家族に期待しすぎなさんな。

――『家族という神話』(ステファニー・クーンツ)書評

 

(『スタジオボイス』1998年5月7日発売号掲載)
山形浩生

 著者は言う。「過去から学ぶべきことは多くあるけれど、貧困や社会変動から人々を守った家族形態は一つとして存在しなかった。また今日の世界でどのような家族関係を築けばよいのかについてモデルとなるような伝統的家族形態も一つとしてない」。

 しかし、そこで考えなくてはいけないのは「じゃあ新しい家族はどうあるべきか」ということではない。家族の現在形を肯定しましょう、なんてことでもない(肯定するのは結構なんだけどさ)。クーンツの主張とはまず、家族というのは自然なものでもなければ必然的なものでもない、ということだ。それは個人を社会として組織化する一つの手段にすぎない。子育てと、賃金労働の裏方作業を担保するために歴史的に作り上げられたものなんだ。問題は、家族というものを問題にしすぎることなんだ。

 自然じゃなくったって、別にいけないことは何もない。会社というのは、別に自然なものではない。でも経済メカニズムとしてはそこそこ機能している。問題は、それがフィクションだということを忘れ、それしか世の中にないんだと思いこんでしまうこと。そういう盲信からいろんなゆがみが生じる。

 家族でもそれは同じこと。「理想の家庭はなかった」とは本書は言ってない。立派な標準家庭はたくさんあった。ただし、それが一九五〇年代にはアメリカのマジョリティを占めて、それが故に万事オッケーだったというのはウソだ、と。五〇年代にも、家庭というシステムはすでにガタがきていた。そして六〇年代以降、家族が崩壊したから社会がおかしくなった、という通説もウソだ。既婚者が独身者よりもマシなわけじゃない。出身家庭がおかしくても、まともな環境と訓練さえ与えればその後いくらでも矯正はきく。

 さらに通常の家族以外の存在が、「健全」な家族よりも社会的なコストが高い、というのもウソだ。ふつうの家庭だって、住宅取得減税や補助金、家族手当や福祉費など、コストはいっぱいかかるのだ。母子家庭やゲイ家庭が極端に高コストでもない。

 本書はこのように、家族に関する通念を一つ一つデータでつぶしてゆく。その一方で、性革命がすべていいとかいう、リベラルっぽいお題目にも陥らない。家族を持ち上げすぎるのもつらいけれど、逆にそれを否定しすぎるのも同じくらいつらいのだ。プロパガンダに走らない、学問的な誠実さが維持されているのは気持ちがいい。

 本書の結論と提言は、日本にそのまま適用できるものではない。社会福祉を充実させろという話なんだが、これは貧富の差の激しいアメリカならではの話だから(解説の芹沢は、日本もそうだと言いたがってるけどね)。ぼくたちが考えるべきなのは、サカキバラくんの一件でも、コギャルの話でも、いろんな社会問題がすぐに家庭のせいにされる事態のほうだ。家族が悪い、家庭が面倒を見るべきだった、親がちゃんとぶん殴っておけばよかった、云々。だが、家庭だけに答があるわけではない。ここんとこは日本でも十分成立する議論なのだ。

 そして日本でも、「まっとうな家族でない」ためにストレス下におかれている人は多い。本書はそれに対して実証的な解放感をもたらしてくれるはずだ。「家族論」と称する本は日本でも多い。が、どれも家族という枠組みは問題にせず、父親の役割とか、内部の位置関係のシフトだけでなんでも片づくかのような書き方をしている。それもレトリックばかりで。本書はもっとしっかりしたものだ。そして本書は、その先にまだまだ苦闘が待っていることをぼくたちに告げている。

 著者は、もっとコミュニティ化された子育てを考えようという。うまくいくだろうか。どう制度化しようか。日本では、これにからめて年寄りの処理問題も出てくるだろう。必ずこれは、家庭に押しつけられる。そして必ず破綻する。アメリカの家族のように。その先は? その意味で、本書の問題提起は、日本には別の重みをもって迫ってくる。

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YAMAGATA Hiroo (hiyori13@mailhost.net)