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宝島系の雑文インデックス


 最初に『宝島』に書いたのは、柳下毅一郎せんせえの引きがあって、ドラッグ特集とかでいろいろクスリについて書いたとき。あと、山形の唯一の小説(もどき)ってのも、ここで書いたんだけれど。タイ人の女の子が臓器を売って、人工臓器の放熱器が脇腹にあってそれで水商売すんの。さいばぁぱんくぅ。おーぼえはあまりうるわしくなかったようで、その後は音沙汰なし。

 別冊宝島に書くようになったのは、それとはまったく別の系列で、もともと翻訳で P・J・オロークとジェームズ・ブラウンのときに仕事をさせてくれた井野さんがこっちに移ったから。毎回思うんだけれど、ぼくの書くのはやっぱ頭でっかちで、別冊宝島のほかの文のもってる、現場のにおいがプンプンするような具体性に欠けてるから浮いてる。


香山リカ:思いつきの垂れ流し(別冊宝島 Real 43 『まれに見るバカ女』2003 年 02 月pp.120-123)

 特に見識があるわけでもない社会現象に、アドホックに精神分析の用語をくっつけてみせて、何の説明にもなっていない説明を展開してみせるのが香山の常道である。

竹内久美子:女のオヤジ(別冊宝島 Real 43 『まれに見るバカ女』2003 年 02 月 pp.124-127)

  竹内久美子は進化をネタに下ネタを展開する才能はあるんだが、それだけで終わっており、またその下ネタが思いつきにとどまっていて何ら啓蒙的な役割を果たしていない。そして、下品なだけのネタがユーモラスなつもりでいるのがなおさら痛い。

立花隆の IT 談義:そのネタもととパクリのまずさ(別冊宝島 Real 27 『立花隆「嘘八百」の研究―ジャーナリズム界の田中角栄、その最終真実』2002 年 01 月)

 ……かなりやっつけ。書き始めるときに谷田『立花隆先生、かなりヘンですよ』が出て、書くことがなくなってしまったのも大きい。それと、最初は立花が C・P・スノーについてかなりいっぱいしゃべっているのを見落として、間際で気がついてその部分を削除。ひー。やばかった。

たかる社会にたかる人々(別冊宝島 445 『自殺したい人々』1999 年 4 月 pp.280-287)

 3 月末にひいひいいいながら書いた。こう、盛り上がりに欠ける文だけれど、べたーっとしてフラットにいつまでも続く感じは、あとから見るとそんなに悪くもない。結論的には、まあそんなにおもしろいものじゃないな。柳下ならハナでせせらわらうだろう。うん、わかってるんだよ、最近ちょっとワンパターンだよな。一応、ロフト+1 のイベントに取材にいったりしたんだけれど、あまり役にたっていない……わけでもないか。

ネットワークのオプション価値(別冊宝島 428『おかしいネット社会』1999 年 1 月、pp.168-176 掲載タイトル「淋しい電脳コミュニティ」)

 バングラデシュで書いたいくつかの原稿の最初のヤツ。本当は 11 月 20 日くらいに出すはずが、さんざん遅れて 12 月 8 日くらいまでかかった、というかそれまで手がつけられなかったのだ。実際に書くのにかかったのは 3 日くらい。そして書いたヤツを手書きで紙にうつして(涙)、ファックスで送らせた。原稿用紙 25 枚を手書きでうつすのはもうつらくなってるなあ。
 送付状にも書いてあるけれど、まとまりが悪くて論証がいまいち。着想はいいと思うし、ポイントはついてるんだけれどね。いくつか論理の展開が悪くてきちんとつながってないところがあるし、レトリックももたついてる。いつか同じテーマで書き直してみないと。

『愛の奇蹟』に見るインターネット情報「受信」不全症(別冊宝島 356『実録! サイコさんからの手紙』1998 年 1 月, pp.125-136 掲載タイトル「中森明菜への求婚状」)

 この原稿は苦労したぁ。インタビューは……そっちの話をするときには目がつり上がったりするかと思っていたら、まったく変わらずにあっちのモードと普通人モードを行き来するので意外。でも、終わってからついつい切符の数を足してみたりして、後遺症はあったね。原稿もさんざん遅れたが(切り口がね)、やっぱ情報発信という考えの問題に帰着。受信されることを考えない発信というのが、いろいろ諸悪の根元だ、という気はするのだ。
 なお、弊社の石上主席いわく「この雑誌全体の中で山形ひとりが冷静なこと言ってて、かえって浮いてる」

メディアと怪談とインターネット(別冊宝島 268「怖い話の本」1996 年 7 月号, pp.162-170, 掲載タイトル「インターネット電脳怪異譚」)

 これは自分ではすごく気に入ってる。技術に含まれた恐怖、どこまでいってもわかんないものはわかんない、という考えがちゃんとかたまったのは、これを書いてたときだったと思う。その後、インターネットの墓ってホントに出てるけど、まだまだせこいね。

インターネット対談とその用語解説(別冊宝島 282「2001 年がみえる本」1996 年 12 月号 pp.172-183)

 宮崎哲弥と初めて会ったのがこのときだっけ? それともその前に某合コンまがいのパーティーで会ったのが最初だっけ? 小林さんと、まあだいたい手のうちがわかってて、無難な線に全体としておちついた、とゆーことは山形的基準からすればイマイチつまらんってこと。内容的にはきわめて正しいし冷静なんだけど。
 解説のほうは、本来は用語解説なんだけど、でも相互に関連してていっしょに説明したいものも多いし、流れも説明したいし、と書いてったらこんなになった。これは、My So-called Life の話もぶちこんだし、大満足。 なお、最後に「1997 年も終わろうとしている」とあるのは、単にうっかりミスなんだけれど、深読みをしてくれる人が何人かいて、敢えて訂正してない。これを読んでたら笑って許して。またこの解説中の最初の一文について、永瀬唯が「1950 年代でははやすぎるし、分散処理は 1970 年代の感覚」と批判をしている。これについてはオルタカルチャーの文章のページに書いたので参照してほしい。確かに、自分の経験にひきずられすぎている点はあって、おっしゃるとおりなんだ。すいません。
 なお、このとき編集をしてたのは、のちにメディアワークスで世話になる上田氏。
 しかし、この特集のほかの連中はアホばっかだなあ。特にこの大前研一って何者か知らないけど、おバカの大将って感じ。

啓蒙する死体群:ムター博物館(別冊宝島 226「死体の本 」1995年8月 pp.53-63)

 フィラデルフィアの知る人ぞ知る名所、ムター博物館の紹介と館長(当時)のインタビュー。手配は Blast のローラ経由で一発で、ついでに彼女がうちあわせでフィラデルフィアまで行くときに、便乗してのっけてってもらったのである。なお、掲載時の題名は「Welcome! 現代版フランケンシュタイン博士の実験室へ」かなんかで、ローラは「まったくマスコミっつーのは日本もドイツもアメリカも、なんで同じことしか考えないのかしら」とあきれていた。
 これ以外に、ニューヨークにある会員制死体切り刻みクラブにも潜入予定だったけど、これはついにコンタクトとれずじまい。
 館長(当時)のグレッチェンは豪傑で、心にもないのが見え見えの公式見解をしゃあしゃあと話すのでおもしろかった。掲載誌を送ったら、「まあ、ネクロフィリアの写真が載っているようなものにまで出てしまうとは嘆かわしい、わっはっは」だそうで、職員のキムは(ジム・フィータス大好きの NW グランジ系なので)「クールな雑誌じゃーん!」と大いに喜んでた。日本からのカレンダー注文ファックスも結構きたとか。
 なお、その後この博物館は政治的にいろいろつらい状況になっていて、グレッチェンも館長ではなくなってるし、もうカレンダーも作らないことになっちゃった。一方でもっと明るいディズニーランド的な博物館に!とかバカな動きもあって、それだけはやめろ、とぼくも抗議の手紙を書いたけど。だけどその後、この危うい状況は脱した。このカレッジも経営難で、売り上げを稼げるカレンダーをつぶすのはまずい、というのがわかったらしい。組織的には複雑になったけど、なんとか存続。

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