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ウィンドウズ・インターネット 連載

 ぼくに執筆させたがためにつぶれた、数多い雑誌の一つ。毎日コミュニケーションズ刊。確か、千葉麗子のコラムの下だったように思う。わずか 6 回! この手のインターネットバブル雑誌も、このあたりが限界だったなあ。

 これは勤め先で、ぼくが第一次ファイナンス講座を開始した頃なので、中身はファイナンスっぽい話がちらほら。時期はうろおぼえだけど、例の新宿南口にたった下品ででかい高島屋の話からして、1996年の末くらいのはず。

なお、連載の順番とかはおぼえてない。確かこんなもん。


第1回:Ask Not What the Net Can Do For You, Ask What You Can Do For the Net.

山形浩生


残された時間は少ない。あなたが足を踏み入れようとしているインターネットの世界は、はやくも老い始めているのだ。わずか五年ほど前、ここは勝手知ったるおたくどものフロンティアだった。今日明日にもどんな目新しい代物が出てくるか、予想もつかなかった。今は……かなり予想がつく。この世界も、成熟と安定の時代を迎えつつある。今はピンとこなくても、来年の今頃には何のことかあなたにもわかるだろう。

 けれど、まだ間に合う。一年ほど前、「インターネットの中年化」説を述べた。個人ページは制作者が飽きて立ち腐れ、体力のある大企業ページばかりが繁栄する、インターネットの退屈な未来についての予測だ。でも、大企業は思ったより鈍重だった。WWWページとしての表現や、企業の主張の表現、それ以前に主張そのものが吟味されたページは少ない。企業PRや情報公開という概念が元々ない日本企業ページは、目を覆う代物ばかり。生来のケチぶりが加わって(プリンタや PC カード用の最新ドライバソフトを、日本メーカーはほとんど無償提供してくれない)、主旨不明のページだらけ。欧米企業はこの点多少マシ。逆に中小企業や個人が、予想以上のパワーを継続させている。思ったほどすぐには煮詰まらないかもしれない。

 そして煮詰めさせない力は、あなたが持っているのだ。

 見知らぬ記事の著者への質問メールに、すぐ返事がきたときの感動。 Mosaicを苦労の末に立ちあげ、ホームページなるものを初めて見た時の興奮。間もなくあなたもそれを知る。でもそこから進んで、あなたもインターネットに貢献して欲しいのだ。つまらん自己PRホームページを作れってことじゃない。優れたページの作者に「クールなページだ!」とメールを打つこと。Usenetで日本についての質問に答えること。そういうささいな「情報発信」(やな言葉)で、世界がちがってくるのだ。個人レベルでのコミュニケーションを積極的に行うこと。インターネットのそういう可能性を実現させ続けること。それがインターネットの希望を生かすことでもある。ケネディも言っている。「ネットがきみに何をしてくれるか問うな。きみがネットに何をしてやれるかを問いなさい」。

 まだ間に合う。ただし急がなければ。願わくばこの雑誌と、そして僭越ながらこのコラムも、少しでもそのお役にたちますように。


 

第2回:インターネットのオプション価値


 インターネットなんかで何するの、という質問はよく耳にする。これは正確には「おまえなんか、インターネットに接続したって何もすることないじゃん」という侮蔑である。残念ながら、そう言われて返すことばがないのがみなさんの大半だろう。インターネットにつなぐことで、なにか達成可能な目標や実現可能な仕事が具体的にあるような人は、とっくの昔につないでいるのだから。たとえば仕事上で電子メールのやりとりが必要だとか、世界銀行のプロジェクトリストを日常的に見なくてはならないとか。

 しかしこれは、ポルシェやフェラーリ、あるいはそこまで行かなくても、3ナンバーの車を買おうとしている人に、「そんなもん買って何すんの、どうせ大半は一人でしか乗らないし、時速 200 キロなんか出せないじゃん。軽で充分でしょ」というのに近い。それは確かにおっしゃる通り。自動車評論家なら、時速 200 キロを射程に入れて設計された足回りの確かさは街乗りでも十分に発揮される、とかいう世迷いごとを口にするけれど、それがあの価格差を正当化するか? ご冗談を。

 それでもみんなが3ナンバーの車を、あるいはポルシェを買うのは、見栄もさることながら、300キロ出せる可能性に金を出しているのだ。滅多に乗らないけれど、でもいつでも複数の人を乗せることができるという期待に対して金を払っているわけだ。

 今のインターネットも同じこと。広告には「インターネットの無限の可能性」なんて書いてある。これはまあ、2割しかウソではない。ただしその「可能性」のうち多くの人がモノにするのは、ほんのカケラ程度だ。しかし、実現されないかもしれないけれど存在する「無限の」可能性に対して、人はそれなりの代金を払う。

 ファイナンスの業界用語を使えば、これはインターネットにはオプション価値があるのだ、ということになる。そして、そのオプション価値以上の収益をいかに回収するか――これが当面のあなたの課題である。


第3回:浜の真砂は尽きるとも……


 ある経済新聞系のパソコン雑誌で、WindowsNT とゆーオペレーティング・システムの新バージョンの試用評価が出てたのね。みなさんは、だいたい Windows95 か 3.1 を使っていると思うけど、しょっちゅう落ちて髪かきむしっちゃうでしょう。NTはもっとプロの業務使用にも耐えられる、すっごく安定したシステムなんだけれど、その分遅かったんだ。それが新バージョンでは、安定性を犠牲にして速度を重視した設計に変わって、うーん、いいのかな。だって安定が売りのシステムが、速度のために安定を捨てたら元も子もないのでは……

 それを、この雑誌の記者はこう書くんだ。「積極的に評価したい。どんなシステムでも落ちるときには落ちるし、性能の悪いシステムは使う気にならない」

 ばーか。この人、「性能」って速度のことだと思ってんのね。車で考えてみてよ。性能ったっていろいろあるじゃん。速度もあれば、燃費もあれば、ハンドリングもあれば、高速安定性もあれば、デザインもある。最高速度が遅いだけで「性能が悪い」とか言うヤツなんて、車がわかってないトウシロ丸出しでしょ。でも、パソコン業界ではその程度の人間がいっちょまえに紹介記事書けるんだ。「性能の悪いシステムは使う気にならない」って、てめーなんぞにお使いいただくシステムじゃねーっつーの。あんたの「使う気」がなんぼのもんじゃい。

 だいたい「落ちるときはどんなシステムでも落ちる」、だから安定性は低くていいってのは、「人はどうせ死ぬんだから人殺し全然オッケー」というに等しい暴論。安定性って、その「落ちるとき」を極力減らすことなのに。その安定性だって立派な性能じゃん。

 紹介とか評価って、この場合なら安定性と速度のトレードオフをきちんと示すか、なんらかの示唆を与えることでしょうに。それを仮にもジャーナリストのくせに、勝手な主観で感想文書いて事足れりとする自堕落な安易さよ。いつまでたってもこの手のタコがのたくってられるのが、日本のコンピュータ雑誌の不思議なとこだよね、まったく。


第4回:ウィンドウズ in Times Square


 ぼくは本業が不動産開発関連の調査屋なので、新しい開発物件は義務的に見物にいくのである。こないだ新宿南口にできた、 名前も建物も洗練されているとは言いがたい某商業施設に行ったんだが、導線が不自然だし、入っているショップも特に面白くはないし、なんでこんなに客がくるのか不思議なところだ。レストラン街の店には一様に行列ができてたが、アラン・チャンのティールームを例外としてどれ一つとしてそんな行列すべき店じゃなくて、並んでいる人々からは、とりあえず無難な線でおさめておけば安心という JJ 的大衆的感性がむきだしに実感され、とても情けなかった。

 さて、それはさておき、そのレストラン街は十一階から十四階くらいにある。下でエレベータを待っている時のこと。三台のエレベータはみんな上に向かっていて、相当かかりそうだ。まだかなー、と見ている階数表示版の横に、店内案内用の情報表示ディスプレイがあった。ちょうど八時で主要テナントの一つが閉店となり、表示が切り替わったその瞬間、画面が全部、空色になって、どこかで見たダイヤログボックスが表示された。「XXXエラー:YYY lib がみつかりません (OK)」

 おお! ぼくはバカ笑いをおさえられなかった。なんとここの館内システムは、ウィンドウズで組まれているのか! あの安定性のないOSを、パーソナルユースならともかく、こんな業務用のシステムに使うとは、なんと大胆な!

 しかし、笑い終えてぼーっと見ていても、そのダイヤログボックスは、一向に消える様子がないのだ。なるほど、ここにはリカバリ用システムもなければ、見ている人もいないのか……

 エレベータがやってきたのはその時だった。人がどかどか降りて、さあ乗ろうという段になって、ぼくは急に恐くなった。もしこのエレベータの管制まで、同じシステムでやられていたら、どうしよう…… そんなはずは(たぶん)ないんだけれど、でも十三階まで上がるエレベータは、あのダイヤログボックスが頭に浮かび続け、それはそれはスリリングなものだった。

 十三分後、行列見物に飽きて二階に降りた時にも、さっきのダイヤログボックスは相変わらずだった。


第4回のボツ原稿:馬脚をあらわす。


 馬脚をあらわすということばがあるが、それを見せられる側としても、あまり気持ちのいいものではない。たとえば本誌の第2号112ページ。モバイル・コンピューティングの例として、野球場で調べものをして記事を書く男の物語が書かれている。「最新ニュースに関しては『日経新聞』『PC WEEK』『INTERNET WATCH』あたりから拾ってこれたので、『Word』で原稿書いて、最後に電子メールで編集長に送れば、万事オッケー」……オッケーって、ふーん、あんたは他の新聞や雑誌ネタの切り張りでニュースの原稿を書くわけ。

 乱立しているインターネット雑誌が、粗製濫造なのは知っている。まともな技術ライター不足は百も承知。でもそれを自堕落に肯定した、おちゃらけた舞台裏の実録は見たくなかった。多少のプライドと恥の意識くらいは持ってて欲しかった。もちろんこれはフィクションで、「こういうインターネットの使い方もある」という例であって、実際に記事がこう書かれているわけではない、のかな? が、「野球の試合見ながら片手間でよその雑誌あさってニュース書きました」なんていう発想は、日頃こういうことをしていない人には起きないものだ。ぼくだって本業の調査研究では記事検索も使うけれど、それは事前準備。そこからインタビューとか裏取りとか分析があって、やっと売れる情報になる。これを書いた人は、そういうステップが要ると思ってないのだろう。そしてこれがあっさり掲載されたということは、他の編集陣も、この記事が変だとは思わなかったのだろう。それが日常茶飯事なのだろう。

 だいたいこの人は、コンピュータ雑誌の記事書きをしているくせに、この種の業界情報誌(というのも恥ずかしいくらいの一般誌ばかりだが)に普段から目を通していないのか。締め切り間際に記事検索してネタ探さなきゃならないのか。情けない。そんな人々が書く「ニュース」や「記事」を(金払って)読まされる読者もかわいそうだし、インターネットがこんな馬脚の増殖を許すツールとして使われるなら、いっそそんなものは滅びてしまえばいいと思う。


第5回:先がだれにも見えていない。


 はっきりとした裏づけデータはない。でも、そろそろインターネット/パソコン利用への新規参加者数は、鈍りつつあるのではないだろうか。秋葉原でも、台数は出ているのだろうけれど、以前のむちゃくちゃな熱気のようなものは感じられないし、一部の店が続々とあちこちに別館を出していったときのような、勢力図が目の前で塗り変わっていくような感覚もない。裏手のバッタ屋も、妙に落ち着いてきた感じ。全体に安定期に入ってきたと言うべきか。

 その反映、かどうかは知らない。が、いくつかのコンピュータ関連企業が年末から年始にかけて倒産するケースが見られた。不動産でも何でも、市場が急速に拡大した後で減速が始まった瞬間にこういう現象が起こる。これはコンピュータでも簡単にモデル化できるんだよ。みんなが、将来的な成長を見込んだ形で設備投資とか在庫(または先の注文)とかをしだすと、そういう会社は一挙に赤字に転落するんだ。

 昔、アタリという有名コンピュータ企業があったんだけれど、そこがまさにこういう潰れ方をしたのは、ビジネススクールでは有名な事例。ちなみに、アタリの創業者はその後、コンピュータ仕掛けでしゃべるぬいぐるみを開発して、またまたベンチャー大ヒットを飛ばしたのだけれど、まったく同じパターンでそれを倒産させ、ベンチャーの天才にも学習効果がないことを如実に証明したんだが、これはまた別の話。

 ウィンドウズ95 が出たのが、ほんの一年少々前だと思うと信じられない感じだ。こんなに急速に普及するとは思っていなかった(ぼくは、少なくともアメリカでは Windows3.1 がずっと使用され続けると思っていた。OS の入れ替えなんて面倒なことを、一般人がする/できるものかと思っていた)けれど、これは何だろう、やはりインターフェースの力だろうか。うまく買い換え期と一致したからだろうか。それもそろそろ息切れかな、という感じではある。パソコン関係者と最近会うたびに「ネタが尽きている!」という話になる。「これは! という新展開がない!」

 あとは既存技術の洗練、となると、しばらくは倒産騒ぎが続くだろう、ととりあえず予想してみようか。その先は、まだだれにも見えていない。


第6回:They have a Philosohy, and That's What Makes Them Wonderful


 同じ読むなら、思想と美学のある本がいい。インターネット本は多いけれど、たとえばまず村井純の『インターネット』(岩波新書)を読むべきなのは、そこにわが国草分けならではの思想がうかがえるからだ。知識だけならよそでも得られる。でもそれは他の分野には応用できない。思想や美学は、無限に応用がきく。今のインターネットなんて、ある思想が現象として発現しただけだ。多くのインターネット本は、その現象ばかりに目を奪われてはしゃいでいる。でも現象なんか明日にも変わる。根底の思想は十年たっても変わらない。

 で、世にJAVA言語やショックウェーブ(いずれもホームページでアニメを表示するのに使われることが多い代物)の解説書はいろいろあるけれど、そういう応用のきく思想がうかがえる本は滅多にない。うるまでるび著『踊るホームページ』(ビレッジセンター出版局)は数少ない例外だ。

 たいがいの「とりあえず流行みたいだから JAVA をお勉強しましょう」的な解説書とは無縁。まず、目的意識がはっきりしている。なぜ、何の必要があって JAVA や Shockwave を使い、学ぶのか。だから JAVA や Shockwave の解説も、必要ない部分は触れもせず、必要なところは徹底的でわかりやすい。その前段として、ホームページのあり方、その基礎としてのインターネット自体の解説、なんてあたりを読むと、本書の背後の「思想」が見えてくる。技術はすべて、読者が自分で表現を行うためにあるんだから、そこだけを徹底して教えようという考えかた。だから JAVA のプログラミングなんか教えません(といいつつ、そこそこ解説してあるけど)、Shockwave の細かい話もしません、という本だけれど、こういうのを勉強したい人でも、この本から入れば、「自分がそれで何をしたいのか」という一番大事なところを見失わずに先に進めるだろう。「自分の表現を行う場/メディアとツール」という、インターネットやコンピュータの基本思想が貫徹された好著。こういう本がたくさんあれば、日本のネットの未来も明るいのに。

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YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>
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