連載第?回

文化を保存する試みの失敗について。

(『SIGHT』2005 年 秋)

山形浩生

要約: 日本の国立国会図書館が web ページの定期的な保存公開を行おうとしたところ、「保存する価値があるかどうかわからない」だの「著作権が云々」だので反対が起きて、保存範囲が大幅に縮小され、個人ページは対象にならない。でも、価値があるかどうかは後にならないとわからないし、著作権だっていつか切れる。そしてネットの価値は、個人が発言できるようになったことではなかったか。それを保存しないようでは意味がない。




 その昔、NHKの古いビデオを上映するイベントがあって、あの(といっても若者は知らないだろうが)「ひょっこりひょうたん島」をやったんだ。いま、40歳代の日本人ならガキの頃に必ず見た記憶があるはずの名人形ドラマ。正直言って、どんな話だったかさっぱり覚えてはいないんだが、何人か印象的なキャラだけは記憶に残っている。

 で……若者は知らないだろうが、その昔、テレビは白黒で、カラーテレビというのは一部の限られた家庭にしかなかった。そしてテレビ放送も、基本は白黒放送で、一部の限られた番組だけがカラー放送だったのである。さて、ぼくが見た「ひょっこりひょうたん島」の上映は、白黒だったんだが……途中でテロップが入った。NHKに残っていたもとの録画に入っていたテロップだ。「この番組はカラー放送でお届けしています」とかなんとか。

 何が起きていたのか?いまはビデオデッキ(やDVD/HDレコーダー)なんて、ない家庭のほうが珍しいけれど、「ひょっこりひょうたん島」放送当時(1960年代)は、ビデオの録画機材なんてのはあり得んくらい高価なものだった。ついでに録画のテープなんてのも、ハンパじゃなく高かった。さらには、今は信じられないことだが、同じ録画用テープでもカラーのテープは白黒なんかより遙かに高かった。というわけで、NHK(そして他の放送局)は何をしたかといえば、価値があると判断した番組しか録画保存しなかった。ついでに番組の中でも、低級と見なされたものは、カラーの番組であっても白黒でしか保存されなかった。

 で、「ひょっこりひょうたん島」は、カラーで残す価値のない番組だと判断されたわけだ。しょせん子ども向けのくだらないシロモノでしかない、というわけね。だから白黒テープでしか残っていない。まったくNHKは昔からなんと権威主義的でものの価値がわからない石頭であったことか……と言いたいわけじゃない。だって、そういう判断をせざるを得なかった事情というのは十分にわかるでしょう。予算は限られているし、テープは高かったんだもん。ニュースとか、大相撲とかに比べたら、大して予算もかけていないような子ども向け人形ドラマが切られるのは仕方ない。でも、それが悲しいのも事実だ。幸か不幸か、ぼくたちの子供時代の中であの番組はそれなりに大きな位置を占めている。ぼくたちの世代の文化基盤を研究しようといった暇な研究者がいたら(実際いる)、その人はウルトラマンを押さえ、「ロンパールーム」を調べ、やがてどこかで「ひょっこりひょうたん島」も見ておきたいと思うだろう。またぼくたちの世代において、テレビが白黒からカラーになったというのは、かなり革命的な転換だった。友人の柳下毅一郎は、ウルトラセブンの最終回のときに家にカラーテレビがやってきたそうな。そしてその時に「ウルトラセブンはホントに赤いんだ~」とすさまじい感動をおぼえたという。そのときかれが、赤に感じてしまった魅力が、柳下の現在の殺人鬼研究に影響を与えていないとだれが言えよう。ひょっこりひょうたん島をカラーで見たことがだれかの意識に重要な影響を及ぼしていないとだれがいえましょうか。

 そして時は流れて今。2050年にぼくのようなクソ生意気な評論家に、こんなきいたふうな口をきかせないために、現在の人は何を保存しておけばいいだろうか? もちろんテレビ番組は全部保存しておくだろうし、ラジオも全部録音だ。なに、今はもうコストも安い。とりあえず保存はいくらでもできる。マンガや雑誌、本はそれなりに保管される。ゲームも、完璧とは言えないけれど、好事家が間に合うように出てきてかなり保存されている。その他、たぶんいまのぼくたちがまだ認識していないことはあるんだろう。でも、明らかに現在大きな役割を果たしているのは、インターネットだ。ネット、その中でもウェブがいまのぼくたち――ガキも大人も――の文化や社会にとても大きく影響しているのは確実だ。でもネットは日々変わっている。2000年のぼくたちはどんなウェブを見ていたのか? それがわかれば、2000年のぼくたちがどういう環境に生きていたのかについて、実に多くのことがわかるだろう。

 それを実現しようとした試みはある。www.archive.orgにいけば、多くのページをずっと過去にまでさかのぼって見ることができる。ここは日々、そこら中のウェブページにアクセスしまくって、それをひたすらコピー保存し続けているのだ。これはきわめて重要な試みだ。それが円滑に行くように、アメリカではここは通常の著作権的なあれこれを基本的に免除することになっている。でも、ここも完璧じゃない。抜けているところはある。それに、そのデータ源が一カ所しかないというのも不安だ。新聞はそれぞれの図書館が別々に保管するじゃないか。またセキュリティ的にも、一カ所で改ざんされたものを他のところでチェックできる体制がほしい。意図的に重複する試みをやっておきたいじゃないか。

 そこで、世界各地の図書館が似たような試みを始めた。我が国の国会図書館も含め。国会図書館は、ウェブのアドレスにjpとつくものを集める、という方針を打ち出していた。それを聞いて、ぼくはずいぶん不満に思ったものだ。日本の文化に影響しているウェブページなんて、jpドメイン以外にいくらでもあるのに。朝日新聞のページはasahi.com だし、ぼくのウェブページはcruel.orgだ。そういうのが集まらないじゃないか。

 ところが。事態はそれどころではなくなっていた。国会図書館がこの試みについて意見を求めたところ、「ネットには違法情報がいっぱい載っている」「誤った情報が出ている」「集める価値があるかどうか疑わしいものがある」「プライバシーに関わるものがある」「集めるなら著作権に配慮して許可を求めろ」云々かんぬん。こうした馬鹿な意見が殺到したおかげで、国会図書館は収集範囲を大幅に狭めて、教育機関と自治体や政府や公共機関のウェブページしか収集しないことにしちゃったのだ。個人ページはなし。企業のページもなし。

 そんなもの、なーんの意味もないではないか! ネットの価値って、個人の情報発信だとか、ブログだとか、企業活動への影響だとか、そんな話なんじゃなかったのか!

 「集める価値があるかどうか疑わしい」。ええい、わかっちゃいねえ。国会図書館が(あるいは他のどこでもいいけど)こういうのを集めるのは、今の人々のためなんかじゃない。未来のためなんだ。未来の人々にとって何が価値があるかは、もちろん今の人にはわからない。だからこそ、何でもいいから集めておかなきゃいけない。誤った情報や違法な情報、プライバシーを侵害する情報なんて、雑誌や本にだってたくさん出る。だからって図書館は雑誌や本を集めるなとは言わない。どういうふうに間違っていたか、どういうふうに法律を犯していたか、というのも重要な情報だからだ。そしてこうした活動の重要性を理解して、archive.orgを著作権の足かせから解放したアメリカは、実にえらい国だということがひしひしとわかるじゃないか。

 なんとかならないんだろうか。公開は後で考えるにしても、集めるのは勝手にやっちゃって、とりあえずどんどんため込んでもらえないもんか。そうでないと、2050年にいまのガキどもは、かつてのぼくと同じ悲しさを味わうことになるだろう。しかもそれは、「ひょっこりひょうたん島」みたいなコスト的な理由や技術的な制約はいっさいない。いまの馬鹿な連中が目先のことだけ考えてくだらないことを言い立てたせいでしかないのだ。そのとき、かれらはいまのぼくたちを、度し難いバカだと思うことだろう。

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