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思いつきの垂れ流し:香山リカの精神病理

(別冊宝島Real (043)『まれにみるバカ女』2003 年 1 月)

山形浩生



 香山リカについて、「ああ、いるねえ」以上の感想を持てる人というのはあまりいないだろう。何か目覚ましい主張をしたか? いや別に。何かすごい業績をあげたか? 本業のほうは知らないけれど、文筆活動では特にこれと言って思い当たることもない。代表作って何、と言われると、うーん、「サイコのお部屋」かなあ? あちこちで名前は見かけるけれど、印象的なコメントみたいなのも思い浮かばない。特に何かこれというスタンスがあるわけでもない。ある意味で、香山リカの存在意義というのは、精神科医という肩書きと、そういった取り立ててカラーのないあたりさわりのなさだったりする。だが、だれも真面目に見ていないのをいいことに、香山リカの文章はすべて、実にいいかげんな思いつきの垂れ流しでしかない。

 たとえば最近の彼女の『論座』2003年1月号の連載コラム。ノーベル賞の田中耕一の癒し効果をとりあげている。田中耕一は一介の実にさえないリーマン研究者なので、そういう人がえらい賞をとったということでみんなおもしろがっている。それについて香山は、竹中平蔵が金融再生の中で大手銀行まで国有化するかも、と述べたことを挙げて、これが成果主義の累が自分に及ぶかもという恐怖をもたらして、日本人全体に心理的衝撃を与えたことが背景にある、と主張し、だからそこで田中耕一のようなさえないリーマンが注目を集めたことでみんな安心して癒されたのだ、だからメディアはかれの実際の業績についてあまり触れようとしないのだ、と主張する。

 この人は、本当に昨今の経済ニュースについてきちんと見てこういうことを言っているんだろうか。安定していたはずの銀行まで、という衝撃が社会に走ったときは確かにあった。でもそれははるか昔、長銀がつぶれたときだった。いまさら竹中が何か言って、そこに何か追加の衝撃があっただろうか。しかも今の段階(そして香山リカがそれを読んだはずの1ヶ月前)では、それがどこまで実行されるのか、何の確証もなかったのに。いまの時点で、新しいショックは何もなかった。かれの業績をメディアが説明しようとしないのは、それがむずかしいからだろう。ぼくでさえ、それが遺伝子解析に関係あることだというのはぼくも知っているけれど、具体的になんだと言われると説明できないもの。カミオカンデはまだ説明しやすい。

 要するにこの香山リカの文は、まったく中身がない。そもそも「癒し系」なんてのがいい加減なことばで、マスコミは流行っているからというだけでバカの一つ覚えみたいに何にでも「癒し系」をつけるだけだということくらい、だれでも知っているだろうに。あるときは井川遥が癒し系だといい、吉岡美穂が癒し系だと言い、タマちゃんが癒し系だという。そんうわっつらだけを見て「癒し」とかいうことばに反応したところで、何の意味もないのに。「世知辛いご時世に、心温まるお話ですね」というのと、香山リカの文章はまったく変わらない。

 いまの文に限らず、香山リカの文はほとんどすべてワンパターンだ。それはおおむねこんな構成になっている:

  1. 目先の現象を取り上げる。
  2. 思いつきでそれを精神分析っぽい用語か説明で置き換える
  3. 憂慮する(これはオプション)。

 これだけだ。「サイコのお部屋」みたいな悩み相談ものでもそうだし、いま紹介した時評コラムみたいなものでも。ちがいは対象が個人の悩みか社会問題というだけ。そしてそこで情けないのは、その精神分析っぽい用語への置き換えが、ほとんどの場合、何の役割も果たしていないこと。精神分析的な用語に置き換えることで、精神分析的な治療法や分析法が何か適用できるなら意味はあるけれど、それがまったくない。

 人生相談や悩み事相談なら、それでもいいのだ。ある人の悩みに「それはナントカ症候群です」と診断を下してあげるのは、少なくともその人が、自分の悩みは自分一人のものじゃなくて、他にも同じような人がいるんだ、という気休めにはなるから。だから精神分析用語への置き換え自体、それなりに価値があることだと言えなくもない。

 でも、社会現象を前にして、それがナントカ症候群だと言っても、それだけじゃ何の役にもたたないのだ。

 もちろんネタがなくて、そういうあたりさわりのないオチで話をまとめるのは、つまらないし、紙面の無駄ではあるけれど、まあ悪いわけじゃない。ぼくだってそんなにすごい視点を持ったコラムを毎週毎月生産できるわけじゃない。締め切り間際でそういう原稿を書き殴り「あー、クソ原稿ですみませんすみません」と内心で手を合わせながら送信ボタンを押すことはよくある。でも、そればっかりではまずいんじゃない?

 でもこの人はいまや、そればっかりでいいんだと思い始めている。そしてそればっかりでどうしようもない本まで書いてしまっている。

 たとえば最近の「ぷちナショナリズム症候群」。日本に生まれつつある、屈託のないナショナリズムに警鐘を鳴らすはずのこの本は、見事にさっきのパターン通りだ。とりあげられる現象も、目先のものばかり。ワールドカップの熱狂に、日本語ブーム。路上書道、YOSAKOIソーラン祭り。ああ、そういえばそんなのもあったねえ(でもソーラン祭りなんて知らないぞ)。で、いまは? ここでの多くの現象はすでに去った。香山リカがあの本を書いた頃から半年もたっていない現在、いま彼女の「分析」というか思いつきにあてはまるようなぷちナショナリズム症候群はほとんどない。  分析のお粗末さも目を覆いたいほど。いやなことを脇に置いておく『切り離し』とやらが、あるときには過去の歴史と断絶した憲法改正論の説明となり、あるときには過去の歴史とがっちりつながる世襲だの二世議員や二世タレントの増加の説明になるというトホホぶり。そんなんなら何でも言える。エリートは個人投資家化して国の安定を求めるからぷちナショナリズムに走るのは必然という彼女の議論も意味不明。外国に投資してる人は? さらにその根底にあるエディプスコンプレックスの衰退も、「社会的な原因によるのではなく(中略)何かを心の中にコンプレックスとして人格の内部に貯蔵するだけの心の体制が作れなくなったから、という本質的な心の変化が原因」だそうな。ほう、なにかい。社会的な要因とは無関係に、なにやら生物学的な要因で心の働きが変わって、それによってぷちナショナリズムが起きてるわけかい。じゃああんたがやってるみたいに社会の動きを心配してもしょうがないじゃん。

 そして、その分析をもとに彼女が何か提案するか? 何も。憂れいてみせるだけ。じゃあエディプスがどうしたとか、『切り離し』がどうとかいうご託には、一体何の意味があったのやら。さらに香山リカは、右傾化を憂いてみせるというポーズが過去数十年にわたりずっと進歩的な知識人たちの紋切り型だったことを認識してるのか。その昔、中曽根政権の頃に「気分のファシズム」なんてことを言ってそれを批判した人がいた。彼女が言っていることは、それと悲しいくらいに同じだ。日本におけるナショナリズムという話では、つい先日小熊英二の大著『<民主>と<愛国>』が出た。すごい本だ。もちろんこの水準をたかが新書に要求する気はないけれど、テーマか、分析か、提言において何らかの新しさを持たない書物の存在意義って何なの?

 もちろん、そういう新しさ皆無の本だってあっていいだろう。いろんなことに口から出まかせのいい加減な「コメント」を出すことに、実害はない。ないけれど、それで人からバカと呼ばれずにすむと思ったらおおまちがいだ。

 香山リカの困ったところは、結局彼女自身に何も主張がないことにある。彼女自身が自分の思索を展開しようとした本もある。でもその代表例の「自転車旅行主義」は、結局のところ、自分の悩みをうじうじつつきまわすだけ。それを現代思想チックに、こむずかしく言い換えてみるけれど、それが収集つかずに、自転車談義でごまかされるだけ。それを読むうちにだんだんわかってくる。たぶんこの人は、「自転車旅行主義」に書いたようなことだって、別に切実に思っているわけじゃないのだ。なんとなくそういうことを言ってみる自分とか、考えてみる自分とか、そういうのを視界の片隅にとらえて悦に入っているだけ。自分を自分の分析のまな板に載せてみるといいのに。彼女のやりたいことは本当にこんな、思いつきの垂れ流しだけなんだろうか。

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