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メディアと怪談とインターネット

(別冊宝島『怖い話の本』)
  山形浩生

1.パソコン通信の怪

 しばらく前に、友人から聞いた話である。

パソコン通信ネットの多くは、コンピュータや映画、庭いじりといった具合に、テーマに応じてフォーラムやグループという専用書き込みエリアのようなものを設けている。みんな、そこに思い思いに質問や雑感などの書き込みを行い、それに対して返事や反応がさらに書き込まれ、そのやりとりが面白ければ、だんだんにフォーラムとして盛り上がりや活気が出てくる。

さて各フォーラム/グループ運営の責任はシスオペという議長役に与えられることが多い。うまく切り回してユーザにたくさんアクセスさせることができれば、接続時間が増えるし、人が人を呼んで他の同好の士が新規にそのパソコン通信ネットに加入したりするし、パソコンネットの経営から見ればきわめて好都合。このため、条件などについては箝口令が敷かれているそうで明らかにされることは少ないものの、アクセスが好調なフォーラム/グループのシスオペにはそれなりの見返りが与えられる。

逆に采配がまずく、派手なけんかや訴訟沙汰など何らかのトラブルを起こしてしまったり、あるいは不愉快な常連ばかりがのさばったりすることで、だんだん一般のアクセスが減少してしまったような場合は、事態の改善を求める圧力がそれ相応にかかってくるし、アクセス減少をくい止められない場合には、そのフォーラム/グループおとりつぶしという事態も発生する。シスオペの多くは、報酬目当てというよりは、映画とか料理とか、そのフォーラムのテーマが好きでやっている善意の人だし、そのフォーラム/グループの参加者への義理もあって、なんとかフォーラム廃止という事態だけは避けようと必死になる。

最近、某大手パソコン通信ネットで、旅行系のあるフォーラムがそのような状況に陥ってしまった。中国旅行が大好きだったシスオペや、常連メンバーたちの奮闘もむなしく、間もなくそのフォーラムは閉鎖されることに。人一倍責任感の強かったシスオペは、悲観して自殺してしまった。

閉鎖されたフォーラムは、しばらく読みとり専用でそのまま公開され続け、数カ月で完全に消される。アクセスしようとしても、フォーラムそのものが消えているのでエラーメッセージが帰ってくる。

ところがある日、オートパイロットでアクセスしていた旧メンバーの一人がアクセスのログを見ていると、なくなったはずのそのフォーラムに入れてしまっているのに気がついたという。そこには新規のメッセージが1つだけアップされていた。が、不思議なことに、ダウンロードされたメッセージを見てみると、アップした人間のハンドルもidも書かれていない。メッセージの中身はまったくの空白だった。

フォーラムが復活したのかと思ったそのメンバーは、すぐに手動でネットにつなぎ、アクセスを試みたが、いつもと同じエラーメッセージしか返ってこない。知り合いに聞いても、フォーラム復活の話など聞いていないという。ネットの運営に問い合わせても、そんな事実はないとの返事。

不思議に思って、再度そのメッセージを見ているうちにふと気がついたのが、そのアップロードの日付だった。思い当たって調べてみると、それはあのシスオペの命日だったという。


2. メディアと恐怖

SF作家アーサー・C・クラークの有名なことばに、「十分に発達した技術は、魔術と区別がつかない」というものがある。だが、実際にはこれは、ほとんどの技術についても言えることである。身近なテレビも電話も冷蔵庫も、最後の最後のところでは、なぜ機能しているのかわれわれには説明しがたい。これは、一般の人が科学技術について無知である、という話ではない。オームの法則やマックスウェル方程式を完全に理解していようとも、どこかで「だってそうなんだもん」というしかないレベルが出てくる。最終的には、われわれはなぜ電波や電線が信号を伝えられるのか、知ってはいるけれどわかってはいないのである。

そこに不安と恐さがある。特にメディア技術の場合、そのわからなさを経由して、向こうにだれか、あるいは何かががいて、その意志やメッセージをつたえてよこす。電話の向こうにいる相手が、自分の思っている相手だと言う確証も、実はない。いろいろな情報の断片からそう類推するだけだ。見えない相手への恐怖とその伝達するメディアへの不安が掛け合わされて、怪談などが発生する土壌となる。

たとえばこのような恐怖のあらわれとして、だれかが自殺した場所で、突然ラジオから恨めしげな声がしたり、あるいは逆にまったく何も聞こえなくなる、といった怪談がいたるところに登場する。もちろん、かつて自動車事故のあった場所で急に車のハンドルをとられたり、アクセルやブレーキがきかなくなる等の噂や、あるいは運転手のいないバイクや自動車の話もよくある。

あるいは手紙ですらこうした恐怖の舞台となりうる。不幸の手紙がその好例であろう。また自殺して命日に電話をかけてきたり、ポケベルを鳴らしたりする死者の噂や伝説は(いかにも粗雑なつくりものめいた代物ばかりではあるけれど)さまざまな週刊誌の納涼特集などに頻出している。

 電話や手紙、あるいは新聞、テレビ、ラジオによる、日常生活への不吉な情報の乱入は、きわめて一般的な現象である。したがってこうしたメディアは、われわれの意識のなかでも何かしら彼岸と結びついているのだ。そのメカニズムに関する無知と不安の隙をついて、これまたわれわれの理解の及ばない死者たちがこちらにメッセージを投げてよこす。これが怪談である。メディアということばが、霊媒を意味するmediumと同じことばであるというのも、言い尽くされてきたことではあるけれど、改めて確認しておいてよかろう。


3.コンピュータと「恐怖」

 コンピュータや、コンピュータネットワークは比較的こうした怪談らしい怪談の少ない世界であった。もちろんコンピュータも、最終的にはわからないブラックボックスである。しかしながら、つい最近まで、そのユーザ層はきわめてコンピュータに精通した特殊な集団に限られていた。したがってその中で、コンピュータの不可解な部分についてかわされることばのほとんどは、「自分たちより高水準の知識を持った人間がいる」といった形のものだった。いわゆるハッカーの冗談というものだ。

 『ハッカー大辞典』(邦訳アスキー)には、そうした例として、あるプログラマーによるあまりに芸術的で職人的なプログラムの話があげられている。あまりに精緻かつ技巧的に書かれているため、まったく動作に関係ないと思われるコメント文を一個抜いただけで、ぱたりと動かなくなってしまうプログラム。あるいは先人が継ぎ足しに継ぎ足しを繰り返してつくったハードウェアが地下室の片隅におかれていて、それが何をしているのかだれも知らないのだけれど、でもその電源を切ると建物中のシステムが動かなくなってしまう謎のブラックボックスなども、この類例であろう。

あるいはこんな話。

「コンピュータが立ち上がらないので、素人がやみくもに電源スイッチをパチパチ切ったり切れたりしていた。が、一向に動かない。そこへ達人がやってきて曰く『そんな目くらめっぽうにやってもダメだ、ちゃんと機械の動作の仕組みを理解したうえで対応してやらなければ』そう言いつつ、かれは先の素人とまったく同じように、電源スイッチを切って、そして入れた。

 コンピュータはあっさり立ち上がってしまった」

 ちなみにこれは実際にあることで、修理に出そうとするとなおってしまう故障に類する珍しくもない現象である。たとえばマッキントッシュのシステムは、かつては非常に不安定で(それをいうなら今も多少はそうだが、ウィンドウズに比べればマシなので相対的な印象はかなり改善されている)、なんの理由もなく画面が凍り付いてしまったり、原因不明の動作不良をしょっちゅう起こした。そんな時、職場に一人や二人はいるマック熟練者が修理役をおしつけられるのが通例なのだが、かれらの多くは、自分で何をしたのかわからないけれどとりあえずなおってしまった、とか、さわっただけでマックをなおしてしまった、といったイエス・キリストのような体験を必ずといっていいほど持っている。かく言うこの著者もその一人であり、たまにこれが起きると自分で自分が恐くなってしまうのだが、それはおいておこう。

このように、コンピュータの世界にも一歩間違えばオカルト的な世界につながりうる不可知な部分や不可解な部分はいくらでもある。が、それがその筋の人々以外に感知される機会はほとんどなかったのである。一般の人々にとって、コンピュータやネットワークは大きく抑圧的で、そしてきわめて抽象的な存在ではあったけれど(たとえば各種マンガやSFなどに見られる、世界征服を行う巨大中央コンピュータなどのイメージはその典型であろう)、現実に生活の中に入り込んできたり、個人レベルの生や死と関わったりする現場はほとんどなく、したがって怪談を成立させるに足るだけの具体性を一般には持っていなかった。
 が、この状況が大きく変わり始めている。言うまでもなく、現在のインターネットやパソコン通信の浸透による変化である。


4.パソコン通信の怪談

 わが国におけるパソコン通信人口は、各商業ネットワークの加入者数で見る限り、すでに百万人オーダーに達している。したがってパソコン通信がらみの怪談のようなものが登場する下地も、ちょっと考えるとできつつはあるような気がする。しかしながら、そうしたネットワークのidを購入した人間の多くは特に活発にフォーラム活動などをしているわけではなく、単に電子メール機能を使ったり、PDSを入手したりといった程度の利用しかしていない。本当の意味でのネットワーカーの数は、実はそれほどいないのではないか。

 『魔女の伝言板:日本の現代伝説』(近藤正樹、高津美保子、常光徹、三原幸久、渡辺節子編著、白水社)にも、パソコン通信を舞台にした怪談がいくつか紹介されている。通信で知り合った人が、実はすでに故人だったとか、あるいはまったく別人が正体を偽ってその人になりすましていた、といった話である。後者はネットワーク界にしばらくいた人間にとってはあまりにありきたりすぎて、ことさら騒ぎ立てることすらバカらしい話題であり、前者の話はすべて作為が見えすぎている。どの話にも、「その人物の住所をつきとめて訪ねてみると」といったくだりがあるのだが、みんな本名すらろくに明かさないパソ通の世界では、オフライン・ミーティングにでも顔を出さない限り(あるいは本人が自ら明かさない限り)そうそう簡単に住所や電話番号がつきとまったりはしないのである。したがって怪談としての迫力もまったくない。

 冒頭に紹介した「怪談」は、ぼくが知る範囲では一番筋の通った整合性のある代物であろう。しかしながらこれですら、おそらくはネットワーカー以外にとってはあまりリアリティを持ってはいない。一般人が本気でこれをこわがるには、まず要求される予備知識が多すぎる。パソコン通信のシステムというのはどうなっているのか、という根っこの部分から、シスオペのなんたるか、オートパイロットとはなんぞや、というあたりまで知らなければ何の話やらさっぱりわからないし、それをくどくど説明されたところで、実地に体験していない人々にとっては何の現実味もないだろう。したがってこの話が一部の熟練ネットワーカー以外の世界で普及する可能性はおそらくない。少なくとも当分の間は。

 こうした「怪談」は、これまで手紙だったところをパソコン通信に置き換えてみただけのものであり、したがって上に述べたように無理が多々ある。そして何よりも、パソコン通信というもの自体が、個別の死とはむすびつきにくい存在であるという点で怪談ポテンシャルはかなり低いように思う。
むしろ今後、パソコン通信などより怪談の温床として有望なのは、電子メールであろうと予想される。


5.電子メールと「死」

 一九九五年四月、かのティモシー・リアリーなどとも親交が深い、スラップスティック・テクノオカルト冗談作家ロバート・アントン・ウィルスン死亡のニュースがインターネット上をかけめぐった。アメリカ西海岸ヒッピー文化におけるビッグネームであるため、あちこちから追悼文などが各種メーリング・リストなどに発表されてから、一週間ほどして本人がおずおずと「あのー、まだ生きてますけど」と名乗りをあげ、なかなか信じてもらえずに苦労したという冗談のような実話がある。著者も、最初にかれの生存声明メールが転送されてきたとき「何と悪趣味な冗談を」と憤慨した一人ではあった。

 すでに述べたように、電話やテレビなど各種メディアは、日常生活へ不吉な情報や知らせを突然送り込んでくる存在である。今後、そうした役割を担う可能性があるのは電子メールである。メール経由で訃報やその他の不幸が伝えられるケースは、そろそろ実際にあらわれつつあるし、今後はますます多くなってくるだろう。ジル・ドゥルーズ自殺の第一報がぼくのもとに伝わってきたのは、電子メールでだったし、阪神大震災の第一報も「神戸が壊滅した」という同僚の変換ミスだらけのメールだった。

 このように、電子メールは個人の生活の中で生と死をつなぐ能力をもっているのだ。そうした出来事が積み重なるうちに、やがて死の世界との接点としての電子メールへの認知が徐々に高まってくる。死者からの電子メールが届く日は近い。だがそれだけではない。電子メールと死の世界の親和性については、さらに次のような報告がなされている。


6. 電子メールと「死者の場所」

 MacWorld アメリカ版1996年6月号には、Death and Mourning on the Internet というちょっと変わった文が載っている。著者イアン・ブラウンなる人物については不詳。カナダのトロントのラジオのパーソナリティだということしかわからない。

 著者の知り合いが死んだ。その件について自分のラジオ番組で触れたところ、各地から故人の思い出を記した電子メールが著者のもとに届き始めた。やがてかれのメールボックスは、故人への追悼文だらけとなり、そこでの故人は生前にも増してリアリティのある存在となってしまったそうだ。

 かれはそれを消せずにいるという。そして、故人の電子メールアドレスも削除できずにいるという。「かれがいなくなっても、サイバースペースにおけるかれの居場所がまだあるなら、どうして真にかれが消えてしまったと言えるだろう。思い出となったネット上のかれの存在が、存命中のかれのネット上の存在と比べてリアルでないなどと言えるのだろうか。存命中のかれは、そこにいたが、いなかった。今のかれは、そこにいないけれど、いるのだ。唯一の差は、かれが返事できないというだけにすぎない。コンピュータの空間では、われわれみんながオーラであり霊でありゴーストである。したがって、インターネットこそは、われわれの知る限りで死後の世界に最も近いものなのだ」

 MacWorldは、日本版も出ているけれど、ごく通常のパソコン情報誌である。その中でこの記事はきわめて異様な代物だった。が、この文には不思議な説得力がある。現にわれわれは(少なくともぼくは)メールのアドレス削除をなかなかしたがらないし、メールそのものも個人的なものは削除しないことが多い。死者ではないが、転職して音信不通になったかつての同僚からのメール。昔の恋人のアドレスやメール。普通の手紙や写真を捨てるのがためらわれるのと同様に、われわれはそのメールたちを捨てられない。ここに書かれていることは、だれしも多少なりとも身におぼえのあることなのだ。

 さらにこの感覚に拍車をかけるのが、電子メールというメディアの特殊性である。手紙は、届いてしまえば郵便システムからは切り離される。電話は、その場限りで消えてしまう。だが電子メールはちがう。電子メールは届いてもコンピュータの中にとどまる。消さない限り、そのコンピュータ内のメールボックスにたまり続けるのである。自分のもとに届いていながらも、それはまだネットワークの一部であり続ける。逆説的なことだが、実体のある通常の手紙とはまったく別種の具体的な場所の感覚が、実体のない電子メールにはより強くつきまとう。それがこの著者の言う「サイバースペースにおけるかれの居場所」という一言をきわめてリアリティのあるものにしている。

 現在こうした話題が少ないのは、まだ電子メールアドレスを持っていて死んだ人物をわれわれがあまり知らないからである。あるいはホームページを遺して死んだ人物が少ないからである。今後、そういう人間は確実に増えてくるわけだが、その時、われわれはその人物の電子メールアドレスをどう処理するだろう。その人物からのメールをどう処理するだろう。単純に捨てたり、削除したりはできないはずだ。ここには新しい怪談の可能性が秘められているのである。


7.墓としてのWWW

 電子メールとは別の、怪談ポテンシャルを持っているのが、WWWである。

 考えてみてほしい。死んだ人のホームページはどう処理されるのだろうか。あるいは、これまで精力的にウェッブページをつくり、更新を行ってきた知人がいるとする。その人が死んでからそのページを見たとき、あなたは何を感じるだろうか。そこには単純には割り切れない感情のわだかまりが必ずあるはずだ。

 そうしたページ群は、しばらくは、あまり気にとめられることもなく放置されるだろう。一部は公共的なサーバー上に置かれていて、そのままずっと残り続ける。有料の商業サーバー上のものはどうだろうか。最初のうちは、あっさり消されてしまうだろう。が、どこかでそれを惜しむような何らかの動きがあらわれてくるはずだ。それはたとえば、この世界での有名人が逝去した場合などに生じるだろう。消すに消せないページが増え、その一方でそれらのページは、それ自体は古びることもなく生前と同じ姿を永遠に保ち続けるものの、そこへのリンクは失われ、そこからのリンク先もだんだん消え、やがて無縁仏ならぬ無縁ページと化す。われわれは、たまにそれを悼むようにして訪れることとなろう。

 本人の死後も、公の場所で残り続け、個人の情報を発信し続けるホームページ。それはいわば墓のような存在である。「インターネットこそは、ぼくたちの天国となるのかもしれない」とMacWorldの文は電子メールを念頭にしつつ述べている。だが天国なのだろうか。ぼくに言わせれば、インターネット(の一部)はわれわれにとっての新たな墓地となるだろう。われわれは墓参りをするように故人のページをブラウズするだろう。それは今の墓参りよりはるかにビビッドでリアルな、そして個人的でひめやかな体験であるはずだ。電子メールのアドレスと同じように、そこには死者と生者の感情がからみつき、独特の世界をつくりあげるだろう。それを温床とした宗教も、どのような形でかはわからないながら確実に誕生する。ページをまとめて供養するような商売も生まれるだろう。これこれのお布施を払えば、ページのメンテナンスをしてあげるし、リンクのアップデートもしますよ、というようなサービス。「おれが死んだら、あいつのページにリンクを張ってくれ」というような遺言サービス。ぼくには見える。今から七年くらいして、ネットスケープ社あたりから新商品の発表が行われるのだ。名付けてネットスケープ墓守サーバー。「ネットスケープ社はバチカンと提携し云々」である。

 そしてそれとともに、インターネット上の怪談も、まったく予想もつかない形で飛躍的な発展をとげるだろう。いま、はじめて死者の情報がまったく劣化しない形で生者と同列に並ぶようになりつつある。思えば古代エジプトや支那以来、人類は死者の情報をさまざまな形で後に残し、死後も生前と同じ環境を死者に提供することに腐心してきた。それはたとえば副葬品や壁画、あるいはミイラなどという形で現れている。それが死という未知の恐怖に対する人間のささやかな抵抗であった。
 しかし人類がこれまでつくりあげてきたものは常に、生の世界とは切り離されたものでしかなかった。それはいずれもやがて風化し、忘れられてゆく。そうやって生者は生の世界に立ち戻り、死者は死の世界に送り返されてきた。だが、こんどはちがう。人類が生まれてこのかた試みてきたことが、ついに実現されつつあるのだ。この死者たちの世界は、まったく風化することなく、生前とまったく同じ状態で生者たちの世界と入り交じる。あまつさえ、各種のリンクを通じて生の世界と親しく交流をいつまでも続けてしまう。死の世界に対してわれわれが抱く距離感は、大きく揺らぐだろう(余談ながら、思えばこの点でも、ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』と『カウント・ゼロ』は驚くべき先見性をもった小説であった)。これは人類の想像力に対し、ある決定的なインパクトを持つはずである。その衝撃力は、十年以内にサイバービジネスだの電子マネーだのといったくだらない算盤勘定をはるかに凌駕するであろう。われわれが立っているのは、そういう時代の入り口なのである。
 

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