□■□■□■  Entropic Forest ■□■□■□

END 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 NEXT


 都市は生きている。みんなさもわかったような顔で、そんなことを口走る。気の利いた比喩かなにかのつもりで。でもそれをもっと文字通りに理解してみたらどうだろう。通俗ガイア論者のような擬人化は避けるべきだけれど。都市も人間も、どちらもお互いの営みをまるで意に介することなく、不思議な共生関係をくり広げている。生物としての都市。そしてそこに関わる意図せざるエージェントとしての人間。



連載 第 01 回

まつ。


山形浩生

 37 度。

 歩いているだけで死にそうな暑さなのに、昼の空は、妙にうそ臭くさわやかだったっけ。そしてそこにそびえるビルも、いかにもうさん臭くてわざとらしくて非現実的で、それをあわててごまかそうとするみたいに、とってつけたような秩序をひけらかしながら、すみずみにまで発狂するほどくっきりしたリアリズムを主張しようとしていて、それがかえって浮いていた。ロビーに落ちていた写真のたばまで、わざとそこに置かれたような、そんな印象をつくりだしていた。

 1980 年代から 1990 年代、前世紀末には世界各地でこんな高層ビルの密集が作り出された。一部は建設の途中で放棄されて、いまだにその残骸をさらしているし、それ以外のものものあとが続かず、まわりの低層建築と居心地の悪いにらみあいを延々と続けている。既存のこわされ損ねた低層建築や、あとから足下にじわじわ群がってきたバラックもあり、ときには高層ビルのほうがにらみあいに負けて、中をバラックに浸食されたりもしているのだけれど。ここでも、足下の低層を隠そうとして目隠しが設けられている。

 いまこんなビルが建つ場所といえば、スリランカとテヘラン、あきらめの悪い設計事務所の製図板、そして誇大妄想狂の大脳皮質の中くらいだ。

 「でもここだって、もともとこんなビルは建たないはずだったんですよ」と田崎が、わざとらしいジェスチャーを交えながら(英語でしゃべるときのくせだ)言っていた。前の話がまとまったときのことだ。「低層のゆとりある都市環境とかいうものになるはずが、いつのまにかうやむやになって、50 年前にわたくしが勤め人だった頃に当然のような顔をしてぼこぼこ高層が建っちゃいましてねぇ。それが証拠に、真ん中に一つだけ低い建物があるでしょう、あのもと美術館。だからここは、あるはずじゃない場所で、だからなおさらうそ臭いんだと思いますね」。やつが饒舌、ということは、またボられたわけか。

 そのうそ臭さの 34 階にすわることすでに 4 時間。まだやつを待っている。グラスの下にナプキンを敷いて。あと 30 分、もう 30 分、と。「あいつら、こっちが待つのわかってるんだよ」。グラスの横に、さっきひろったあの写真。なにか丸いタンクの底の草地が映っているが、なんだかよくわからない。とうに日も暮れ、店員も飽きて寄ってこなくなっている。あのわざとらしい空も、もう見えない。

 気温 37 度。

 メーターにはそう出ている。屋内には空調があるけれど、外の温度はいつもながらいっこうに下がらない。ヒトの体内にいるようなものだ。ここから見下ろす夜の都市は、われながら陳腐だけれど、血管やリンパ管のめぐる生き物のようだ、といつも思う。その管の小さな光点の一つ一つが、生き、感じ、思い、夢見る人間だと思うと、めまいがしてくる。このわたしのからだの中では、大腸菌は、パリジンは、HIV ウィルスは、どう生きているんだろうか。なにを感じ、なにを思い、なにを夢見て生きているんだろう。それらがわたしの中で果たしている役割を、かれらが知ることはない。かれらはメディアでありながら、わたしの思いを知ることも、自分たちが真に運ぶものを知ることもない。流されるのみ。

 わたしも、ひとも、なにかのメディアなのだから、流されて生きるしかないのだ、と思う。自分がこの都市で果たす役割を知ることもおそらくはないのだ、と思う。

 あのなかのどこかに、やつがいるだろうか。やつもメディアではあるけれど、わたしはあいつがなにを運んでいるか知っている。わたしはそれを買う。それもまた、この都市とは関係ないことで、かれが、わたしが運ぶものは、実はなにかまったくちがうものなのかもしれない。

 もう 30 分。さっきの写真を見る。これは高速道路のランプだろうか。それとこっちには変な団地。わからない。わたしはまだ待っている。まだ 37 度。




END 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 NEXT


SD Index 日本語インデックス
YAMAGATA Hiroo