっとふれてみよう。結論はあまり目新しいものじゃない。だって、自殺も社会も大して目新しいものではないんだもの。そしてさらに、そこから自殺を口走る人がなにを(知らず知らずのうちに)想定しているのかを考える。

 その想定からだめ連とかが依存している社会の仕組みというのも見えてくる。こういう症状というのは、ウンコまじめな連中は現代社会の歪みの反映だとかいうバカなことを言うけれどそんなことはなくて、これまた鶴見済が言うようになにかもっと本気で命にかかわることとか、戦争にでもなったら消え失せるだろう。だからそれは、そんなことにかかずりあっていても喰っていけるといういまの社会の豊かさを反映したものでしかなくて、したがって本当は本気で心配する価値なんかないのだ。ただ、それがいつまで続くか、というのは少しは考えてもいいかもしれない。この文章では、そんな話をウダウダとしてゆこう。


1. あなたも死ぬ。


 人はいずれ死ぬ。それはだれでも知っているはずのことなんだけれど、ときどき世の中で物を言ってる連中のなかで、それをきちんと理解しているのは鶴見済をはじめほんのわずかな人たちだけではないかと気がついて、笑っちゃうときがある。

 でも、死ぬってことについて話をするのはとってもむずかしい。これを読んでいるあなたも死ぬ。ぼくもいずれは死ぬ。みんなことばとしては知っている。でも、実際に死ぬってどういうことかわかっているか。自分が死んだ状態というのを想像できるか。ぼくはできない。道ばたで死んでいるネコや鳥をつつきまわしてみたり、あるいはそういうのを自分で実際に殺してみたり、知り合いが死んだりして死体の顔を見たりするけれど、死ぬってことはよくわからない。死体っていうモノはまだなんとなくわかるような気がする。でも、自分が死ぬってことは想像できない。

 それが本気で想像できる人は、当然のことながらこの世にはいなくて、でもみんな、世慣れた顔がしたいからなにかしらきいたふうな口をききたがって、それでなんだか抽象的に「『死』とは云々」とかいう。でもたぶん「死」という名詞を使い始めた時点で、その人の物言いはかなり嘘臭くなっていて、というのもだれも「死」なんてものにお目にかかったことはないからで、実際にいろんな動物を殺してみても、絞めたりするといっしょうけんめい抵抗して死んだかな、死んだかな、と様子をみているうちにはっきりした境界もなく「なんか死んだみたい」という感じで死ぬんだけれど、それはどこからか「死」ってものがヒョイとやってきた感じじゃなくて、「死ぬ」というずるずる続くプロセスになっている。

 死ぬことについてはいろんな神話や伝承があるけれど、どれも死ぬっていうのはなにか、死人の国に向かってゆっくり歩いたり旅したりするイメージがついてまわる。みんな、だんだん死んでゆくプロセスで自分が自分でなくなっていくのがこわいのね。「生・死」というデジタルな感覚でものを言うのは科学くらいで、それすらいまの脳死談義なんかでよくわからなくなってきている。でもこれはちょっと余談。ただそれを「死」というどこからともなくくる別のもののような何かとして考えるやりかたも、いま、ここにあるこの自分が、いずれ意識がなくなってだんだん死んで、活動がとまって腐ってなくなるということから目をそむける手段なんだってことは、まあ理解しておいてもいいんじゃないかと思う。

 そして世間の人が、他人が死んだというお話が大好きなのも、「何人死んだ、こうして死んだ、あんなふうに死んだ」とこまごまつつきまわして、だれにもなんの関係もないことをうれしそうにふりかざしてみせるのも、一つには他人はこうして死んでもそれをこうして読んでいる自分は生きている、という安心感をみんなで共有したいからだ。だからこそ、報道されるのは事故とか自殺とか犯罪とか変わった病気で死んだはなしばかりで、それはなにかある不幸な偶然や手ちがいがないと人は死んだりしないという印象をつくりあげるための手口でもある。毎日自然死している人はいっぱいあるのに、なぜそれが報道されないのか? まあいっぱいいるってのもあるけれど、1つには事故や病気は「注意していれば防げた」とか「医学が発達すれば防げた」、あるいは「めったにないできごとで、ふつうの人には起きない」という暗黙の了解があるからなんだと思う。だから、注意して、医学が発達して、しかもふつうに生きていれば死なない、あたかもそんな妄想を、マスコミなんかはいっしょうけんめいふりまいていることになる。


2. 社会として年寄りを養うこと


 実際問題として、年寄りは自然死だけじゃなくて、自殺もとっても多いんだよ。自殺は高齢になるほど増えていって、日本では50歳以上の人が全体の半分以上を占めている。あたりまえだろう。つぶしもきかないしやることないし、病気がちだし、生きてていてあまりいいことがないのは明白だ。先行きもだいたい見えている。まあ自殺という選択肢も当然出てくるだろう。そしてそれが特に大きな問題ともされていない。年寄りが、その先なにもしないで過ごす5年をはしょったところで、別にだれもそれが極端に悪いことだとは思っていないのだろう。80のじじいがゲートボール会でのいじめを苦に自殺したからって、まあだれも文句はいうまい。いや、たぶんそういうのは腐るほどあるはず。人間、歳をとればとるほど偏狭で頑固でバカになっていくものだし、変なプライドと姑息で陰湿な手口だけはたくさん身につけるようになるし、「いやなやつだがこの先利用できるかもしれないからとりあえずは折れておくか」という計算がはたらく余地もなくなってくるもの。かなり壮絶なんだろうなあ。いずれぼくも身をもって味わうことになるだろうから、あまり考えたくない。

 もちろんそういう「老人いじめ問題」なんてことを問題にしているような人もいるんだろう。でも、小学生あたりが首をくくってくれるのとでは、インパクトがぜんぜんちがう。じいさんばあさんが百人ぐらい集団自決でもしないと、小中学生一人の自殺に対抗できない感じだ。つまり自殺が問題になるのは、もうこの先若い労働力として価値がある人間の場合だけなのね。「死ぬな」と説教したがる連中について、鶴見済が『檻の中のダンス』で「死ぬなって、無理だよ、だって人はいずれ死ぬんだもん。知らないの?」と素敵に皮肉っているけれど、まあその連中だって本気で不老不死を奨励しているわけじゃないんだろう。かれらだって、人が死ぬことは、まあ知識としては知っている。つまり連中が守ろうとしているのは、命そのものなんかじゃない。殺す・死ぬことで消えてしまう、何十年分かの労働と生産力なんだ。

 社会ってのはどこでも、若者の生産力を巻き上げて、そのあがりで年寄りを養うシステムみたいなものだ。経済や社会の本の多くは、あざとい年寄りが書いていたりするので、こういうことをはっきり教えてくれないんだけれど、さいわい『クルーグマン教授の経済入門』(メディアワークス)という身も蓋もないくらい正直な本があって、そこにはこれがきちんと書いてある。税金として集められたお金のほとんどはどこにいっているかというと、年寄りなどを何らかのかたちで養うためのいろんな施策にまわされてる。医療とか、福祉とか。アメリカでもそうだし、ヨーロッパでもそうだし、日本でもそうだ。消費税が導入されたとき(というのもずいぶん昔になるけれど)、それは福祉目的に使うんだよ、というのを言っていたのを覚えているだろう。つまりぼくたちがかせいだ分の少なくとも5%は、年寄りを養うために使われているんだ。実際にはその他にもいろいろ税金ははらっているから、もっとだろう。

 つまり働いている人たちってのは、ずっと社会にたかられているわけ。みんなそれはまあ知ってはいるんだけれど、それでも特に文句はいわないのは、自分がいつか引退してたかる側にまわれるという約束のようなものがあって、まあそれをはげみに(というかふつうはまあそれは、「あなたは貯金しているんですよ」というかたちで偽装されているわけだけれど)人はだまって働き続ける。

 ということは、自殺する人、する・したいと主張する人は、ある意味で「計算をしてみたら、自分はたかられすぎていることがわかりましたので、もうごめんだよ」という主張をしていることになる。そして「もっとたかりたいなら、なんかメリットを増やせ、さもないとこの先あたしが提供するはずだった労働力をすべて消すぞ」と脅していることになる。あるいは、そう脅すことができるという力の行使を楽しんでいるともいえるだろう(これはお気楽な人の話ね)。自分に行使できる最終兵器として。そういうことで社会なり世間なりが困ったような顔をするのが見たいわけ。たぶん個人ごとには、個人なりの切実な理由があるんだとは思う。だけれど、社会の側からすると、それはこういうふうにとらえられている。

 だから社会が自殺をとめようとするのは、この社会が提供するメリットはだれにとっても引き合うものなのだ、というのを否定されては困る、というのがある。そしてもう一つは、ちゃんとたからせてくれる人が減ってしまうのは困る、ということを言っている。だからこそ、若い連中の自殺のほうが、年寄りの自殺よりは大きな問題になる。ちゃんと生きて、労働力を提供してたからせてね、ということ。


3. 社会にたかる人々


 さてこうして社会がきみたちに寄生してたかろうとしていることについては納得できたと思う。きみたちは搾取されているし、これからも搾取され続けるんわけで、だから自殺をおどし道具に使うなら、なるべく若いうちのほうが有効でインパクトも高いということもわかったと思う。自殺を口走る人が増えている(かどうかは実はよくわからないが、少し目立つようにはなってきている)のは、こうした社会の歪みや不正な搾取構造に対する人々の絶望的な異議申し立てなのである……なんてことはたぶんないだろう。

 というのも、左翼っぽい人はあんまり認めたがらないことかもしれないけれど、社会は別に個人を搾取する一方じゃないからだ。これはふつう、人があたりまえだと思っていること(電気が来てるとか、電話が通じてるとか)が実はかなり高い社会的コストをかけて維持されているインフラだってこともあるし、それ以上に、社会そのものが弱者の犠牲でなりたってるわけではない。というか、そういうことをしないために社会ってのがあることは、ちょっと考えればわかるはずなのだ。

 だって、いまの社会は若者から生産力を吸い上げて老人にまわすための仕組みだ、と言ったけれど、考えてみればなぜ社会は年寄りなんかを養うんだろうか。役にたってないじゃん。なにも有意義なことしてないではないの。自衛隊やODAは無駄かもしれないけれど、年寄りを養うのだって無駄じゃないの。

 これに対するはっきりした回答ってのは実はない。役にたたなくなっても養ってあげる――そういう約束でむかし働いてもらったから、というのが一つ。そしてそれをみせておくことで、いまの人たちを働かせようというのがもう一つ。そしてもちろん、社会の力を年寄りが握っていることが多いので、というのがもう一つだろう。ただ、これは年寄りが役にたたないということを否定できるものじゃない。

 というわけで、人間については無駄とか役に立たないとかをあまり問題にしない、というなんとなくの合意があるわけだ。人命なにがなんでも尊重とか、人間の尊厳が、という話というのは、要するにそういうこと。人には死んでも守るべき尊厳があるとか、あるいは死んだらもとも子もないから命をだいじにしましょうとかいう『戦争論』がらみの話があるけれど、尊厳だの人命尊重だのは別に実体があるわけじゃなくて、そういうことにしましょうという人間のおもいつきでしかないわけで、結局は実はどういう形で若い連中が年寄りを養うようにさせようか、という話の裏表でしかない。戦争で死んで年寄り守るのがいいのか、生きて働いて養うのがいいのか。つまりは社会がどういうかたちで若手の労働力にたかろうとするかという、同じ穴の狢みたいな話ではあるのだ。そしてもちろん、どっちがいいかは状況しだい、だよね。ただ、若い頃にはみんな自由を語りたがって、歳をとるにつれて急に態度がかわり、社会もだいじ、滅私奉公しましょうとなるのは、自分がどっちに近い存在かという認識がだんだん変わってくるからなわけだ。大人になるってそういうこと。わかりやすいね。

 似たような議論で、なぜ人を殺しちゃいけないのか、なんて話もある。それは、一つにはみんな自分が殺されたくないから、だからお互いに、おれはおまえを殺さないからおまえもおれを殺しちゃダメよ、というシステムをつくってあるわけ。そしてもう一つは、あまり気軽に楽しく人を殺されると、まず年寄りがその標的になる可能性が高いし、そうでなければ年寄りを養う人が減るし、いずれにしてもまずいじゃないの、ということでもある。

 自殺は、社会が異質なものを排除しようとするナンタラの発現である、なんてことを言う人もいるけれど、こうして考えてみると、たぶんそんなことはありえないのがわかるだろう。気のまわらないところはあるだろうけれど、社会とて異質なものをあっさり排除しようとは思っていないはずなんだ。だって異質なものや役にたたないものをどんどん排除していいことにしちゃうと、いずれそれは、役にたたない年寄りはさっさと始末、という話になっちゃうからだ。社会って、ある程度は互助組織で、ぼくがけがや病気で働けなくなっても助けてね、そのかわりあなたがトラブっても助けたげる、というのが絶対ある。だから役にたたない連中でも、ちゃんとかばって養ってあげますというポーズはどうしても社会がなりたつために必要なんだし、みんな自分がいずれ役立たずの年寄りになるというくらいのことを想像できる程度のイマジネーションは持っている。そういうのをあっさり排除するシステムって、みんな「あ、いずれはあたしの番か」と思うから、あまり長続きしないわけだわな。

 だから、年寄り以外でも、どう考えてもこれは社会のお荷物でしかないなあ、と思われるような人たちも、社会はさりげなく見殺しにしたりはするかもしれないけれど(そしてときどきそれがあまりに露骨なのでもめるけれど)、一応は養ってあげることになる。だめ連の人たちだって、まあだいたいは死なずに生きていられるわけだ。

 だめ連のおもしろさは、自意識過剰な人がとても多くて、そこで自分たちがだめであることがいかにご大層なことであるかを力説することに血道をあげていることだ。自己実現とか、現代社会に対するオルタナティブとか、なんかそういう力こぶの入り方が分不相応でおもしろいなとは思う。そして、そういう力の入れ方で、結局は社会に寄生してたかっている存在であることを見ないようにしているのか、あるいはもともと見えていないのかな。

 世間や社会は、うだつのあがる、はくのつく生き方を押しつけてくるので、つらい。そういうのに影響されて無理を重ねるようなまねはしないようにしましょう、というのがかれらの主張なんだけれど、まあ決定的な誤解をしていると思うのは、べつに世間はそんなことを要求していないってこと。だまってうだつのあがらない生き方をしている人だってたくさんいるわけだし、うだつのあがらない、はくのつかない年寄りだって養うことにしてるんだから。うだつとかハクってのは、やったことの結果のそのまた副作用で、まずそれがメインにくるというかれらの理屈のたてかたを見ていると、ああ受験戦争の弊害ってのはこんなところにも出ているのかなあ、と思わないわけじゃない。


4. たかられないためになにもしない。


 まあ、だめ連の本を見ると、だめ連そのものはかなりいろんなバックグラウンドの人が集まっていて、十把一絡げにどうこう言えるものではないんだけれど、それを持ち上げる側の人たちは、ああ、こうして社会にたかってなにも生み出さずに生きることも可能なのだ、まじめに働くのはばからしい、いやなんかまちがってる、こっちが人間らしい生き方だ、という雰囲気でかれらを見ているようだね。『だめ連宣言』という本を見ると、小倉利丸や上野俊哉がえらくだめ連を持ち上げていて、公共がもっとかれらの活動をしやすくするような施策や環境づくりをしていないといって文句を言ってる。へえ。そうかい。だまってうだつのあがらない生き方をしている人たちをさしおいて、社会的なコストをかけて高等教育を受けたこの人たちに、さらに追加でたからせてあげろというわけか。

 社会的なプレッシャーがいやというのは、いわば社会にたかられたくない、という気分のあらわれで、それは、わからなくはない。特にたかるに値するものをつくれている人が、たかられるのを気にする――それはまあ、仕方ないことかもしれないし、その人の勝手だろう。あまりにたかられまいとする努力が大きすぎて、その「たからせまい」として雇っている弁護士だの会社組織だののほうが、たかる連中よりよっぽどコストの大きい寄生虫なのにな、と思うことがないわけじゃない。でもまあ、その人にとってはそのほうが気分がいいとか、もっと確実なような気がするとか、いろいろその人なりの計算や安心感があるんだろう。

 だめ連をもてはやすような人たちが考えているのは、たかられないために、たかるに値するものを生み出さないようにするという、とてもせこい魂胆なんだ。自殺を口走る人も同じようなもので、だまっていてもたかれそうだと思っている人と、だまっているだけではたからせてくれるかどうかわからないので、自殺を口走っておどしをかけて念を入れていることになる。

 ただおどしはすべてそうだけれど、使いすぎるとだんだん信用がなくなっていって、いずれ実際の行動で裏打ちしなくてはならなくなる。いまは社会が妙に過敏になっているから使える手だけれど、だんだん実は自殺が増えていないことがもっと理解されるようになれば、 これに対する手段としては、なるべく有効な自殺手段をいろいろとりそろえておいて、ああも死ねる、こうも死ねる、というのを明らかにしておくことで、鶴見済の『完全自殺マニュアル』はそういう「やるかはともかく手段だけでもそろってると、なんかもっともらしい」というニーズにうまく応えていたのかもしれない。

 さらにどうだろう。自殺をおどしの手段として口走る人は、更正させても使いものになるのかな。社会としても、今後はそういう計算だってするようになるだろう。社会だってバカじゃないんだから。すると自殺を口走る連中がふりかざす、かれらの将来の生産力ってのはどこまで現実なのかな? それを保全するメリットはあるんだろうか。


5. 高齢化社会では、みんなだまって自殺するだろう。


 だめ連はたぶん将来的に利用できると思う。70代の人間がだめ連に入ったら、受け入れてもらえるかな? どこまで積極的に「交流」させてもらえるのかな。いまのだめ連とかだと、なんか抵抗ありそうな気もするけど不可能ではないはず。こういう組織をうまく利用して、もっと価値をつくり出すように誘導操作したりという手だてはあるはずだ。だめ連にじいさんばあさんを大量に参加させて、交流したり助け合ったりしていただいていろいろサポートを任せるということはできないんだろうか。それはかれらが自分たちでも少しは考えているみたい。「ボランティア集団としてのだめ連」というふうに。それはなかなか前向きで、是非検討してほしいな。時間はある。日本社会だって、すぐにたかり屋さんたちを切り捨てるほどはせっぱつまっていない。ミクロなレベルでも、なんのかのいいつつみんな働いて税金を払うし、ぼくだってフリーソフトの人のはしくれで、しかも共産主義者で、しかも自由主義者なので、だまってやってくれる限り、そしてぼくのやることをじゃましない限り、ある程度はたかられたって文句はいわない。それにまあ、ぜいたく言わないでくれれば大したお金がかかるわけでもないし。

 ただ、これから公共もお金がないしさ、一方的にあれくれこれくれ、権利もほしいしスペースも使わせろといってもなかなかつらくなってはくるのだ。そして年金破綻が去年からずっと問題になってきているだろう。役にたたない年寄りでも(しかもちゃんと働いて年金を積み立ててきた年寄りでも)、そろそろ養ってあげられるかどうかわからなくなってきてる。ましてそれ以外の、養ってもどう見てもメリットのなさそうな人となると……どうなると思う? さらにそこに宮台・鶴見的な自己決定至上主義が入ってきたら? ぼくは自己決定至上主義になっても、なにも困らないし、むしろそれを歓迎する。ぼくは自分の食い扶持も、老後の費用も、そしてそれ以外にみんなにたからせる分も、まあなんとか稼ぎ出すだけの能力を持っているもの。でも、宮台ファンと称する頭の悪そうな子の多くは、ほんとうにそこまで考えているのかなあ。上野俊哉は、アムステルダムを自由でなんでもありですばらしい、すばらしいといってほめたたえる。うん、ぼくもあそこは好きだ。でもなんでも許されるというのは逆に、柳下毅一郎がどこかで書いていたけれど、あなたのことなんか心配しない、面倒も見てやらない、ということでもある。オランダでは、自殺幇助してもいいことになりつつあるそうだ。もう、あなたが生きようが死のうがだれも気にしないというわけ。きみたちは好きなようにしなさい。自殺したい? うん、いいだろう。きみたちはもう、社会になにも貢献しないと決めてるんだし、じゃましないよ。お葬式くらいは最後のサービスで出してあげるかもしれない。

 そうなったとき、自殺を語るなんてことは何の意味もなくなってくるだろう。無気力な人、どうでもいいと思う人はそれなりにいるだろうけれど、それをうれしそうに口走ることにも意味はなくなってくるだろう。社会にたかれなくなった人たちが困っても、「かわいそうだねえ」と言う以上のことは(いやそれすら)だれもしなくなるだろう。そのときその「社会」ってのはいったいなんなんだ、というのは少し疑問ではあるけれど、まあそれは(いまは)考えないでおこう。その「社会」が実際にきはじめるまでにあと十年くらいはかかるだろうし、そしてそれがそのあとでかなり時間をかけて本格化する頃には、ぼくだってめでたくあっさり死んじゃってるだろうから。

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