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何か雑誌の依頼で、漢字一字をお題として何か文章を書け、というものだった。雑誌名も覚えていないし、時期もファイルの日付からの類推で確実ではない。警察関連の雑誌かなんかだったような。いや。他のとごっちゃになったるかな。2016.06

山形浩生

たぶんこの雑誌をごらんのみなさんは、これを書いている山形という人間にあまりなじみがないだろう。ぼくは、特に経済や科学関係の翻訳家としてそこそこ有名で、その他目さきの変わったものには何でも手を出す物書きとしても知られる。基本的にこれは、ことば、つまりは「語」を使う仕事になる。

  実はぼくの本業はちょっとちがっていて、開発援助の調査屋だ。開発援助というのは、発展途上国が発展するための手助けをする仕事だ。発展のためには、発電所や道路や学校がいる。それを日本が(みんなから集めた税金を使って)少し肩代わりしてあげようというわけだ。でも、やみくもに何でもやってあげるわけにはいかない。この国には本当にこれが必要か?使いこなせるのか?メンテナンスを自分でできるだろうか?そういうのを確認する必要がある。それをやるのがぼくだ。ぼくが調べてOKを出すと、そのプロジェクトは一歩実現に近づく。

 でもそのときでも、ぼくが最終的に作るのは報告書だ。自分の調べたことを、どういうふうに「語」として記録するか、そしてそれを組み合わせて、いかに説得力ある形で、このプロジェクトを日本が支援すべきか/してはいけないかを述べるか、それが重要だ。そしてぼくがどんなに頑張って調査をしても、その報告書ができるまで、ぼくは仕事をしたことにはならない。すべての作業は、その最後の「語」のかたまりである報告書のために存在している。

 実は……世の中の仕事の多くはそうだ。勤め人の事務職の人は、基本的に半分以上の時間を各種の報告書やレポートや書類書きに使っている。実はいまの日本だと、仕事のかなりの部分は「語」のためにある。科学者や研究者だって、新しい理論や発見をしても、それを論文として「語」の形で発表しない限り、その成果は存在しない。そして、他の人の報告書やレポートを読んで、それをさらにまとめて別の報告書を書く人もいる。そうやって、ぼくの書いた「語」はだんだん濃縮されて、いずれどこかの人が「よし、このプロジェクトをやろう/やめよう」という、一語ですむ決定をするための、ほんの小さなインプットになる。

 ときどきそれが、本末転倒に思えることもある。ぼくは「語」のために仕事をしてるんじゃないはずだ。こんな「語」を作るのに手間暇をかけるのではなく、実際のモノやサービスを作るほうがいいのではないか?そう思う人はぼくだけじゃないし、中には実際に「語」の仕事をやめて、パン屋や農家や、もっと実物に触れる仕事に転職する人もいる。そのほうが「人間らしい」と言って。

 その気持ちはよくわかる。でもその一方で、いまの社会でこんなにたくさんの人が「語」の生産にばかり精を出しているのには、ちゃんと理由がある。それは大規模に分散した形で物事を調べ、大きな活動をまとめあげるために、人類が数千年かけて開発してきたほとんど唯一の手法だからだ。

 もっといい手法はないんだろうか、と多くの人は思っている。報告書でぼくが本当に主張したいことというのは、たいがい3ページくらいでまとめられる。でも、その3ページを言うために、250ページの報告書を書かせられる。報告書の「語」の大半は、ただの前置きだったり、特に意味のないただのお作法だったりする。その3ページだけ言う方法はないものか。

 そしてその一方で、何やら形が出来てしまうと、それに変に適応しすぎた連中が出てくる。漢とか呉とかいった古代中国では、そうした連中がいっぱいいて、各地の王様やえらい人に、国の治め方を売り込んでいた。その人たちは孔子とか孟子とか、ひょっとしたら世界史や国語で習ったかもしれない人たちなんだけれど、かれらの特徴は、とにかくひたすら喋ったり書いたりできる、「語」の人々だったということだ。

 そして当時の中国で、それは滑稽と言われて、一種のピエロだったそうだ。当時の人は、ピエロなんてバカなことしか言わないのを知っていたけれど、でもその一方でピエロもときに(無責任だからこそ)傾聴すべきことを言えるというのも知っていた。でも、「語」を活用すべき人の多く——たとえばいまの政治家たち——が、そういう分別を持っているとは、なかなか思えないこともある。

 その意味で、ぼくは「語」に頼らないコミュニケーションの手法にも大いに惹かれる。技術の発展につれて「語」の役割が消えるというのは昔から言われてきた。そして、本当にそれができそうな様子も出ていた。写真と動画ですべてが伝えられるかもしれない。「語」というのを書き言葉に限定するなら、報告書を書くまでもなく、すべて口で説明してそれを録音として保存しておけばいいようになるかもしれない。人を3Dスキャンして、あらゆる身ぶりをそのまま記録し、表示できるようになるだろう。そしてそろそろ、脳からの信号を直接読み取って伝える技術が出てきそうな予感もある。そうなったとき人類はどう変わるだろうか。いまのような個人としての人間が消え、共生存在のような集団生物化がすすむんじゃないのか——

 とはいえ、いまのところ「語」はなくなりそうにない。もちろんその使われ方は変わっている。本、新聞、ネット、ツイッター、ライン――そういう、語をのせるいろいろな道具や仕組みは変わっているし、それが変わるたびに人々は言う。「もう『語』はおしまいだ。もう廃れる、人間の文化も文明もおしまいだ」と。でもそのたびに「語」は生き延びてきた。もう若者はツイッターやラインでしかコミュニケーションできず、長い「語」を読み書きできず、複雑な論理構造も把握できず、その場の反射的な反応を伝え合うしかできない、という説もある。でもぼくは、本当にそうだとは思わない。「語」の普及には人類の生物としての意味がある、とさっき述べた。そこにはぼくたちが生きるためのメリットがある。それを人類がそう簡単に手放すわけもない。その形が変わるだけだ。では、これかどう変わるのか——いや、それはむしろこれを読んでいるあなたたちに聞くべきことなのかもしれない。みなさんは「語」をどう変えつつあるのか、そして今後どう変えてくれるのか、と。

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